第39話 防衛国家へ
聖剣教会の最高権力者であった大司教バルザックが、自らの虚飾の剣と共に自壊し、名もなき兵士たちの手によって捕縛されてから数週間の時が流れた。
魔王領と聖王国アルヴァレムを隔てる荒野の国境線には、静かで穏やかな風が吹いていた。
人間側の大軍勢は、勇者の証言と総司令官の失墜によって完全に瓦解し、這々の体で自国へと撤退していった。長きにわたって泥沼の様相を呈していた侵略戦争は、ついに事実上の終結を迎えたのである。
ゲンは新しく組み上げられた国境砦の城壁の上に立ち、眼下の風景をじっと見下ろしていた。
「……寸法が甘いな。あの石垣の継ぎ目、あと三分は詰められるぞ」
ゲンがぽつりと呟くと、横で書類の束を抱えていたリュシアが呆れたようにため息をついた。
「ゲンさん、ここは前線砦ですよ? 大工房の精密部品じゃないんですから、多少の誤差は……と言いたいところですが、確かにあの隙間は強度の低下に直結しますね。後で監督のドワーフに修正指示を出しておきます」
「ああ、頼む。防壁ってのは作って終わりじゃねぇ。常にひび割れを点検して、埋め合わせる『保守』が一番大事なんだ」
ゲンの視線の先では、砦の拡張工事が活気に満ちた声と共に行われていた。
そこで重い石材を運び、足場を組んで汗を流しているのは、かつて人間側の奴隷鉱山で鎖に繋がれ、使い捨てにされていた魔族や亜人、獣人たちだった。
彼らの背中には痛々しい鞭の痕が残っているが、その表情に怯えはない。きちんと支給された安全靴を履き、丈夫な革の手袋をつけ、定められた休憩時間と十分な食事を与えられながら、彼らは自らの手で自分たちを守るための壁を築いている。
「みんな、いい顔をして働くようになりましたね」
リュシアが目を細めて言った。
「あいつらには技術を教えてるからな。ただ石を運ぶだけの奴隷じゃねぇ。石の目を見て割り、モルタルの配合を管理する『職人』だ。技術を持てば、誰かに奪われることのねぇ自分の居場所ができる」
ゲンの言葉通り、救出された者たちはもはやただの避難民ではなく、魔王領という国を支える確かな歯車として機能し始めていた。
ふと、資材を運ぶ荷車の列の中に、ひときわ背の高い人間の青年の姿があった。
元勇者、レオルドだ。彼は神聖な鎧も剣も捨て、麻の作業着を泥だらけにしながら、獣人の子供たちと一緒に笑い合いながら木箱を運んでいる。彼もまた、過去の過ちを背負いながら、この場所で新しい生き方を見つけようとしていた。
「大工房長。視察の最中にすまない」
城壁の階段を上ってきたのは、武闘派幹部のザガンだった。彼の鱗鎧は戦闘の傷跡が残ったままだが、丁寧に油で磨き上げられている。
「おう。人間側の動きはどうだ」
「完全に沈黙している。教会の内部は、大司教の拘束と奴隷鉱山の事実の暴露で完全に機能不全に陥っているようだ。……我々から持ちかけた『不可侵条約』の締結も、遠からず呑まざるを得ないだろう」
ザガンの声には、かつてのような血に飢えた好戦的な響きはなかった。
「勝機だと言って、アルヴァレムの王都まで攻め込もうとしていたのが昔のようだな。今なら分かる。敵の城を落とさずとも、我々は確かに勝利したのだとな」
「俺たちは勝ったわけじゃねぇよ」
ゲンは首の裏を掻きながら、面倒くさそうに返した。
「ただ、致命的に壊れずに、しぶとく生き残っただけだ。……だがまあ、それが一番難しい仕事なんだがな」
「……全くだ」
ザガンは深く頷き、ゲンに対して恭しく頭を下げた。
「陛下がお呼びだ。大工房へ戻ってくれ」
* * *
地下大工房は、戦時中のピリピリとした緊張感から解放され、明るい活気に満ちていた。
ガルドをはじめとするドワーフたちや、見習いのミーシャが、前線から戻ってきた武器や防具の洗浄と、刃こぼれの修繕を手順通りにこなしている。
その中央、巨大な金床の前に、魔王ルヴィアが立っていた。
彼女はゲンが姿を現すと、ゆっくりと振り返った。その身を包むのは、ゲンが打ち直した『倒れないための鎧』だ。
「来たな、ゲン」
ルヴィアの顔には、長年の戦争の重圧から解放された、静かで晴れやかな威厳が満ちていた。
「人間たちとの戦いは終わった。我らは国境を越えることなく、ただこの地を死守し抜いた。……今日より我が国は、他国を侵略せず、いかなる理不尽な暴力も退ける『不落の盾』たる防衛国家として、新たな道を歩む」
