十二話 再会の約束
「アイナグル…お前、俺が間違えたと思っていたのか」
バティルは天を仰いだ。苦々しげに歯を噛み締めている。
「ガイニは有名な美人でした。噂を聞きつけて、ガイニと間違えて攫ったんでしょう」
最初は間違いだったかもしれないが、バティルは間違えたことを悟らせまいとアイナグルを「惚れた女」として徹底して扱ったことはあっぱれだと思う。
「俺は最初に『シムバットの娘、アイナグルだな?』と確認したぞ」
ガイニの美姫の噂がどこかで捻じ曲がりアイナグルということになったのだろうか。
「最初から私を狙ってたってことですか? でもおかしいですよ。私に惚れる要素はどこにもないじゃないですか」
美人で有名だったガイニなら、噂を聞きつけて「惚れた」と求婚する人が現れてもおかしくはないが、アイナグルは虐げられていたから縁談話もないし、噂も流れない。バティルがアイナグルの存在を知る機会はないはずである。
「惚れる要素がないって自分で言うな。俺が惚れたんだから、魅力がある。見る目がないと馬鹿にしているわけではないだろう」
バティルはアイナグルがまだまだ自分好みの傲慢な女ではないことに呆れているようだった。
「じゃあ、どうして惚れたんですか。私たちは会ったこともないのに」
その言葉を口にした瞬間、場の空気が冷え込んだ。まるで扉から吹雪が吹き込んできたみたいに。炉の火は燃えているはずなのに、暖かさを感じなかった。
「……覚えていないのか。俺たちは会ったことがある」
***
血が一滴、また一滴と地に染み込んでいく。歩いた場所を示すように血の跡が続いていた。体を支えるように猟犬がバティルにぴったりとくっついて歩いてくれる。
狩猟の最中に刺客に襲われた。麾下たちとは散り散りになり、バティルはなんとか森の中に逃げ込んだ。だが、落馬した拍子に腕は折るし、額からは血が出るし、混乱して逃げ出した馬は戻ってこない。
刺客を放ったのは兄たちだろう。父の容体が怪しくなりはじめ、次のカガンは誰になるのかを皆が探り始めている時期だった。
バティルは末子だから本営と広大な領地、軍を相続することが決まっていた。兄たちは人民集会でカガンに選ばれる自信がないから、先に弟を消そうとしたのだろう。
「くそ。まさか怪我をするとはな」
馬の扱いは秀でていると思ったが、兄たちは火薬でバティルを亡き者にしようとした。音に驚いた馬が逃げ出したのも仕方がないのかもしれない。
猟犬が不安そうにバティルを見上げる。森はラド族の領地ではなく、敵が潜む土地だった。だが、バティルには視界の悪い森に入って刺客を撒くしか選択肢がなかった。
血が出過ぎたのか視界が滲む。怪我をした部分が熱を持ち始めバティルを苦しめた。やがて、もう歩けなくなりその場に倒れ込む。なんとか木の幹に上半身を預けるが、もう立ち上がれなかった。
猟犬は動かないバティルの周りをうろうろと周り、心配そうな表情を向ける。ここでくたばるのかもしれないという予感があった。
刺客は血の跡に気づくかもしれない。犬も一緒に殺されてしまうかもしれない。
「もうどこへでも好きなところへ行け。しっしっ」
バティルは折れた腕を痛みを堪えながら乱暴に振り回して猟犬を追い払おうとする。しかし、犬は忠義を尽くすかのようにそばから離れない。
だが、バティルの表情を読み取ったのか自分が追い払われようとしたことに気づいたのか、犬は何度か振り返ったあとに駆け出して森の中へと消えて行った。
「それでいい」
バティルひ痛みで顔を歪めながらも笑った。一人になってしまったという寂しさはあるが、可愛がってきた犬を一緒に死なせてしまうことはなくてよかった。これで犬は生き延びたかもしれないという希望を抱くことができる。
日が傾きかけ、森が暗い影に包まれる頃に犬は戻ってきた。
「な…で…」
なんで戻ってきたと叱りたかったが、もう声を張り上げる気力すらなかった。その時、葉と枝が擦れる音が聞こえてバティルは顔を上げた。
