第37話 聖剣教会、崩れる
魔王領の国境に広がる荒野は、異様な緊張感に包まれていた。
地平線を埋め尽くすほどの人間側の大軍勢。その中央には、純白と黄金で装飾された巨大な移動祭壇が鎮座し、大司教バルザックが豪奢な法衣を翻して見下ろしている。
対する魔王軍は、一切の突撃を行わなかった。
彼らは国境線に沿って幾重にも『死なない鱗鎧』の盾陣を組み、ただ静かに、冷徹に、絶対の防衛線として人間側の軍勢を待ち構えていた。
戦端を開く号令が響くかと思われたその時、魔王軍の陣形の中央が静かに割れた。
進み出たのは、魔王ではない。
教会の異端審問局に命を狙われ、身につけていた聖鎧を失った、一人のみすぼらしい青年――勇者レオルドだった。
『……同胞たちよ。どうか、剣を引いてくれ』
彼の声は、後方の物見櫓に立つリュシアの拡声魔法によって、荒野を埋め尽くす人間側の全軍へと隅々まで響き渡った。
「あ、あれは……勇者様だ!」
「生きておられたのか!? 魔王に囚われていたのでは……」
人間側の兵士たちの間に、どよめきが走った。教会の最高戦力であり、民衆の希望の象徴である彼が、敵軍の先頭に立ってこちらに呼びかけているのだ。
『私は囚われているのではない。自らの意志で、ここに立っている』
レオルドは痛切な声で語り始めた。
『我々が信じてきた正義は、偽りだったのだ。教会が神の奇跡だと宣い、我々に与えていたこの聖剣の真実を……私は、知ってしまった』
レオルドは掲げた右手に、折れた自らの聖剣の残骸と、黒く鈍い光を放つ石――黒核石を握っていた。リュシアの幻影魔法がそれを空中に大きく映し出す。
『この黒い石は、魔王領の奴隷鉱山で、無実の魔族の子供たちが血と命をすり減らして掘らされていたものだ。教会の聖剣は、神の力などではない。彼らの命を燃料にして、魔力を無理やり増幅させていただけの代物だ!』
「なんだと……?」
前線に立つ若い従騎士――エリオットが、信じられないというように目を見開いた。
『それだけではない!』
レオルドの告発は止まらない。彼は折れた刀身の断面を前へと突き出した。
『先日、前線で我々の量産聖剣が次々と折れた理由を、教会は魔族の呪いだと言った。だが、それは違う。彼らは、鍛える手間を省いた粗悪な金属の表面に、魔力のメッキを施して誤魔化していただけなのだ。少しでも無理な衝撃が加われば、自らの力に耐えきれずに自壊する……ただの欠陥品だ!』
少し後方の物見櫓からその様子を見ていたゲンは、腕を組みながら短く鼻を鳴らした。
「……随分と、俺の教えた『鉄の理屈』をスラスラと喋るようになったじゃねぇか」
「事実ですからね。彼も、自分が何を握らされていたのか、現場の証拠で骨の髄まで理解したんでしょう」
リュシアが拡声魔法の杖を維持しながら答える。
ゲンは眼下で動揺する人間側の兵士たちを見渡した。
「神だの奇跡だのって見えない権威より、現場で自分の剣がポッキリ折れた『事実』の方が、兵士の心には深く刺さる。……これで、あいつらの足元は完全に崩れたな」
ゲンの見抜いた通りだった。
レオルドの証言は、前線で死線を潜ってきた人間側の兵士たちに、決定的な疑念を植え付けた。
「俺たちの剣が折れたのは、教会の手抜きのせいだったのか……?」
「神の正義ではなく、一部の権力者が利権を貪るために、我々は死地に送られていたというのか!」
エリオットの腕が震え、その刃が力なく下がり始める。それに伝播するように、前線の重装歩兵たちも次々と盾を下ろし、背後の移動祭壇へと疑いの眼差しを向け始めた。