ルヴィアの宣言に、大工房にいた職人や将軍たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
復讐の連鎖を断ち切り、自らの足元を固めて生きる。それが、滅びかけていた魔族たちがようやく手にした、本当の意味での『救い』の形だった。
ルヴィアは歓声が収まるのを待ち、まっすぐにゲンを見据えた。
「すべては、お前が持ち込んだ『死なないための技術』のおかげだ。鉄の理屈が、折れかけていたこの国を繋ぎ止めたのだ」
彼女は一歩前に進み出た。
「これまでは、現場の者たちが勝手に呼んでいた通称に過ぎなかった。お前自身も、肩書きなど要らぬと言っていたな」
「……ああ」
「だが、今日より正式な任とする」
ルヴィアは静かに、だが大工房の隅々まで届く声で告げた。
「柴田源吾。お前を正式に、我が魔王軍の『大工房長』に任命する。全軍の武具の生産、管理、そして技術の継承……そのすべてを、お前に一任する」
それは、ただの雇われ職人に対するものではない、国家の根幹を委ねるという最大限の信頼の証だった。周囲のドワーフたちも、ミーシャも、誇らしげな顔でゲンに拍手を送っている。
だが、当のゲンはといえば。
「……あー、いや」
ゲンは拍手の中で頭をボリボリと掻き、ひどく間の抜けた声を出した。
「その肩書きの話なんだが」
「なんだ? 不服か?」
「不服ってわけじゃねぇが……そもそも戦争も終わって、俺が打った道具の量産体制もガルドの親方たちで回せるようになっただろ」
ゲンは腰の工具袋を軽く叩いた。
「俺の出番はもう終わりだ。そろそろ、山奥の自分のボロ工房に帰ろうかと思ってな。……あっちの炉も、随分長いこと火を入れてねぇから湿気っちまってるだろうし」
その言葉が落ちた瞬間、大工房の歓声がピタリと止まり、水を打ったような静寂が訪れた。
「……はい?」
最初に反応したのは、リュシアだった。彼女の手から、抱えていた書類の束がバサリと床に落ちる。
「え、ちょっ……ゲンさん? 今、なんて言いました?」
「だから、山奥に帰るって」
「帰るわけないでしょうがああああっ!!」
リュシアが信じられないほどの金切り声を上げ、ゲンの胸倉に掴みかかった。
「何言ってるんですか! 大工房長に正式任命されたんですよ!? 私がどれだけ苦労して、各部隊の損耗率のデータ化と、この巨大な生産ラインの管理体制を整えたと思ってるんですか! トップが抜けてどうする気ですか!」
「いや、お前がそこまで管理できるなら、俺がいなくても回るだろ」
「回る回らないの話じゃありません! 大体、あんな雨漏りするボロ小屋に戻って、またその日暮らしの貧乏生活をする気ですか! 栄養失調で倒れますよ!」
「俺は自分の食い扶持くらい自分で稼げるっつーの」
「稼げてませんでしたよね!? 私が竜骨を売り払ってギリギリ生活費を捻出していた過去を忘れましたか!」
顔を真っ赤にして怒るリュシアを前に、ゲンは「面倒くせぇな……」とため息をついた。
「待て、ゲン」
ルヴィアが慌てた様子で歩み寄ってくる。先ほどの王としての威厳はどこへやら、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
「お前がいなくなっては困る。この鎧の定期的なメンテナンスは誰がやるのだ」
「んなもん、ガルドの親方なら余裕でできるだろ」
「そういう問題ではない! ……その、お前が打った鉄の具合は、お前にしか分からんだろうが!」
「親方ー! 行っちゃやだー!」
ミーシャまで泣き出しそうになりながらゲンの腰に抱き着き、ドワーフたちも「そうだぞ、水臭い真似すんな!」と周囲を取り囲み始める。
「おいおい、引っ張んな。前掛けが破れるだろうが」
山奥の静かな職人生活に戻りたかっただけの男は、彼が救い、居場所を与えた者たちによって、何重もの物理的な包囲網に閉じ込められていた。
「絶対帰しませんからね! ゲンさんはここで、私と一緒に過労死するまで働くんです!」
「どんな理屈だよ、それ……」
大工房長という重すぎる肩書きと、賑やかすぎる喧騒。
戦争が終わり、血なまぐさい陰謀が消え去った後には、ただ鉄を打ち、道具を直すという、職人の慌ただしくも平和な日常が待っていた。




