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シルビア編「エピソード・オブ・クリムゾンブルー Part①」

 この話は、陸徒たちがミドラディアスへ訪れる、十年前から始まる。


 ——エリシオン王国。

 西方の海に浮かぶ島国であり、三大国家の中では最も小さな領土を持つ国。

 鉱山から採れる希少金属。精密な機械工学。魔力伝導に優れた武具。そして、他国の追随を許さぬ工業技術。

 世界一の工業国。その中心に建つ首城は、鈍色の外壁と青銅色の尖塔を持つ、優美でありながら堅牢な城だった。

 城の奥には工房区画が広がり、日夜、鍛冶師や技術者たちが新たな武具の開発に励んでいる。

 王城であり、同時に巨大な研究施設でもある。それが、エリシオンという国の象徴だった。


 この国を治めるエリシオン王には、3人の子がいた。

 長男、クラウス。

 17歳にして剣と盾を自在に扱う、気高き王子。近衛騎士たちからも一目置かれ、次代の王として期待されている。

 次男、トーマ。

 14歳。武芸の才には恵まれなかったが、学問と技術への理解は深く、王国工房の技術者たちとも対等に議論するほどの才覚を持っていた。争いを好まぬ、心優しい少年でもある。

 そして三女、ルビィ。

 12歳。武芸の才も、学才も、兄たちほど目立つものはなかった。けれど城の誰もが、彼女を愛していた。

 よく笑い、よく泣き、花と小鳥と甘い菓子が好きな王女。

 城の庭園で花の世話をする姿は、エリシオン城の日常の中でも、最も穏やかな光景のひとつだった。


「ふふっ、今日も綺麗に咲いてる」


 この日も、ルビィは庭園にいた。

 その名の通り、ルビーのような鮮やかな真紅の髪をなびかせ、ブリキの小さなじょうろを手に花壇へ水を注いでいる。

 赤、白、黄色、淡い紫。色とりどりの花が、朝の光を受けて揺れていた。


「あなたたちも、ちゃんと大きくなるのよ」


 花に話しかけながら、ルビィは満足そうに微笑む。

 王女らしい振る舞いを求められる場では、少し緊張してしまう。

 けれど、庭園にいる時だけは自然体でいられた。

 ——その時。

 茂みの奥で、何かが動いた。


「……?」


 ルビィは顔を上げる。

 風ではない。小鳥でもない。

 草を押し分けるような、重く湿った音。


「誰か、いるの?」


 問いかけても返事はない。代わりに、低い唸り声が聞こえた。

 黒い毛並み。鋭い牙。濁った黄色い瞳。茂みの中から現れたのは、獣型のモンスターだった。


「ひっ……」


 ルビィの手から、じょうろが落ちた。金属が石畳に当たり、乾いた音を立てる。

 逃げなければ。そう思うのに、足が動かない。

 声を出さなければ。そう思うのに、喉が震えるだけだった。

 モンスターが、ゆっくりと近づいてくる。

 グルルルと声をあげ、牙の間から涎が垂れた。


「い、いや……」


 ルビィは後ずさる。

 だが、足が花壇の縁に引っかかり、その場に尻もちをついてしまった。

 目の前で、モンスターが飛びかかる姿勢を取る。

 その瞬間。


「ルビィ!」


 鋭い声と共に、銀色の影が割り込んだ。

 強硬な盾が、モンスターの爪を受け止める。激しい衝撃音が庭園に響いた。

 ルビィの前に立っていたのは、クラウスだった。


「兄様……!」

「下がっていろ」


 クラウスは落ち着きのある声で短く告げる。

 けれど、盾を握る腕には確かな力が込められていた。

 モンスターが唸り、再び飛び掛かって爪を振るう。

 クラウスは盾で受け流し、そのまま素早く踏み込んだ。

 閃いた剣が一撃目で前脚を払い、二撃目で首元へ刃を通す。

 モンスターは短い悲鳴を上げ、黒い霧のように崩れて消えた。

 庭園に静けさが戻る。


「ルビィ、怪我はないか?」


 青と銀の鎧を纏い、水色の髪をなびかせたクラウスが優しく振り返る。

 ルビィは震えたまま、兄を見上げていた。


「わ、わたし……なにも、できなかった……」


 それは、恐怖が収まった後に押し寄せてきた悔しさ。

 目の前に危険があった。なのに、立てなかった。声も出せなかった。

 兄が来てくれなければ、自分はどうなっていたのか。

