十一話 罪悪感
「姉さんは頭がおかしいわ。カトゥンなんて呼ばれて、敵の中で贅沢に過ごすなんて」
ガイニは天幕の中を見渡した。この黄金の天幕を見ればアイナグルが豊かな暮らしをしていることがわかるだろう。
「先に私を捨てたのはナイマトの方よ。私は必死に自分の生きる道を模索しただけ。私はここで幸せになったわ。バティル様は私を愛して…いや、尊重してくれる」
「ああ…そう…」
ガイニはまるで興味はないというふうに低い声で返事をした。そしてアイナグルの姿を見て狂ったように笑い出した。
「犯されているのに、そんな惨めな自分に耐えられず、自分は愛されていると思い込んでいるのね」
ガイニは泣くように笑った。甲高い狂った笑い声が響く。
「バティル様は優しくて、私は犯されてなんていないわ!」
アイナグルの必死な言葉をガイニは鼻で笑った。
「そうだと信じたいだけじゃない?」
アイナグルはガイニの言葉で白いスカーフを被せられそうになった時を思い出した。天幕から逃げて押し倒されて、バティルも「すぐに俺のものにするつもりだった」と語った。だが、彼は考えを変えてアイナグルと契約を結ぶことにした。
「違う! 私はまだ彼に何も…」
頭に血がのぼって言いかけた言葉が失言だったと遅れて気づいた。ガイニは「ふーん…」とにやにやと笑いながらアイナグルを見つめ返す。
「なんだ、姉さんはお飾りの妻なんだ。そっか」
先ほどまで憎悪に燃えたような表情をしていたはずなのに今のガイニは晴天のように澄んだ表情をしている。アイナグルの身体がまだ清らかであると悟ったことが、ガイニの中の何かを変えてしまった。
「姉さんの耳の真珠。本当は母様から私が結婚のお祝いとして貰うはずだったのよ」
ガイニの視線が真珠に移ったとき、アイナグルは思わず彼女から真珠を隠すように手で触れていた。まるでバティルが耳飾りをつけてくれた場面をガイニに覗き見られたかのような居心地の悪さがあった。
「この真珠は私のお母さんのものよ。ガイニのお母さんのものではないわ」
ガイニは幼かったから、継母がアイナグルから母の形見を取り上げたことを知らないのかもしれない。
「私にとっては私が貰うはずだった母様の真珠よ」
ガイニは和平のためにバティルに嫁ぐはずだった。真珠の耳飾りもガイニはもらう予定だった。アイナグルが攫われて先にバティルの妻にならなければ、ナイマトは滅ぼされずに済んだのではないか。
両部族にとってもっと平和的な解決策があったのでは。
「カトゥンになったからって生まれながらのラド族の人間と同じになれるわけないわ。だからといって姉さんはナイマトを裏切ったのだから、ナイマト族でもない。半端な人でなしよ」
ガイニの罵倒はアイナグルの胸に突き刺さった。ジャハーンに疑われたときのことを思い出したからだ。どれだけカトゥンとしてラド族のために努めようとも、アイナグルはナイマト出身の敵として見られる。
だが、ナイマト族からも仲間だと思われることはない。
「姉さんがナイマトの誇りを捨てて畜生にも劣る存在に堕ちたのだとしても、私は誇りを捨てないから。私はこの国を崩壊させる一本の矢となる」
ガイニの憎悪に燃えた瞳は、爛々としていた。ガイニは汚らわしいものを見るような瞳でアイナグルを一瞥すると、天幕から出て行った。
***
「最近、耳飾りをつけていないな。気に入らなかったか」
その日、天幕に訪れたバティルは馬乳酒を飲みながらアイナグルを眺めていた。アイナグルは何もつけていない耳朶を触り、そこに耳飾りをつけるために開いていたが今は塞がりかけている穴の感触を確かめる。
「とても大切なものだから、無くしたらと思うと怖いんです」
真珠の耳飾りは今は大事にしまい込んでいる。これも嘘ではなかったが、本当はガイニに対して後ろめたさを感じてしまったからだ。
アイナグルの母のもので、アイナグルが受け継ぐのが当然なのだから堂々と身につけてもいいはずだろう。だが、ガイニの姿が浮かぶ。
