第35話 工房を狙え
魔王城の地下深くに位置する大工房。
前線での防衛戦を後方から支えるこの場所は、常に鉄を打つ音と怒号が響き渡る活気に満ちているはずだった。
ゲンが大工房へ駆け戻ってから、まだ十分も経っていなかった。
職人たちを逃がす時間はない。
ガルドたちに事情を説明し、見習いを奥へ下げるだけで精一杯だった。
だからゲンは、工房にあるものだけを使った。
天井の滑車。
修理途中の装甲板。
冷却管。
木箱と金床。
普段なら鉄を運び、支え、冷やすための設備を、最低限の迎撃準備へと組み替えたのだ。
「いいか。勝とうとすんな」
ゲンは滑車のロープを引きながら、職人たちへ言い放った。
「ここは工房だ。俺たちは兵士じゃねぇ。無理に前へ出るな。入ってきた奴を止めて、時間を稼ぐ。それだけだ」
「分かっとるわい」
ガルドが重い鍛冶ハンマーを肩に担ぎ、鼻を鳴らした。
「人様の仕事場を荒らす馬鹿に、工房の怖さを教えてやる」
その直後だった。
ドォォォンッ!!
大工房の重い鉄扉が、凄まじい轟音と共に内側へ吹き飛ばされた。
『異端の職人と、その工房を灰にせよ!』
土煙を裂いてなだれ込んできたのは、純白の法衣の上に黒い外套を羽織った教会の異端審問官たちだった。
彼らは十数名の少数精鋭だが、その手に握られた短剣には、魔力を増幅させる黒核石が不気味な光を放って埋め込まれている。
彼らは前線の陽動を利用し、リュシアから奪った転移術式を使って、大工房の目と鼻の先まで一瞬で空間を跳躍してきたのだ。
「なんだテメェらは! ここは俺たちの神聖な仕事場だぞ!」
老ドワーフのガルドが、手近にあった重い鍛冶ハンマーを掴んで怒鳴り声を上げた。他のドワーフ職人たちも、咄嗟に火かき棒や鉄の棒を手に取り、侵入者たちの前に立ち塞がる。
『下等な亜人どもが。主の裁きを受けよ』
先頭の審問官が冷酷に言い放ち、短剣に膨大な魔力を込めた。
魔力波が刃の形を成し、ガルドたちをまとめて一刀両断しようと振り下ろされる。
「親方! 危ない!」
見習いのミーシャが悲鳴を上げた瞬間。
ガィィィンッ!
甲高い金属音が響き、審問官の魔力の刃が弾き返された。
「なっ……!?」
審問官が目を見開いた先には、ガルドたちの前に巨大な『鉄の壁』が立ち塞がっていた。
いや、壁ではない。
それは、大工房の天井から吊るされた巨大な鎖に繋がれた、未完成のルヴィアの専用装甲板だった。
「おいおい、勝手に上がり込んで来といて随分な挨拶じゃねぇか」
装甲板の裏側から、ぶっきらぼうな声が響いた。
ゲンだ。
彼は作業台の陰から、滑車とロープを組み合わせた治具のレバーを握り、即席の防壁として重い装甲板を操作していた。
「ここは工房だぞ。火もあれば、重てぇ鉄の塊もゴロゴロしてる。……危ねぇから、よそ見してんじゃねぇぞ」
ゲンがもう一つのレバーを引いた。
途端に、審問官たちの頭上の冷却管から、真っ赤に焼けたスラグ(不純物)の破片を含む高温の冷却水がシャワーのように噴き出した。
『ぐあああっ!』
高熱の水と鉄の破片を浴びた審問官たちが、陣形を乱して後退する。
「今だ! 囲め!」
ガルドの号令と共に、ドワーフ職人たちが一斉に動き出した。
彼らは武器を振るうのではなく、巨大な金床や木箱を押し出して退路を塞ぎ、審問官たちを工房の中央へと追い込んでいく。
「親方、こっちの滑車も固定しました!」