 そう考えた瞬間、急に涙が溢れた。


「怖かったのなら、それでいい」


 クラウスは膝をつき、精悍な眼差しでルビィの目線に合わせる。


「怖いと感じることは、恥ではない」

「でも……兄様は怖くなかった」

「怖かったさ」

「うそ」

「本当だ」


 クラウスは穏やかに微笑む。


「お前になにかあったらと思うと、心臓が止まりそうだった」

「兄様でも?」

「ああ。俺でもだ」


 ルビィは涙を拭いながら、兄の盾を見る。

 爪の跡が、深く刻まれていた。


「兄様は……どうして、動けるの?」

「守りたいものがあるからだ」

「守りたい、もの……」

「恐怖が消えるわけではない。だが、それより大切なものがある時、人は一歩前へ出られる」


 その言葉は、幼い王女の胸に深く残った。

 しばらく黙っていたルビィは、やがて小さな声で言った。


「わたしも……強くなりたい」

「ルビィ?」

「もう、守られるだけは嫌。わたしも、誰かを守れるようになりたい!」


 クラウスは少し驚いたように目を開く。

 けれど、すぐに優しい顔になった。


「本気か?」

「本気」

「剣の稽古は楽ではないぞ」

「やる」

「手も足も痛くなる」

「やる」

「泣くかもしれない」

「……泣いても、やる」


 すべて食い気味に応えるルビィは、涙の跡が残る顔で、真っ直ぐに兄を見つめた。

 クラウスは柔らかく、落ち着ききった表情で静かに頷く。


「ならば、俺が教えよう」


 その日から、ルビィの剣術修行が始まった。

 最初に渡されたのは、練習用の木剣。

 城の訓練場。近衛騎士たちが稽古をする場所の隅で、ルビィは両手で木剣を握っていた。


「まずは構えだ」


 クラウスは盾を持たず、木剣だけを手にしてルビィと向き合う。


「足を肩幅に。重心は低くしすぎない。相手の動きを見ろ。剣だけを見るな」

「はい!」


 ルビィは真剣な顔で頷く。

 だが、その構えはぎこちない。剣の重みで腕が少し下がっている。


「腕だけで持つな。体で支えろ」

「体で……?」

「剣は腕で振るうものではない。足、腰、肩、腕。全部が繋がって初めて力になる」

「む、難しい……」


 クラウスは口元で笑った。


「最初からできる者はいない」

「兄様も?」

「俺もだ」

「ほんと?」

「ああ。最初の頃は、父上に何度も転ばされた」


 それを聞いて、ルビィは少しだけ笑う。


「兄様にも、そんな時があったんだ」

「当然だ。強さとは、失敗を積み重ねた先にある」


 クラウスは木剣を軽く構えた。


「打ち込んでこい」

「はい!」


 ルビィは勢いよく踏み込み、木剣を振った。

 だが、クラウスは半歩横へ動いただけでそれをかわす。

 そのまま木剣の柄で軽く腕を叩いた。


「あいたっ」

「大振りだ。相手に読まれる」

「もう一回!」


 何度も打ち込む。

 かわされる。弾かれる。転ぶ。

 それでも、ルビィは立ち上がった。


 最初の数日は、手のひらの皮がむけた。

 腕は筋肉痛で上がらない。足は何度ももつれ、膝には小さな傷が増えた。体中を走る痛みで、簡単に起き上がれない朝が幾日も続いた。

 だがルビィの決心が揺らぐとこはなく、訓練場へ通い続けた。

 クラウスの指導は厳しく、王女だからと甘やかすことはしない。

 しかし、決して突き放すこともなかった。


「ルビィ、呼吸が乱れている」

「はぁ、はぁ……まだ、できます」

「できるかではない。乱れた呼吸のまま剣を振れば、次の一撃で崩れる」

「でも、止まったら負けちゃう」

「止まることと、整えることは違う」


 クラウスは自分の胸に手を当てる。


「戦いでは、熱くなりすぎるな。冷静さを失えば、守れるものも守れなくなる」

「……兄様は、いつも冷静だもんね」

「そう見えるだけだ」

「そうなの?」

「ああ。心の中では、焦ることもある。怒ることもある。だが、剣を握る時は、それを剣先にそのまま乗せてはいけない」


 ルビィは固い表情で口元を微かに震わせながら、木剣を見つめる。


「難しい……」

「だから稽古する」


 クラウスは小さく微笑んだ。


 


