シルビア編「エピソード・オブ・クリムゾンブルー Part⑤」
クリムゾンゼストとブルーアイシス。
双竜剣の柄を握った瞬間、ルビィの中へ二つの力が流れ込んできた。
熱く、そして冷たい。
相反する感覚が、両腕から肩へ、胸へ、全身へと駆け巡る。炎に焼かれているようで、同時に氷の中へ沈められているようでもあった。
けれど、不思議と痛みはなかった。むしろ体が軽く、視界が澄んでいる。
鼓動が、剣の奥で響く竜の息吹と重なっていった。
「これが……双竜剣の力……」
わずかに顔を強張らせながらルビィは呟く。
黒ローブの男は、じわりと一歩後退する。仮面の奥の目が、初めて動揺を見せていた。
「馬鹿な……。剣が、自ら主を選んだというのか……?」
ルビィは二本の剣を構えた。
右手の紅の刀身から炎が噴き上がり、左手の蒼からは冷気が漂っている。
「返してもらったわ」
こめかみに青筋を立たせて男を睨む。
「兄様を傷つけて、エリシオンの剣を奪って……。絶対に許さない!」
息を吐いたと同時に踏み込んだ。
自分でも信じられない速度だった。
地を蹴った瞬間、クリムゾンゼストの炎が背中を押し、ブルーアイシスの冷気が足元を滑らせる。
まるで火と氷の道を駆けるように、ルビィは男との距離を一気に詰めた。
「速い……!」
男が咄嗟に後退する。
しかし、ルビィは逃がさない。
右手の炎剣を振るう。紅蓮の軌跡が遺跡の闇を裂いた。
それを男は身を沈めてかわすが、続けて左手の氷剣が迫る。
「はあぁぁっ!」
ブルーアイシスの斬撃が走り、遺跡の石床を凍らせた。
男の足元に霜が広がり、わずかに動きを鈍らせる。
そこへルビィはさらに連撃を叩き込んだ。
炎と氷の双撃が交互に走り、遺跡の空気を赤と青に染めていく。
剣を振るうたびに力が溢れ、自分が強くなったように感じた。
今まで届かなかった場所へ、簡単に届くような気さえした。
「すごい……これなら!」
ルビィの胸に、確かな手応えが生まれた。
勝てる。この力なら、兄を傷つけた相手を倒せる。
しかし——
「力に振り回されているだけだな」
男の声が冷たく響いた。
次の瞬間、ルビィの右手が弾かれる。
丸腰だった男の徒手空拳が唸った。
「っ……!」
炎の斬撃がぶれ、剣の軌道が乱れる。
その隙を突いた男の蹴りが、ルビィの腹にめり込んだ。
「かはっ……!」
目が飛び出しそうなほどに息が詰まる。
体がバランスを崩し、思わず後ずさりしてしまう。
それでも、ルビィは無理やり左手の蒼で反撃した。
氷の刃が横薙ぎに走る。
だが、届かない。
「剣が強くなっただけだ。お前自身は変わっていない」
「そんな……!」
「二刀流の型は悪くない。だが浅い。竜の力を扱うには、技も心も足りん」
男の黒い魔力が膨れ上がる。
「強い武器を握れば強者になれると思ったか、か弱き王女よ」
「違う!」
ルビィは全身を奮い立たせ、再び踏み込む。
炎を纏わせた右の斬撃と、氷を走らせた左の突き。
続けて体を回転させ、双の剣で同時に斬り込む。
だが、男はすべてを見切った。
一撃目は避けられる。
二撃目は弾かれる。
三撃目は、彼女自身の勢いを利用され、体勢を崩された。
「なっ——」
黒い魔力弾が胸元へ叩き込まれる。
「ああぁぁっ!」
ルビィの体が石柱へ打ちつけられた。背中から衝撃が走り、視界が揺れる。
双竜剣の柄が震えた。炎と氷の力はまだ失われていない。むしろ、もっと使えと叫んでいるようだった。
けれど、ルビィの体がついていかない。
腕が重く、呼吸が乱れている。剣を握る指先が痺れて止まらない。
「どうして……」
ルビィは歯を食いしばる。
「わたしを選んだんじゃ、ないの……?」
剣からの応えはなかった。
男がゆっくり近づいてくる。
「選ばれたからといって、扱えるとは限らない」
「……っ」
「お前はまだ、剣に値しない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
値しない。剣に選ばれたとしても、今の自分の力では及ばない。
ルビィは必至でそれを否定しようと、震える膝で立ち上がろうとした。
しかし、男の黒い魔力が彼女の足元を縛る。
「終わりだ」
男が手をかざす。
黒い刃がいくつも生まれ、ルビィへ向けられた。
その時、耳の奥で轟くような声が響いた。
——足りぬ。
(……誰?)
