波美編「エピソード・オブ・ファイティングガール Part③終」
「待ってよ、お兄ちゃん!」
視界に映る影が、徐々に大きくなっていく。距離が縮まる。
波美は手を伸ばした。
届く——だが、いない。
そこにあったはずの背中が、消えていた。
「どうして……幻、だったの?」
足を止め、周囲を見渡すも、どこにもいない。
そんな、さっきまで、確かにそこに……。
息が乱れる中での静寂。
風の音だけが、やけに大きく響いた。
それでも、波美は諦めずに兄の影を探す。
どれだけ走ったのかわからない。
気がつけば夜も明け、景色が変わっていた。
木々が視界を覆う。見知らぬ森だ。
「ここ……どこ?」
ひとり呟く波美。だが答えはない。
ただ、胸の奥に残る虚しさだけが、消えなかった。
やっと見つけたと、思ったのに。
波美の中で感情が渦巻く。悔しさと、焦り。そして——迷い。
そこへ、波美の近くに人の気配を感じ取る。
「——迷っている顔だな」
それと同時に声がした。背後だ。
波美は慌てて振り返る。
いたのは、ひとりの男だった。
歳の頃は50を過ぎたあたりだろうか。屈強な体つきをしているが、この世界であれば見慣れた風貌かもしれない。
けど、なにこの人——全く隙がない。
ただ立っているだけなのに、この肌に刺さるような、異様な空気。
「探しものか?」
顔が強張っている波美をよそ目に、男は言葉を続ける。
「えっ……あ、はい」
微かな警戒心を維持しつつも、波美は応えた。
「見つからなかった、か」
波美は言葉を詰まらせる。
「ふっ。顔に出てる」
男は少し表情を緩め、肩をすくめた。
「力はある。だが——使い方を知らん顔だ」
男は言いながら、背負っていた薪を下ろす。
そして唐突に構え始めた。
「さぁ、来い」
「えっ?」
「見せてみろ、その拳を」
戸惑いを見せながらも、言われるまま波美は荷物を下ろし、同じように構える。
そして踏み込んだ。
初手の一撃——だが、当たらない。
「ウソでしょ。速いっ」
次の瞬間、波美の体勢が崩される。
そのまま地面に叩きつけられた。
「なるほど、筋はいい。だが、まだ力任せだな」
男の淡々とした声。
あたしの技が通用しない。会った瞬間から気づいてはいたけど、この人……只者じゃない。
けど、ひとつわかった。手加減なんて、必要ない。
波美は呼吸を整え、軽く後方にステップした。
そして地に着いた瞬間、勢いよく踏み込んで突進する。
「ほぅ」
目にも止まらぬ速さで、波美は男に拳を叩き込むが、防がれてしまった。
男は波美の拳にはめられたグローブに視線を落とす。
「その籠手……剛拳ラウムブリットか」
「えっ、このグローブを、知っているんですか?」
「その昔、旅の途中で訪れたアルファード城で、王に献上したものでな」
「ってことは、まさかあなたが——」
「どういう経緯でそれを手に入れたかは知らんが、どうやら、いい持ち主と出会えたようだな」
男は波美の武器に語りかけるように微笑んだ。
「いいか」
男は再び静かに構える。
「拳は、振るうものじゃない」
えっ、その言葉は……。
「乗せるものだ」
波美は何かに気づきかける。
そしてゆっくりと拳を突き出す。
風が鳴る。
「力は、流す。止めるな。感じろ」
短い言葉だけど、重い。
なんだ。あたし、ヴィータちゃんに教えておきながら、自分でちゃんと気づけていなかったんだ。
その瞬間、突き出した波美の拳が、軽くなる。
魔族を倒した時と同じ。大地の力が伝わる感覚。
流れて——乗る。
「そうだ」
男が精悍な顔つきで頷いた。
「不思議な力だな。大地の力、と言うべきか」
男は、波美の中にある"特別"を見抜いていたようだ。
「いいか。大地の言葉に、耳を傾けるんだ」
「大地の、言葉……」
「わかっているはずだ。さて、もう大丈夫そうだな。さぁ行け」
「あ、えっと——」
「カイエンだ」
「あたし、波美。ありがとうございます。カイエン師匠!」
「迷うなよ」
「はいっ!」
そう言って、波美は走り出す。
迷わない。
波美の心の拳は、確かに前を向いていた。
(……師匠、か。そんな柄ではないんだがな。まぁ、悪くない)
走りゆく波美の背中を見つめ、男は腕を組みながら小さく笑みを溢した。
あれから波美は、行く先々の村や町を訪ねては、決して諦めることなく、兄を探していた。
そして最後に訪れた町。エルグランド領の東端にある、小さな港町パッソ。
町に足を踏み入れる波美。
満ち溢れる潮の匂い。行き交う人々の騒めき。船の軋む音。
いつもと変わらない日常のはずなのに、波美の心だけが、焦りの色で染まっていた。
「黒い服の男?」
これまで幾度となく声をかけた言葉。
ここも不発……よね。返ってくる言葉はわかっている。
波美の中に、再び落胆の想いが生まれようとしたその時——
「ああ、見たぜ。つい最近な。町の外れの小屋にいるはずだ」
やっと——繋がった。
胸の鼓動が早くなる。はやる気持ちを抑えられない。
すぐさま波美は当該の場所へ走り出した。
——町の外れ。
人気のない細道を抜けた先に、小さな小屋があった。
古びた木造の建物。風に揺れる扉。
「……ここね」
波美の足が止まる。さっきまでの勢いが、嘘みたいに消えていた。
もし、あたしの勘違いだったら……。
胸が締め付けられる。怖い。
でも、ここまで来て、引き返すなんてできない。
もう、迷わないって、決めたから。
波美は息を呑み、ゆっくりと扉に手をかけた。
軋む音とともに、それが開かれる。
中は静かだった。外の雑音が嘘のように。
わずかな光が差し込む室内。その奥にあるベッド。
そして——
「おにい、ちゃん……?」
声が漏れた。
そこに——いた。間違いなく喬介だった。
目を閉じて、静かに横たわっている。
動かない。けど、生きている。
「……よかった。ほんとに」
膝から力が抜ける。瞳から涙が溢れ出てくる。
やっと。やっと……会えた。
手を伸ばす。そっと、その手に触れる。
温かい……ちゃんと、ここにいる。
「……波美、か」
微かな声に、はっとして顔を上げる。
喬介が、ゆっくりと目を開けていた。
「……お兄ちゃん……!」
堪えていたものが、全部溢れる。
笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからない。
「心配したんだから。お兄ちゃんが死んだかもしれないって聞いて、信じられなくて。あたし……探したんだよ。いっぱい……いっぱい!」
あたしは溢れ出る想いと一緒に、止めどなく出る言葉を片っ端から並べてしまった。
「……そうか」
なのにお兄ちゃんは、口元を緩めただけの、あいも変わらずの淡白な応え。
でも、それだけで十分伝わったよ。
ふと波美が部屋中を見渡したその時、何かに気づく。
わずかな痕跡。
隅々まで清掃された室内。清潔に保たれているシーツ。喬介の隣の棚に置かれた、飲料水と療養食。
誰かが、お兄ちゃんを助けてくれたんだ。
この時の波美の心の中は、不穏や疑念ではなく——
「……ありがとう」
感謝だった。
翌朝、喬介は全快し、再び立ち上がる。
「行くぞ、波美。アルファード城、そこで魔族と決着だ」
「うん!」
波美は精悍な顔で頷いた。
大丈夫。大切な人を守るために、前へ進むために。
あたしはもう、迷わない。
その拳に、確かな力を宿して。




