第9話 分からない
5月14日火曜日。
その日の放課後、学生ほぼ全員が最も嫌いな"単語"が、先生の口から出始めた。
「お前ら、来週は班別行動もあるが、その前の2日間で中間テストがあるのを忘れちゃいないよな?」
"中間テスト"
その単語が鬼山先生の口から出た途端、クラスはザワザワとし始めた。ほとんどの生徒が、班別行動という行事に目を奪われていて気づいていなかったのだろう。
まぁ、俺もだが。
「静かに! 忘れているようだから告知するが、テストは22日の水曜日と23日の木曜日だ。くれぐれも、赤点を取ることが無いように!」
その言葉を最後に、鬼山先生はスライドドアを開け、教室から出ていった。
解散、という締めの一言を言ってくれても良いのでは?
そう思いながら、鬼山先生が開けたままのスライドドアを見た。
開け放たれたドアから、クラスから出ていく生徒や他クラスから入ってくる生徒の様子を横目に、俺は教室を出るために、教科書をカバンに押し込んでいた。
その時、左の袖がなにかに引っかかったような気がした。
変に動いたつもりは無い。
何が、どうして引っかかったのかは気になったが、俺は視線を移さず、袖を右手で払った。
その時、俺は気づいた。
左袖に何かが引っかかったのではなく、誰かに左袖をつままれていることに。
俺は慌てて視線を移すと、そこには前日まで強気な態度を取っていたはずの神野さんがいた。
「びっくりした……何か一言声かけてくれればいいのに……」
「あ……いや、ごめん」
俺は内心驚いていた。
あの強気な態度が一変、柳澤さんと初めて話した時の俺以上のオドオドさに様変わりしていたからだ。
よほど昨日の出来事がショックだったのだろうか。
「えっと……どうしたの? なんかいつもと違って様子が変だけど……」
「いや……その……ちょっと、また実験室に来て欲しいんだけど……」
「え……わ、分かった」
まだ何か俺にやらせようとしているのか?
嫌な予感がするが、無視して帰って、その後神野さんにグチグチ言われる方がよほど面倒だ。
「先に行ってる」と言い残し、教室を出ていく神野さんの後ろ姿を見ていると、修也がニヤニヤ顔で近づいてきた。
「おやおや? 月島サン? 青春謳歌しておりますねぇ?」
——————何一つ状況知らんやつは、呑気でいいな。
「何一つ状況知らんやつは、呑気でいいな」
「えっと……どゆこと?」
理解が追いつかない、といった様子の修也だが、俺は気にせずカバンに残りのものを押し込んでいく。国語の教科書、数学のワークノート、そして透明なファイル——————それらをカバンに押し込み終え、ファスナーを閉めようとしたその時、修也の視線が俺のカバンに移っていることに気がついた。
「なに? なんか付いてる?」
「いや……なんて言うか、お前も反省文書かなきゃいけないこともあるんだなって」
「は? 反省文? 何言って——————」
……あ。
忘れてた。
思いっきり忘れていた。
目の前にいる修也が原因で書くことになってしまった反省文に手をつけていないことを、俺はすっかり忘れていた。
★★★
「遅かったわね」
神野さんが人体模型をガラス越しに見ながら、俺に言った。
「……なんか、さっきと違って顔色悪くない……?」
「いや……なんでもないです……」
反省文の存在を思い出したこと以外は。
「そう……なら、別にいいけど」
そう言った神野さんは、地面に視線を落としてしまった。時間が止まったかのような沈黙。
「話って何?」と言って、この沈黙を破ることは出来る。が、別に急かす必要はない。
傷ついているであろう今なら尚更だ。
俺は、神野さんが口を開くのを待った。
時計の針の音すら聞こえないその沈黙。
それは、俺が待つことを決めた数分後に破られた。
「その……この間の無茶ぶり、聞いてくれてありがとう……」
神野さんは、視線を宙で泳がせ、モジモジとした様子で話を続けた。
「私のせいで、嫌な思いしたでしょ……?」
いつもの気が……と思ったが、それを口にしたらマズイので、その言葉は飲みこんだ。
「別にいいよ。色々あったけど、結局は何とか収まったし」
「……そうだけど……さ……」
俯き加減で話していた神野さんだが、何かを言おうとしたその言葉は、声にはならず霞のように消えていった。
また、沈黙。
その沈黙の中、彼女は一体何の話をしたいのか、という疑問が次第に俺の中で大きくなっていった。
そして、その疑問は遂に口から漏れた。
「ところで神野さん、なんで俺をここに……?」
「——————」
神野さんは、まだ何も言わない。
気まずい沈黙だ。
暗幕の隙間から夕日が実験室に差し込んだ時、神野さんは遂に口を開いた——————のはいいのだが、何一つ聞き取れない。
口パクだったのではないかと思ってしまうほど、全く聞き取れなかった。
「えっと……なんて?」
聞き返した俺が神野さんの地雷か何かを踏んだのだろうか、神野さんはいきなり「うっさい! うっさい! うっさい!!!」と叫びながら、実験室を飛び出すように出ていった。
彼女が何をしたかったのかは、分からない。
神野さんの表情を全く見れていなかった俺は、ただただ誰もいない実験室の中、カカシのように棒立ちになっていた。




