十三話 解く
バティルから語られた過去の話にアイナグルは夢を見ているようだった。幼い頃の記憶は曖昧だ。辛い日々を送っていたから、自己防衛として忘れてしまっていたのかもしれない。
「ごめんなさい。すっかり忘れていて…」
「俺にとっては人生を変えるような出来事だったが、お前にとっては日常にありふれた小さな善意だったのだろう」
バティルは拗ねたように頬杖をついた。拗ねたという表層の感情に包んで、アイナグルにあまり気負わせないように気遣ってくれていることはわかる。彼にとって大きな出来事を忘れられているという絶望に近い悲しみがあるのがわかった。
アイナグルにとっていきなり誘拐されたと認識していたが、バティルにとっては昔からの約束だったのだ。しかもアイナグルの方から「連れて行って」と頼んでいたらしい。
バティルがアイナグルを懐柔するための都合の良い嘘をついている可能性も考えたが、あの頃のアイナグルなら辛い現実から逃げ出したい一心で敵だろうが人攫いだろうが構わず「連れて行って」と懇願しただろう。
バティルから語られる幼い自分の姿に違和感はなかった。
「あなたにとっては約束を守っただけだったんですね。なら、もっと早く私を攫った事情を説明してくれたらよかったのに。長いことあなたを疑ってきたじゃないですか」
「俺にとっては約束という共通認識があると思っていた。それに俺は以前から『惚れたから攫ってきた』と言っていただろう」
確かにバティルはアイナグルのことを惚れた女と言っていた。だが猜疑心に支配されたアイナグルにとって「惚れた女とはガイニのことだが、アイナグルに間違いを悟らせないようにしていた」という思い込みの強固な物語を作り上げていた。
「…よかった。最初から私として出会えていたんだ」
安心した次の瞬間、また別の疑問が湧いた。
「でも、ガイニとの縁談が進んでいたと聞きましたが?」
緩みかけた糸が一瞬にして固結びになったような心地だった。
「族長とは何度も嫁としてはアイナグルを寄越せと言っていたんだがな。ナイマトはそんな娘はいないの一点張りだった」
父は生贄のアイナグルを手放したくなかったのだろう。
「お前が病か何かで死んでいるんじゃないかと焦ったが、密かに調べさせたらお前は生きているし、もう埒が明かないからお前を攫ってナイマトに婚資を送りつけようと思った」
バティルは強引なやり方で解決しようとしていたらしい。呆れて乾いた笑いが漏れた。
「だがあの日、ナイマトはまだ狼への生贄を続けていた。人間として手を取り合いたいと擦り寄り、だが人ならざるものからの恩恵も捨てられないナイマトと和平を結ぶことはない」
バティルがアイナグルの誘拐を決行した日と狼に捧げる日が偶然にも被った。バティルが間に合ってくれたおかげでアイナグルの今がある。
「ガイニは契約を終わらせるための最後の生贄が必要だと言った。それが、私」
アイナグルは苦悩と共に滲む涙を拭おうとしたが、それよりも先にバティルが拭ってしまった。バティルも咄嗟に出てしまった手を驚いたように見つめていた。
不思議とアイナグルは「触らないで」と怒る気力も湧かない。むしろほのかに嬉しさが湧き上がっていた。
「自分を犠牲にしてまで腐った一族を救いたかったか? お前の優しさは美徳かもしれないが、優しすぎるというのは愚かでもある」
バティルの言葉は冷えていた。だが、青い炎のようにも感じられた。
「自分の優しさを分け与える相手を見誤るな。それに、俺は優しい女は好みじゃない。自分を犠牲にするより、他人を踏み躙ってまで生き残る女が好みだ」
またバティルのアイナグルを「わがままな女に育てたい」という野望の話かと思ったが、その言葉は前に聞いた時よりもアイナグルに深く刺さった。
バティルはアイナグルにかけられた父や継母、ガイニからの虐待による「役に立たなくてはならない」という呪いを許すことで解こうとしてくれていたのだ。
母の産道を七回通って生に執着した呪われた生贄の赤子。母を苦しめ死に追いやって生まれてきたアイナグルを「他人を踏み躙ってまで生き残る女」が好みだと許してくれている。
そんな事情はバティルは知らないだろうに、アイナグルの中に根を張っていた罪悪感が薄まっていく。
「私は、ここで…ラド族の中で生きていてもいいと思いますか」
ラド族にもなれない。ナイマト族でもない。そんな中途半端な身の上だ。だが、バティルは悩むそぶりを見せずに闊達な様子で返した。
「誰に許されなくてもここにいたらいい。文句を言う奴は捻り潰せ」
傲慢な回答だが、草原の男らしくもあった。彼の傲慢なカガンっぷりがアイナグルを救った。たとえどんなに性格が悪くなろうとも、傲慢で、わがままで、残酷になろうともバティルは「それが好みだ」と愛してくれる自信があった。
「お前が新しく引き上げた侍女…ガイニと言ったか。あの女はお前の優しさを分け与えるに値しないと思うがな」
「ガイニがどうかしましたか」
ガイニもまだラドに来てから日が浅い。シリンが厳しく躾けてくれているはずだが、何か粗相があったのかもしれない。アイナグルもジャハーンに「エルケに挨拶に来ない」と無礼を責められた経験があるから、ガイニには同じ間違いをしてほしくなかった。
「『私こそがあなたの花嫁になるはずだった』と言いながら服を脱いで俺のところに飛び込んできた。よくあることだ。賤妾でもいいからカガンの女になりたいという奴がな。もちろん、追い返したぞ?」