低く、熱を帯びた声。
まるで火山の底から響くような声だった。
——その程度の炎では、何も焼けぬ。
続いて、もうひとつの声が囁く。
——弱い。
こちらは冷たい。
深い氷の底から聞こえてくるような、静かな声。
——その程度の氷では、何も止められぬ。
ルビィの呼吸が止まる。
(あなたたち……まさか……)
右手のクリムゾンゼストが、炎を強める。
左手のブルーアイシスが、冷気を濃くする。
声は、剣の中から聞こえていた。
火竜と氷竜。
双竜剣に宿る、二つの竜の意思。
——力が欲しいか。
火竜の声が問う。
——届かぬ己を、認めるか。
氷竜の声が続く。
「欲しい……」
ルビィはかすれた声で答えた。
その異変に気づき、男の動きが止まる。
(兄様を傷つけたあいつを、止めたい……。この剣を、取り戻したい……。わたしはもう、なにもできないままでいたくない……!)
——ならば燃やせ。我らを受け入れよ。
——ならば凍らせ。我らを解き放て。
火竜が唸り、氷竜が囁く。携えた双竜剣が激しく輝いた。
紅と蒼の光が、ルビィの両腕から全身へ侵食していく。
熱く、そして冷たい。
今度は、痛みがあった。
「あ、あああっ……!」
皮膚の内側を炎が走る。骨の奥を氷が裂く。
心臓が二つの力に掴まれ、無理やり別々の方向へ引き裂かれるような感覚。
男が目を見開いた。
「なにをしている……!? 小娘、その力はお前の体では——」
しかし言葉は轟音に呑まれた。
ルビィの周囲で炎と氷が爆発する。
遺跡の床が赤く焼け、同時に青く凍りつく。
火と氷は混ざることなく、互いに喰らい合いながら、彼女の中で暴れていた。
「いや……やめ……」
ルビィは頭を押さえた。
記憶が、軋む。
庭園の花。クラウスの盾。トーマの優しい笑顔。
王女として呼ばれた名前——ルビィ。
その名前が、炎に焼かれていく。氷に閉ざされていく。
「わたしは……ルビィ……エリシオンの、王女……」
自分に言い聞かせる。
けれど、声が遠い。
——弱き名など焼き払え。
——迷いは凍らせろ。
「違う……捨てたく、ない……兄様……トーマ兄様……」
思い出そうとするたびに、頭の奥が割れるように痛む。
感情が熱で溶け、記憶が氷で砕ける。
何かが壊れ、ルビィの瞳から、涙がこぼれた。
「助け……」
声は最後まで形にならず、次の瞬間、彼女の瞳が赤と青に染まった。
突然、表情が消える。
いや、消えたのではない。別の何かが、そこに浮かんだ。
俯いた顔の口元が、わずかに吊り上がる。
「……うるさいねぇ、ったく」
低い声だった。
ルビィのものではあるも、少なくともこれまでの彼女の声ではなかった。
黒ローブの男が、わずかに後退する。
「お前……」
少女はゆっくりと立ち上がった。
両手には、炎と氷の竜剣。周囲には、赤と青の魔力が渦巻いている。
彼女は首を鳴らすように傾け、瞼を起こして男を睨んだ。
その瞳は、赤と青が混ざって、アメジストのような紫の光を宿していた。
「人様の剣を盗んだ泥棒風情が。偉そうにすんじゃないよ」
「人格が……崩れたのか……?」
男の呟きに、少女は笑った。
獰猛で、荒々しい笑み。
「知らないねぇ」
その瞬間、彼女の姿が消えた。
「なっ——」
