波美編「エピソード・オブ・ファイティングガール Part②」
果てしなく続く空で、小さな雲が複数、ゆっくりと泳いでいる。
魔族の襲撃があったあの日から数日。
波美は村の復興も兼ねて、しばらく滞在していた。
それも手伝ってか、村は少しずつ落ち着きを取り戻している。
「波美お姉ちゃん見て! できたっ!」
ヴィータの拳が、一分の乱れなくまっすぐに伸びる。
波美お姉ちゃんか。ふふっ、なんかいい響き。
心の中でニヤニヤと有頂天になる。
彼女の成長は目まぐるしく、波美の教えをどんどん吸収していた。
「うん、いいじゃない!」
波美の顔から、自然と笑みがこぼれる。
まるであの日のことが嘘みたいだった。
でも——
ふと拳を見つめる。
あの力……なんだったんだろ。
まるで、大地から力が伝わってくるような。地脈の力を使った時に、似ている感じ。
わからない。わからないけど、魔族を倒せたのは事実。
うん——大丈夫。
波美は表情を正した。
「よぉし、それじゃ次の特訓行ってみようか!」
きっと、前に進めている。
その日の夜。
一緒に寝泊まりさせてもらっている、ヴィータの自宅。波美はふと目が覚めた。
隣では、ヴィータが気持ちよさそうにすやすやと寝ている。
その寝顔を見ながら、波美は表情を緩めた。
可愛い。妹ができた気分。お兄ちゃんも、こんな気持ちだったりしてくれていたのかな。
そう思いながらも、波美の心は決まっていた。
ゆっくりとベッドから身を起こし、静かに荷物をまとめる。
「……ヴィータちゃん、ごめんね。でもあたし、行かなきゃ」
小さく呟き、ヴィータの頭を撫でる。
すぐさま精悍な顔つきになり、家を出ていった。
虫の鳴き声。暗闇に瞬く数多の星々。
波美は両手を仰いで深呼吸をする。
「いつまでもこうしてはいられない。早くお兄ちゃんを見つけないと」
背筋を伸ばし、荷物を背負った。
「……波美お姉ちゃん?」
突然、背後からの声。
振り返るとそこには、眠気眼をこすったヴィータが扉の前に立っていた。
「ヴィータちゃん、ごめん起こしちゃったかな」
「波美お姉ちゃん、もう、いくの?」
ヴィータの寂しそうな表情の裏には、どこか悟ったような想いも感じ取れた。
波美は眉を開いて口元を緩め、ヴィータの前で腰を下ろした。
「……あたしにも、守りたい人がいてね。今その人を探しているの。だから——」
「守りたい人」
ヴィータは一瞬思いを巡らせて視線を落とす。
「きっと、見つかるよ!」
すぐに力のふっと抜けたような柔らかい笑顔になった。
「うん、ありがと! それじゃ、行くね」
「気をつけてね。波美お姉ちゃん!」
ヴィータは大きく手を振り、波美の背中を見送った。
そうだね。ヴィータちゃんの想いに応えるためにも、前を向かなきゃ。
あたし、頑張るよ。
波美は歩みを進めながら、右手を掲げて拳を作った。
タフト村を出て、波美は東の方角へ旅路を行く。
やがて街道の先に、大きな川が見えてきた。
アルファード領の国境を流れる、幅の広い川だ。
その上には石造りの大橋が架かっている。
橋の向こう側には、関所が構えられており、さらにその先に別の街道が続いていた。
「へぇ、ここの国境は橋なんだ」
この先はエルグランドか。お兄ちゃんがそっちまで行っているのかはわからない。
けど、あたしは見つけるまでどこまでも行く。
波美は表情を正し、荷物を背負い直す。
橋へ近づくと、そこにはすでに多くの人々がいた。
荷車を引く者。
馬に荷物を積ませる者。
大きな布袋を背負う者。
どうやら、国境を越えてエルグランドへ向かう、行商人の一団らしい。
「お嬢ちゃん、ひとり旅かい?」
「え? あ、はい。そんな感じです」
「物騒な時期だ。気をつけなよ。最近は魔物だけじゃなく、恐ろしい怪物の噂も聞くからね」
中年の商人が、心配そうに声をかけてきた。
波美は軽く頭を下げる。
恐ろしい怪物。たぶん魔族のことね。
シェリルが頑張っているから、こうしてみんなにもちゃんと伝わってる。
でも、だからといって、普段の生活を止めるわけには行かないものね。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。あたし、こう見えて結構強いので」
自分で何言っちゃってるんだか。
だけど、せめてこの目に映る人だけは、あたしの力で守りたい。
「ははっ、頼もしいねぇ」
商人は笑い、荷車を押して橋へと進んでいった。
波美もその後に続く。
橋の上から見下ろす川は、思ったよりも流れが速かった。
水面は陽の光を反射してきらめいている。
だが、その美しさとは裏腹に、底の見えない深さがあった。
「うっひゃあ、落ちたらさすがにヤバそう……」
そんなことを思った、その瞬間だった。
なんだろ、この感じ。空気が、張り詰めている。
胸騒ぎ。そして、突如足に震動が伝わってきた。
——ゴゴゴゴゴッ!!