ガイニの大胆な行動にアイナグルは言葉を失った。エルケやジャハーンの存在を知ってもあまり危機感を抱かなかったのに、バティルに気を許してしまった今はガイニの存在が女としてのアイナグルの立場を揺らがすことに嫌悪感を感じる。
ガイニはまだアイナグルの身が清いことを知っている。それを利用して女として自分の方が格上だと昔の優位性を取り戻したかったのだろう。
だが、ガイニがナイマトの美姫と呼ばれたのはその美貌を讃えられたからだけではない。貞淑な妻として完璧な性格だったからという側面もある。外にはガイニがアイナグルをいじめていることは漏れていなかった。
ナイマトの姫として、やがてカガンに嫁ぐ予定だったガイニが貞淑さを捨て、服を脱いで誘惑するほど落ちぶれるなんて。侵攻がガイニに落とした影の深さを思い知らされた気がした。
「ガイニがそんなことをするなんて」
アイナグルは驚きとガイニへの憐れみで声が震えた。だが違和感が首をもたげる。ガイニは「私はこの国を崩壊させる一本の矢となる」と言った。その顔は憎悪に燃えていて、復讐を誓っていたようだ。
アイナグルに成り代わってバティルの妻になることがガイニの復讐なのだろうか。最初にガイニがアイナグルが犯されていると決めつけたとき、ガイニはわずかに希望を見出していたのではないか。同じ傷を持つ女同士、和解できなくても傷は舐め合えると。
「カガン、カトゥン。失礼します」
天幕の扉の布が開けられ、シリンが入ってきた。後ろには侍女たちが付き従いその中にはガイニの姿もある。手には飲み物や食べ物があり、配膳をしに来てくれたようだ。
アイナグルはガイニから目を離せなかった。何か嫌な予感がする。アイナグルが弓を手に取った瞬間、ガイニは配膳するふりをして袖に隠していた短刀をバティルに向けて振り上げた。
「近づかないで! 射るわよ!」
アイナグルが警告しようとも、ガイニは止まらなかった。シリンが「カトゥン!?」と状況を飲み込めないまま叫ぶ。
アイナグルはガイニの足元に矢を放つ。矢は床の絨毯を突き抜けて刺さり、一瞬だけガイニの視線を逸らした。その隙をつきバティルがガイニを取り押さえた。
シリンも状況を飲み込めたのか我に帰ったようにガイニを取り押さえ、他の侍女たちが叫び声をあげると天幕の外にいた兵士が飛び込んできてガイニを拘束した。
バティルはガイニを取り押さえながらも、ガイニの手から落ちた短刀を掴む。
「俺の心臓はここだ。見えなかったのか?」
煽るようにバティルは短刀の刃を軽く胸に当てて見せる。バティルの余裕な態度がアイナグルをひやひやと焦らせた。こっちはバティルが殺されてしまうと焦ったのに、当のバティルは笑っている。
ガイニは「許せない」と歯を食いしばって声を漏らしていたが、やがて呪詛ではなく嗚咽のようなものを漏らし始める。兵士たちに連行されたガイニはカガン暗殺未遂の咎で処刑された。
ナイマト出身者からカガン暗殺を試みるものが出てしまったことにより、ジャハーンのようにナイマトを敵視する意見が噴出した。
アイナグルは出来る限りナイマト出身の奴隷を自身のオルドに集め保護したが、ナイマト出身者を一ヶ所に固めると反逆を企てるのではないかと危惧された。
アイナグルが「身の回りの世話にナイマト出身の奴隷を」と望み一部の奴隷がアイナグルのオルドに集まった以外は、各領地にナイマト出身者は散り散りに配置された。決して団結しないように。
ガイニ処刑という衝撃的な事があっても、バティルはいつもと変わりないようにアイナグルの天幕を訪れた。寵愛は変わっていないと周りに示すように。
アイナグルは覚悟を決めて、バティルにこう告げた。
「髪、解いてもいいですよ」
アイナグルは自身の三つ編みの片方を摘んでバティルに差し出す。バティルも髪を解く許可が何を示すのかわからない訳ではなかった。
「いいのか?」
バティルは優しい声色で確認する。アイナグルは静かに頷くと、自分の覚悟を示すように差し出していないもう片方の三つ編みを自分で解いた。
「ほら、早くしないと私が全部解いちゃいますよ。私にここまでさせておいて、触れない臆病者じゃないですよね」
アイナグルは煽るように笑う。傲慢でわがままな女に少しは近づけるだろうか。もうバティルがアイナグルを愛している事実から逃げたくないし、どうやらアイナグルがバティルを愛してしまっているらしいという気持ちからも目を逸らしたくなかった。
「優しく触れたいが、痛い思いをさせるかもしれない。その時は俺の指を噛め。背中に爪を立ててもいい」
バティルの声を聞きながらアイナグルは目を閉じた。そして自分の固い三つ編みがバティルの太い指で解かれていく感覚を静かに感じていた。
眼裏にガイニの姿が浮かぶ。死体だったガイニはゆっくりと立ち上がり目や鼻など身体中の穴という穴から血を流しながらアイナグルに喋りかける。
「復讐を…」
アイナグルは心の中でガイニに呟く。
確かに、私の手の中にも燃え盛る一本の矢がある。
だが、アイナグルはその矢を国に亀裂を生み出すためには使わない。ナイマト族の地位を向上させ、ラド族と「融合」させることでナイマト族の血を繋いでいく。
ガイニは強大な敵を外側から壊そうとした。アイナグルは内側から変えていく。
アイナグルは静かに弓を引く。
***
アイナグル・カトゥンはエルケ・カトゥン亡きあと第一皇后に昇格。生涯をナイマト族の地位向上のために尽力する。カガン亡きあとは、監国として人民集会を開催する。
これは賢后として歴史に名を残した少女のはじまりの物語である。