そこには幼い少女が驚いたようにバティルを見つめていた。どうやら犬は逃げたのではなく、助けを求めに人を呼んできたらしかった。
だがここはラド族の領地ではない。少女の装束の紋様を見るとそれは敵対しているナイマト族のものだった。助けを求めるとしては最悪の人選だ。
この少女はバティルのことを仲間に知らせに行くだろう。そうすれば殺される。少女は確かめるようにおずおずと近づいてくる。警戒心が緩い。
バティルは少女が近づいてきた隙をつき、力を振り絞って少女を地面に押し倒した。そして首を絞めようとする。見られてしまったなら殺さなくては。自分が殺されてしまう。
少女は何が怒ったのかわからないというように純真な瞳でバティルを見つめていた。首にかけた手に力を込めようとするがうまく力が入らない。見れば手は赤黒く腫れ上がっていて、感覚が薄かった。
こんな幼い少女の細い首を絞める力さえ残っていないのか。
バティルから垂れた血が少女の頬に落ちる。
「…お兄ちゃん、痛くないの?」
今まさに殺されそうだったというのに少女は自分が殺されそうになっていたなんて思わずにバティルの心配をした。それで毒気を抜かれてしまった。もう殺す気も起きない。
バティルは少女の上から退くと、その場に座り込んだ。
「どこへでも行け」
先ほど犬にしたのと同じようにしっしっと追い払う仕草をする。この少女が同族の大人たちに伝えに行き、殺されようとも構わなかった。自分の命はここで尽きるのだろう。
少女は少し怯えたようにバティルを見ると、躊躇いながらも走って逃げて行った。それでいいと犬を逃がそうとした時と同じ気持ちになった。犬は少女について行くことはせずにバティルの隣から動かない。
次にここに人が来る時は、武器を構えたナイマト族たちだろうと思っていたが、少女は一人で戻ってきた。手には清潔な綿布などの布と、茹でて柔らかくした肉に羊の乳を持っていた。
「痛いの、大丈夫?」
少女は血が出ている部分を綿布を押し当て止血し、骨が折れた腕は丈夫な布と添木で固定した。丈夫な布だと思っていたものは、ただの布ではなく刺繍布だった。嫁入り道具にするほど大切なものなのではないか。
「おい。この布は大切なものじゃないのか」
バティルが尋ねると少女は寂しげに笑った。
「私が自由にできるもの、これくらいしかないから」
少女はバティルのことを大人に密告する様子はなく、むしろバティルが回復するまで森にこっそり食べ物を届けてくれた。少女にとっては野良犬を大人にばれぬよう飼う感覚に近いのかもしれない。
やがてなんとか自力で領地に帰れるかどうか…くらいまで回復するとバティルは敵のナイマトの宿営地に近い森からは立ち去ることを決めた。
「もう行っちゃうの?」
バティルが立ち去ることを伝えると少女は泣きそうな顔になった。
「私、あなたと犬がいなくなったらひとりぼっちなの。居場所はなくて、嫌われてるの。お願い、私も連れて行って」
だがラド族の中にはまだ自分を狙う兄たちがいる。自分の身すら守れないのに、敵部族から連れてきた少女を守れる力はまだバティルにはなかった。
「お前を連れて行くことはできない。だが、犬──アクテュスを置いていく。こいつがいればひとりぼっちにはならないだろう」
「…もらえないわ」
少女は涙を拭うが、それでも間に合わずに涙が溢れるのを止められないようだった。
「あげるんじゃない。預けるんだ。お前が大きくなったら、必ずお前を虐げる場所から攫ってやる」
恩を返すということ以上にこの少女に執着しているとバティルは自覚した。いずれこの少女を手に入れるためにどんな手でも使うだろう。刺繍布も貰ってしまったことだし、責任をとって娶ろう。
「お前、名前は」
別れる時になって初めてバティルは少女に名前を尋ねた。
「シムバットの娘、アイナグル」
アイナグルは涙を堪えながら答えた。
「アイナグル、必ず迎えに行くから待っていろ」
欲しい。この少女が欲しい。渇きを癒すような衝動が湧き上がった。