圧倒的な物量と、神の加護という絶対の権威でまとまっていた聖王国軍の士気が、たった一つの『物証』と勇者の証言によって、音を立てて瓦解していく。
『……黙りなさい!!!』
その時、兵士たちの動揺を切り裂くように、大司教バルザックの激昂した声が轟いた。彼もまた、祭壇に備え付けられた巨大な魔導具で自らの声を拡張していた。
『皆の者、惑わされてはなりません! その者はもはや勇者ではない! 魔族の邪悪な魔法によって魂を汚染され、捏造された虚言を吐く操り人形に過ぎません!』
バルザックの顔は、いつもの荘厳な慈悲深さを完全に失い、権力を脅かされた者の醜い焦燥と怒りに歪んでいた。
『教会の教えこそが絶対です! 我らが聖剣の尊厳を貶めるなど、決して許されることではない! 全軍、あの裏切り者もろとも、魔族の陣地を蹂躙しなさい!』
だが、彼の号令に応えて前へ出る兵士は、誰一人としていなかった。
もはや彼らには、折れると分かっている剣を握り、真実を告発した勇者を斬り殺してまで戦う理由は見出せなかったのだ。
「……終わったな」
ゲンが呟いた。軍隊という組織において、指揮官の言葉が兵士に届かなくなった時点で、その軍はすでに死に体だ。
だが、バルザックの目はまだ狂気を失っていなかった。
『……愚かな。光に導かれることを拒むというのなら、私が直接、神の鉄槌を下すまで』
バルザックは祭壇の中央に安置されていた、豪奢な布に包まれた長い箱を乱暴に開け放った。
その中から現れたのは、通常の聖剣とは全く異なる、不気味なほどに黒く澱んだ輝きを放つ、巨大な両刃の剣だった。
「……おい、リュシア」
櫓の上で、ゲンの表情が初めて険しくなった。
「あの剣……ただの粗悪品じゃねぇぞ。周りの空間の光が、刀身に向かって異常な屈折をしてやがる」
「はい……! 魔力探知が、あの剣の周囲だけ完全にエラーを起こしています。まるで、魔力そのものを強制的に吸い上げて、無理やり圧縮しているような……」
バルザックがその『最後の聖剣』を鞘から抜き放った瞬間。
空気がビリビリと震え、雲一つなかった空が不自然に暗く淀み始めた。剣の中心には、レオルドが持っていた黒核石とは比べ物にならないほど巨大で、純度の高い黒核石が埋め込まれており、そこからドクドクと脈打つような膨大なエネルギーが溢れ出していた。
『見よ! これこそが、初代勇者が遺した神造の聖剣! 長き眠りより目覚めた、真なる聖なる力である!』
バルザックは狂気的な笑い声を上げ、その剣を空高く掲げた。
「神造ねぇ……」
ゲンが低く呟いた。
遠眼鏡を構え、巨大な刀身をじっと見つめる。
「ずいぶん新しい鋳肌してやがる。鍔の打痕も最近のもんだぞ」
「え……?」
リュシアが目を見開いた。
「じゃあ、あれは……」
「初代勇者の遺物なんかじゃねぇ」
ゲンは冷たく言い放った。
「最近作った剣を、古い神様の道具だって偽ってるだけだ」
再び。
教会が掲げる「神の奇跡」の裏側に、人の手で作られた偽物があった。
「馬鹿野郎が」
ゲンは冷徹な職人の目で、その剣の『構造』を瞬時に見抜いていた。
「あんなバカでかいエンジンを積んで、限界を超えたエネルギーを刀身に流し込めばどうなるか。……あれは武器なんかじゃねぇ。ただの時限爆弾だ」
権威が崩れ落ちた黒幕は、自らの正義を証明するためではなく、すべてを破壊するために最後の一手に出た。
異常な魔力の渦が平原を支配し始める中、魔王軍の最後の防衛線は、真の決着となる破壊の嵐を迎え撃とうとしていた。