「えっ!?」
地面の微弱な震えが徐々に大きくなり、大地が鳴く。
これって——まさか。
体を揺さぶられるような地響き。橋の軋む音。皆が騒ぎ立てながら一斉に身を屈める。
「な、なんだ!?」
「地震だ! 荷を捨てろ!」
「橋が、橋が崩れるぞ!」
荷車が横倒しになり、商人たちの悲鳴が上がった。
波美は反射的に足を踏ん張った。
しかし、揺れは収まらない。
雷鳴の如き轟音を立てながら、橋の中央部に大きな亀裂が入り、石材がぼろぼろと崩れ始める。
このままでは、橋の上にいる人たちごと落ちる。
そう判断した瞬間、波美は剛拳ラウムブリットをはめた拳を握り締めた。
あの時、ヴィータちゃんを守ろうと必死だった。
魔族を倒した力。あれの使い方、理屈なんて知らない——でも。
そんなの、関係ない。
ほんのわずかな一瞬、波美の中で暖かな光が囁いた。大地の奥底から押し返してくるような力が蘇る。
「お願い……!」
波美は橋の端へ駆け寄ると、拳を石畳へ叩きつけた。
瞬間、橋の下から巨大な岩場が隆起した。
川底から突き上がるようにして、いくつもの岩柱が伸びる。
崩れかけていた橋の腹を、下から強引に支えた。
「うそ……」
「橋が、止まったぞ!」
「あの子がやったのか!?」
商人たちが驚きの声を上げる。
しかし波美は、歯を食いしばっていた。
「くっ……重い……!」
拳を通して、橋の重さが伝わってくるようだった。
岩場を作り出しただけではない。
崩れようとする橋を、大地ごと押し留めている。
その負荷が、腕から肩、背中へと一気にのしかかった。
「みんな、早く渡って! 長くはもたないから!」
「急げ!」
「荷物は置いていけ! 命が先だ!」
商人たちは叫びながら、次々と橋を渡り始めた。
波美は拳を地面に押しつけたまま、必死に橋を支える。
だが、その時。
「きゃあああっ!」
「父ちゃん!」
橋の端にいた数人が、崩れた石材とともに川へ落ちた。
激しい水しぶきが上がる。
「っ!」
波美は目を見開いた。
この橋を支えていなきゃ、まだ橋の上にいる人たちが危ない。でも川に落ちた人たちも、このままじゃ流される。
どちらかを選ばなければならない。
ほんの一瞬、波美の胸に迷いが生まれた。
いや——違う。
選ぶことなんて、ない。
「あたしは、どっちも助ける!」
波美は叫んだ。
拳に込めていた力を、さらに地面へ叩き込む。
橋を支えていた岩柱が太くなり、亀裂の走った石橋を固定するように広がった。
同時に波美は、立ち上がって橋の欄干へ駆ける。
「お嬢ちゃん、無茶だ!」
「川に入るな!」
制止の声が飛ぶ。
だが波美は、迷わなかった。
「無茶でもやるのが、あたしのモットーよ!」
そのまま橋から川へ飛び込む。
ドボンと大きな音を立てると同時に、冷たい水が全身を包んだ。
想像以上の水流が、体を一気に押し流そうとする。
「ぷはっ……! どこ!?」
水面に顔を出し、周囲を見回す。
少し離れた場所で、商人の男が荷袋にしがみつきながら流されていた。
さらにその先には、子供らしき小さな影も見える。
「待ってて!」
波美は水を掻き、必死に近づこうとした。
だが、流れが速すぎる。
腕力だけでは追いつけない。
——拳は、敵を殴るためだけじゃない。
ふと、そんな言葉にもならない感覚が胸に浮かんだ。
大地は下。それは川の底にも。
だったら、届くはず。
波美は水中へ潜り、拳を下へ向けた。
直接地面には触れられない。
それでも、琥珀色の拳を通して、川底の感触を探る。
(お願い、届いて……!)
