十話 妹
カガンの軍が帰ってきたのは深く降り積もった雪が溶け始めた頃だった。ナイマト族は長い冬の間、必死に抵抗を続け散り散りになった残党たちが潜伏して奇襲を仕掛けることもあったらしいが、族長である父の首がとられた時点で負けは決まっていた。
ラド族の軍が歩いた後の地には草すら残らない。そう言われるほど、苛烈な戦いが繰り広げられた。バティルは戦利品を持ってアイナグルの天幕を訪れた。
「ほら、取り戻した品の一部だ」
バティルは螺鈿細工の小箱に入った真珠の耳飾りを渡した。淡い紅色と水色のように見える不思議な光沢の真珠は、母の形見で間違いなかった。
「お母さんの真珠だ…」
思わず、ぽろりと涙が溢れた。取り戻したいと願ったが心の奥で本当に取り戻せるとは信じきれていなかったのかもしれない。
「ほら、さっそくつけてみろ。本当はつけてやりたいが約束があるからな。今、鏡を…」
バティルが鏡に伸ばそうとした手をアイナグルはそっと止めて、バティルに耳飾りを握らせた。
「耳飾りくらいなら、つけさせてあげてもいいですよ」
髪の毛を持ち上げて、耳を露わにする。バティルは顎に手を当て、口角を吊り上げた。
「その仕草は唆るな」
「なっ…! 何言ってるんですか。耳はいつも露出してる部位じゃないですか。私の気が変わらないうちに、耳飾りをつけたらどうですか」
まるでアイナグルがはしたない誘惑をしたかのようなバティルの反応に、アイナグルは顔を真っ赤にして睨みつけた。バティルは「悪い悪い」と笑いながら耳飾りをつけようとする。
バティルの太い指が耳朶に触れる時、アイナグルは恥ずかしいやらくすぐったいやらで頭が沸騰しそうだった。やはり耳飾りをつけてもいいと許したのは早かっただろうかと少し後悔し始める。
「……あの、耳朶をふにふに触るのやめてください。くすぐったいです」
「俺は不器用だからな。耳飾りをつけるという繊細な作業に手間取っているだけだ」
バティルは意地悪な笑みを浮かべている。耳飾りをつけるのに手間取っているというよりは柔らかさを堪能しているようにしか思えない。
たしかにバティルは意地悪な笑みを浮かべてはいたが、それはガイニの笑みから受ける印象とは違っていた。ガイニはアイナグルを徹底的に叩き潰してやろうという鋭さがあったが、バティルには暖かみがあるような気がした。
本当にバティルはアイナグルを愛しているのか。近づいた顔を見る。視線が合いそうになり、アイナグルは咄嗟に視線を逸らした。バティルはアイナグルをあんな風に愛おし気に見つめる男だっただろうか。
アイナグルを誘拐したときのような鋭利さはなかった。
「耳朶の柔らかさなんて珍しくも何ともないでしょう。誰にでもついてるものです。小麦粉を練る時、耳朶くらいの固さにするでしょう?」
「惚れた女のものなら、耳朶だろうが指だろうが愛おしく見えるものだ」
流石に長く触りすぎたと思ったのか、バティルは不器用を自称した割には綺麗に真珠を耳に飾ってくれた。大粒の真珠はアイナグルの耳で揺れている。
「似合っている。さすがはアイナグルだ」
バティルは耳飾りをつけたアイナグルを満足そうに眺めた。アイナグルは高価な真珠が似合うほどの美貌を持っているとは思えないが、バティルはアイナグルならば真珠を似合わせることができると確信しているようだった。
もしやバティルは美的感覚がずれているのでは。ナイマトの美姫をガイニではなくアイナグルだと勘違いしているという仮説の信憑性が上がった。
「あなたにもらったクロテンの帽子も、この真珠も。相応しいと思われる皇妃になるわ」
アイナグルが微笑むとバティルは「楽しみだ」と頷いた。
***
水を汲んでいる奴隷の女をアイナグルは見ていた。シリンは日傘をアイナグルに差していて、隣にいるアクテュスは湿った鼻をアイナグルに押し付け尻尾を振っていた。
「シリン、あの奴隷は…?」
アイナグルが尋ねるとシリンはようやく奴隷に目を向けた。二つの桶に水を汲んで運んでいるが、別の奴隷に足を引っ掛けられて転ばされて水を汲み直さなくてはならないようだった。
「……新入りの奴隷でしょう」