 修行を始めて数週間が経った頃、ルビィは唐突にあることを言い出す。


「兄様、わたし、二刀流がいい」


 クラウスは珍しく、怪訝な顔をして言葉を失った。


「……二刀流?」

「うん。剣を二本持って戦うの」

「なぜだ?」

「かっこいいから!」


 ルビィはすでに用意していた二本の木剣を持ちながら、目を輝かせて即答した。

 クラウスは難しい表情で額に手を当てる。

 近くでその様子を見ていたトーマが、思わず小さく笑った。


「ルビィらしい理由だね」

「トーマ兄様、笑わないで」

「ごめん。でも、いいと思うよ。理由は単純でも、憧れは大事だから」


 トーマは、ややクセ毛の向日葵色の髪を指で解いてから、柔らかく微笑んだ。

 クラウスは一点を見つめながら少し考え込む。

 そして、真面目な顔でルビィを見た。


「二刀流は簡単ではない」

「わかってる」

「いや、わかっていない。一本の剣すら扱い切れない者が、二本を持てば動きは乱れる。攻撃の手数と速度には優れるが、盾を持たない分、守りは薄くなる」

「守りが、薄くなる……」

「お前が目指すのは、誰かを守るための剣だろう。ならば、守りを捨てる戦い方は危うい」

「でも……」


 ルビィは二本の木剣を見つめる。


「わたし、動いて守りたい」

「動いて?」

「兄様みたいに盾で守るのは、たぶんわたしには向いてない。わたしは、誰かの前に立つだけじゃなくて、危ないところへ走っていきたい。敵が近づく前に、止めたい」


 クラウスは黙って聞いていた。


「だから、二本がいい。速く動いて、いっぱい斬って、誰かが傷つく前に止めるの」


 憧れが先行する幼い言葉だった。理屈としては拙い。

 だが、そこには確かな意思があった。

 クラウスは静かに息を吐く。


「……わかった」

「いいの?」

「ただし、条件がある」

「条件?」

「二刀流を学ぶなら、まず守りを学べ。攻めるためではなく、生き残るために二本を使え。片方で斬り、片方で受ける。足を止めない。相手の呼吸を読む。できるか?」

「できる!」

「即答するな」

「できます!」


 クラウスは眉をひそめて鼻を鳴らした。


「よし。ならば今日から、少しずつ教える」


 ルビィは嬉しそうに二本の木剣を握った。


「よろしくお願いします、兄様!」


 それから、稽古はさらに厳しくなった。

 一本目で受け、二本目で返す。

 右を振った直後に左を構える。攻めた後、すぐに退く。

 剣を二本持つことで、選択肢は増える。だが、迷いも増える。


「遅い」

「あうっ!」


 クラウスの木剣が、ルビィの肩を叩く。


「右で攻めた後、左が下がっている。そこを狙われる」

「もう一回!」

「足が止まっている」

「もう一回!」

「視線が剣に寄りすぎだ」

「もう一回!」


 何度も転ぶ。何度も打たれる。何度も悔し涙を流す。

 それでも、ルビィは二本の木剣を手放さなかった。

 トーマは時折、訓練場の端でその様子を見ていた。手には本や設計図を抱えている。


「ルビィ、よく続くね」

「トーマ兄様、見てたの?」

「うん。すごいと思って」

「まだ全然だよ。兄様には一回も当たらないし」

「でも、前よりずっと動きが綺麗になってる」

「ほんと?」

「うん。僕は武芸のことはよくわからないけど、前より迷いが少ない気がする」


 ルビィは少し照れたように笑った。


「トーマ兄様にそう言われると、なんか嬉しい」

「僕は本当のことしか言わないよ」

「うん。知ってる」


 そのやり取りを、クラウスは神妙な顔で静かに見ていた。

 ルビィの剣はまだ未熟だ。危うさもある。

 しかし、最初に木剣を握った時とは違う。

 彼女は、確かに変わり始めていた。 

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