ガイニはシリンに厳しく侍女としての仕事を鍛えられながらも、恨めしそうにアイナグルを睨みつけてくる。アイナグルを…というよりはその耳に揺れている耳飾りを見ているようだった。
耳飾りがアイナグルにとって母の形見だったように、ガイニにとっては母から受け取る結婚祝いだった。その耳飾りを見るたびにガイニはきっと「私がバティルの花嫁になるはずだったのに」と思うことだろう。
ずっと今までアイナグルは奪われるばかりだと思っていた。だが、アイナグルも奪う側になってしまったのだ。ガイニの存在はアイナグルの無自覚な罪を象徴していた。
だが、奴隷に落とされたガイニを放っておくこともできなかった。落ちぶれたガイニを見てすっきりすることはなかった。家族の死を願ったりしていない。そう思っていたはずだということを確かめたかった。
「無くすのが怖い…か。耳飾りくらいいくらでもやろうと言いたいが、お前にとってはあれが特別だろう」
「すごい。私のことちょっとはわかってきたんですね」
アイナグルは素直に感心してしまう。バティルは以前なら大量に宝石や装飾品を贈って「無くしても代わりがある」状態にして解決したことにしただろう。
だが、アイナグルがただ宝飾品が好きなのではなく、あの耳飾りだから気に入ったのだとバティルが気づいてくれたことが嬉しかった。ありとあらゆる弓を贈ろうとしていた人から随分と変わった。
「俺と一緒にいる時はつけてくれ。天幕の中でなら安心だろう」
バティルに勧められて、アイナグルはガイニに対する罪悪感のようなものを振り払いながら箱から耳飾りを取り出した。そっと耳周りの髪を持ち上げて耳朶を露わにする。
バティルは嬉しそうに笑いながらアイナグルの耳に真珠を飾った。前回アイナグルが少し怒ったからか、楽しむように耳朶を長く触ることはなかった。
バティルの指の熱が離れていく時、アイナグルはなぜか物足りなさを感じた。そして今自分が何を思ったのか信じられなくて、顔が赤くなる。まともにバティルを見れなかった。
「やはり似合うな」
バティルは満足そうに、まるでアイナグルが広大な湖の絶景であるかのように眺めて酒を楽しんでいる。
「お世辞はいらないですよ。珍しい宝石も、希少な毛皮も、私が着るとなんだか着られているように感じて」
アイナグルが恥ずかしそうに謙遜すると、バティルはそれまで笑っていた顔が真剣な表情に変わった。
「俺が薄っぺらく言葉を飾るとでも? お前には言葉を尽くしてきたつもりだが」
嘘を言っているようには思えなくてアイナグルは余計に照れてしまい目を合わせられなかった。
「どこを見ているんだ。俺はこっちだぞ」
バティルの声がやや不機嫌になった。だが、本気で怒っているというよりは子供みたいに拗ねているようだ。
「あ…あなたは、たくさん妻がいるから褒めるのは慣れているでしょうけどね。私には夫はあなたしかいないし、褒められるのも慣れていないんですよ!」
アイナグルが恥ずかしさを掻き消そうと声を張ると、バティルは眉間を押さえて深く息を吐いた。
「あまり可愛いことを言うな。押し倒したくなるだろ」
「そんなことしたら、心底軽蔑します!」
そう言いながらもアイナグルは本当にバティルが約束を破って一時的な衝動に身を任せるとはもう思えなくなっていた。
前ならば色っぽい冗談に警戒心を剥き出しにしていただろう。むしろこうやって軽口を叩けるのが心地良くもある。
「確かに俺は政治的に複数の妻を抱えているが、これほどまでに心底欲しいと思った女はお前だけだ。アイナグル」
バティルの柔らかい声に心が解かれていくような気がした。バティルにここまで言わせるのなら、確かにアイナグルは一番寵愛されているのだろう。だが、少し反発するような気持ちが生まれていた。
「ナイマトの美姫であるガイニと間違えて攫ったくせに」
ガイニの代わりとしてではなくて、アイナグルとして求められていたら。最初から正しく出会いたかった。
「…は? 間違えた?」
バティルはアイナグルの言葉を聞いて驚いたように目を見開いていた。