シリンは言葉を濁しながら答えた。今の時期に新入りという意味は、滅ぼされたナイマト族から捕虜にされた人たちのことだ。ナイマト族出身だから他の奴隷仲間にいじめられているのだろう。
「水を粗末にするなど言語道断。鞭で打ちましょうか」
シリンがそう尋ねてアイナグルの反応を伺う。アイナグルは傘から落ちる影から進み出てその奴隷に近づいた。「カトゥン!」と後ろから慌ててシリンが追いかけてくる。
「ねぇ、あなた」
アイナグルが呼びかけると、奴隷は顔を上げた。その顔を見てアイナグルは確信した。少し雰囲気が違うが間違いない。
「ガイニ、あなたガイニでしょう」
アイナグルがそう言うとガイニはハッとしたような表情になった。そして頭からつま先までアイナグルを眺めて驚いたように目を見開く。装飾品をしゃらしゃらと鳴らしながら近づいてきた貴人がアイナグルだとは思わなかったようだ。
「姉さん?」
ガイニは目の前にいる変わったアイナグルの姿を見て、アイナグルだとは信じたくないように視線を逸らした。
「ガイニ、よかった。あなた生きていたのね」
アイナグルは地面に転がった空っぽの桶に目をやった。
「私の天幕へ来て。こんないじめは幼稚だわ」
アイナグルは微笑みかけるがガイニは「あ…あぁ。う…」のような曖昧な返事しかしなかった。言葉というよりは喉から漏れ出る音だ。
「カトゥンの妹君でしたか」
シリンは状況を理解してガイニに憐れむような視線を向けたが、ガイニは頑なにアイナグルにもシリンにも目を合わせなかった。
やや強引にアイナグルはガイニを奴隷たちにあてがわれた天幕から自分の天幕の近くに移し、シリンの下につく皇妃付きの侍女に引き上げた。
「死んでしまったかと思ってたわ。何はともあれ、生きていてよかった。ガイニ」
アイナグルはシリンたち侍女に人払いを命じて天幕にガイニと二人きりにさせた。
「姉さんは、元気そうね」
ガイニはぽつりと呟いた。その声は空虚に響き、心がこもっていないように聞こえる。
「姉さんは攫われてしまって、どこに行ったかもわからなかったけど。ラド族の嫁になっていたのね」
「ええ。色々あったの」
アイナグルは攫われた時を思い出し、感慨深くなった。ガイニ側から見たらアイナグルが急にいなくなったように見えただろう。
「どうして、笑っていられるの?」
ガイニは吐き出すように叫んだ。その時、ようやくガイニと目が合う。真っ黒な瞳は底なしの沼のようだった。
「同族を殺されておいて、どうして笑っていられるのよ。姉さんは薄情者だわ。頭がおかしいのよ、人でなし!」
ガイニの目には憎悪が宿っていた。
「その同族は私を生贄に差し出したわ」
「生贄…そう、生贄よ。狼に供物が捧げられていたら私たちは安泰だったのに」
ガイニは頭を掻きむしるように髪を掴んだ。
「狼との契約を終わらせて生きていくために、最後の生贄が必要だったのに!」
ガイニの叫びにアイナグルは意味を聞き返した。ガイニは怒りと憎しみで錯乱したようになっていたが、なんとか落ち着かせ、言葉の断片を拾うことができた。
ナイマト族は狼との盟約を打ち切りたかった。人ならざるものの力を借りる時代は終わり、真っ当に人間だけの力で生きて行こうとした。
契約を途中で終わりにするために捧げる最後の生贄は、族長の一族の中で「産道を七度通った生に執着した赤子」を捧げること。
そこで初めて、アイナグルは母が多くの死産を経験し八度目のアイナグルを産んだ出産により衰弱した体が力尽きたのだという真実を知った。母が亡くなったのはアイナグルを産んだせいだったのか。
「ナイマトはラドとの因縁を解決するつもりだった。カガンに私を花嫁として差し出して和平の証にするつもりだったのに。ラドは進んでいた縁談を急に反故にして侵攻した」
ガイニの刺繍布が進んでいたのはバティルに嫁入りするためだった。その話は内密に進んでいたのだろう。だが急に破談になったのは、アイナグルが攫われて結婚したからだ。
アイナグルもガイニもラド族から見れば同じナイマトの姫に見えただろうから。アイナグルが先に結婚したことによりガイニは用無しになってしまった。
どうせ狼に食い殺されると虐げられていたアイナグルには、婚姻という重要な情報を伝えられていなかった。