波美は拳を振り下ろすように、水中へ力を込めた。
川底が震えて地が喚く。
次の瞬間、流れの中から岩の足場がいくつも突き出す。
それは川の流れを完全に止めるものではなかった。
しかし、水流を分け、人が掴まれるだけの岩場を作り出した。
「そこ掴んで!」
「た、助かった……!」
「こっち! こっちにも!」
流されていた商人たちが岩にしがみつく。
波美はさらに泳ぎ、子供の腕を掴んだ。
「もう大丈夫!」
「お姉ちゃん……!」
子供を抱えながら、波美は近くの岩場へ向かう。
だが、川の流れはさらに勢いを増していた。
上流から流れてきた大きな木片が、波美のすぐそばをかすめる。
「危なっ……!」
咄嗟に身を捻った拍子に、波美は岩場から手を離してしまった。
子供だけは、なんとか岩の上へ押し上げる。
「しっかり掴まってて!」
「お姉ちゃんは!?」
「あたしは平気!」
そう叫んだ直後、強い流れが波美の体を飲み込んだ。
水が耳を塞ぐ。
空と川面がぐるぐると入れ替わる。
伸ばした手は、何も掴めない。
う、そ……こんな、ところで。
お兄ちゃん。
まだ見つけていない。
まだ、何も言えていない。
それなのに、体は川の流れに抗えず、どこまでも押し流されていった。
——どれくらい流されたのか、わからなかった。
気がついた時、波美は川辺の浅瀬に倒れていた。
全身が重い。
髪も服も水を含み、指先の感覚も鈍い。
「……生きてる……?」
かすれた声で呟き、波美はゆっくりと体を起こした。
空はすでに茜色に染まりかけている。
遠くには橋も、人の声も見えなかった。
「みんな……助かった、よね……?」
確かめる術はない。
けれど、最後に見た子供は岩に掴まっていた。
商人たちも、きっと助け合って岸へ向かったはずだ。そう信じるしかなかった。
波美は濡れた髪を絞り、近くの木陰へ移動した。
足元には小さな草花が揺れている。
川の音だけが、静かに耳へ届いていた。
「……お腹すいた」
ぽつりと呟いてから、波美は苦笑した。
変なの。こんな時でも、体は正直に反応するんだね。
そんなことを思える自分が少しおかしかった。
日が落ちると、川辺は急に冷え込んだ。
火を起こす道具も、ほとんど水浸しになっている。
波美は大きな岩の陰に身を寄せ、膝を抱えた。
「お兄ちゃん……どこにいるの……」
口にした途端、胸が締めつけられた。
タフト村でヴィータちゃんと、村の人たちを守った。
橋を支えて、川に落ちた人たちも助けた。
少しは強くなれている……はず。
それなのに、お兄ちゃんには、まだ届かない。
「会いたいよ……」
涙が出そうになって、波美は唇を噛んだ。
泣いている暇なんてない。
明日になったら、また歩かなければならない。
そう思いながら、冷えた体を丸める。
その時だった。
川辺の向こう。
月明かりに照らされた木々の間に、人影が見えた。
「……え?」
波美は顔を上げる。
背の高い影。見慣れた立ち姿。無駄のない歩き方。
胸が、大きく跳ねた。
「お兄、ちゃん……?」
影は答えない。
ただ、森の奥へ向かって歩いていく。
波美は反射的に立ち上がった。
「待って! 待ってよ、お兄ちゃん!」
濡れた服の重さも、疲れ切った体も忘れ、波美はその背中を追いかける。
もう二度と見失いたくない。今度こそ、この手で掴みたい。
月明かりの下、喬介に似た影は、音もなく森の奥へ消えていく。
波美は息を切らしながら、その後を追った。