男が反応するより早く、クリムゾンゼストが彼の胸元を斬り裂いて炎が爆ぜる。
「ぐあっ!」
続けてブルーアイシスが横薙ぎに走る。
傷口から氷が広がり、男の片腕が凍りついた。
「速さが……違う……!」
男は黒い魔力弾を放つ。
だが、少女は笑いながら踏み込んだ。
右の剣で黒い魔力を焼き払い、左の剣で残滓を凍らせる。
まるで防御を捨てた、力で押し潰すような突破だった。
「さっきまでの威勢はどうしたよ!」
少女は二本の剣を交差させる。
炎と氷が竜の顎のように開いた。
「逃げんな!」
双剣が振り下ろされる。
遺跡の壁が砕け、石柱が吹き飛び、男の周囲を炎と氷が同時に飲み込んだ。
「馬鹿な……竜の力を、ここまで……!」
男は防御結界を展開する。
だが、クリムゾンゼストの炎が結界を焼き、ブルーアイシスの冷気がその亀裂を凍らせて砕いた。
少女はその隙間へ踏み込む。
「終わりだっ!」
低く呟き、二本の剣を突き出した。
炎剣が胸を貫き、氷剣が腹を貫く。
「が……っ」
男の仮面が割れた。
その奥の顔が、恐怖に歪んでいる。
「竜に……呑まれた、化け物め……」
「化け物?」
少女は眉をひそめる。
そして、にやりと笑った。
「褒め言葉として受け取っとく」
剣を引き抜く。
男の体が炎に包まれ、次の瞬間、氷に閉ざされた。
紅と蒼の光が交差し、黒ローブの男は砕け散るように消滅した。
戦いは終わった。
遺跡には、焼け焦げた跡と凍りついた石だけが残る。
少女はしばらく立っていた。
双竜剣の光は徐々に弱まり、炎と氷の魔力も静まっていく。
同時に、彼女の体から力が抜けた。
「……っ」
膝から崩れ、地べたに座り込む。
頭の中が白くなり、ひどく朦朧としている。
「ここ……どこだ……?」
少女は額を押さえた。
何か、大切なことを忘れている気がする。
誰かの顔。城……花、甘い菓子。
どれも霧の向こうにあって、霞んで見えない。手を伸ばしても、届かない。
「……わからん」
苛立ちが込み上げる。不安を隠すように、少女は荒く息を吐いた。
手元には、紅くゆらめく剣と、蒼く静かな剣。
双竜剣——己の相棒。これだけははっきりとわかっていた。
「ったく……まだ思うように体が動かない」
立ち上がろうとして、ふらつく。それでも、倒れるのは嫌だった。
誰かに守られるのは嫌だ。そんな感情だけが、なぜか強く残っている。
少女は剣を握り直し、遺跡の外へ向かって歩き出した。
月明かりが、崩れた遺跡を照らしている。
遠くには、エリシオン城の灯りが見えた。
胸の奥に残っているのは、焼け焦げた怒りと、凍りついた空白だけ。
「……ル……ビ」
少女は記憶の彼方に見え隠れしていた言葉を呟く。
だがそれはすぐに掻き消えた。
そして一度瞳を閉じてから、強く見開き、薄らと笑みを浮かべる。
「そうさね。アタイの名はシルビア」
なぜその名が浮かんだのか、彼女自身にもわからない。けれど、口は自然に動いていた。
その瞬間、紅と蒼の剣がわずかに震えた。まるで、その名を受け入れるように。
王女ルビィは、その夜、消えた。
火竜と氷竜の力を宿す双剣士。荒々しく、誇り高く、誰にも縛られない少女。
後にシルビアと名乗る剣士が、そこで生まれた。