ミーシャが素早い動きでロープを縛り上げ、天井の治具を固定してさらなる防御壁を作り出す。
ゲン個人の武力ではなく、職人たち全員の連携と、工房という地の利を活かした迎撃だった。
『……小賢しい鼠どもが!』
熱水を浴びた部隊長とおぼしき審問官が、激昂して黒核石の短剣を高く掲げた。
『ならば、この工房ごと吹き飛ばしてくれる!』
彼が大規模な爆発魔法の詠唱に入ろうとした、その時。
「……よくも、図々しく」
地を這うような、冷たくて重い声が、大工房の入り口から響いた。
そこに立っていたのは、急ぎ前線から駆け戻ってきたリュシアだった。
彼女の手には、魔力を帯びて青白く輝く杖が握られており、その瞳には、これまでに見たことのないような静かで激しい怒りの炎が燃えていた。
「私が完成させた転移術式を……私の研究を、またしてもこんな卑劣な暗殺のために使ったのですね」
リュシアの声が震えていた。
かつて彼女は、研究院で純粋に、遠隔地へ物資を安全に送り、前線で傷ついた者を後方へ逃がすために、あの術式を完成させた。
だが、教会は研究の途中経過まで吸い上げ、その成果を奪い、彼女を用済みとして殺そうとした。
そして今。
その術式を、最も醜悪な暴力のための道具に貶めたのだ。
『エルフの小娘か。異端に与する貴様もろとも――』
「黙りなさい!!」
リュシアが杖をドンッと床に突き立てた。
その瞬間、審問官たちの足元に展開しかけていた爆発魔法の魔力陣が、バチバチと音を立てて乱れ、霧散した。
『なっ!? 術式が、かき消された……!?』
「当たり前です」
リュシアは杖を握りしめた。
「その転移術式を作ったのは私ですよ? 座標固定のクセも、無理な起動でどこに歪みが残るかも、全部私が一番よく知っています!」
リュシアは杖を横に振り抜いた。
彼女が放ったのは、派手な攻撃魔法ではない。
黒核石の膨大な魔力を無理やり叩き込んだことで、審問官たちの周囲に未だ残っていた空間の『歪み』。
その不安定な残滓へ干渉し、周囲の魔力の流れを強制的に乱したのだ。
「私が何のためにあの術式を作ったと思っているんですか!」
リュシアの怒りの叫びが、大工房に響く。
「こんな人殺しのためじゃない! 遠くに物資を届けて、傷ついた人を生きて帰すためだったのに!」
空間の歪みが、審問官たちの周囲で激しく軋んだ。
『ぐ、がぁぁっ……! 魔力が、まとまらない……!』
無理な魔力運用で酷使されていた黒核石の短剣が、乱れた魔力の奔流に耐えきれず、次々と亀裂を走らせる。
バキンッ!
一振り。
また一振り。
黒い核を埋め込まれた短剣が砕け、審問官たちの手から落ちていく。
武器を失い。
魔法を封じられ。
さらに足場を失って床に転がった審問官たちは、もはや組織だった抵抗を続けられなかった。
「……ご苦労さん」
ゲンがゆっくりと歩み寄り、部隊長の首元に、冷たいハンマーの頭を突きつけた。
「これ以上暴れるなら、次はその頭を金床に乗せて叩き潰すぞ」
その言葉に、審問官は屈辱に顔を歪めながらも、抵抗を諦めて短剣の柄を手放した。
大工房の奇襲は、職人たちの連携と、リュシアの過去の清算とも言える魔法によって、一人も死者を出すことなく完全に鎮圧された。
「……フシュー」
リュシアは杖を握ったまま、肩で大きく息をしていた。その目には、怒りと共に、ようやく過去の呪縛の一つを自らの手で振り払ったような、微かな涙が滲んでいた。
「……よくやったな、リュシア」
ゲンはハンマーを肩に担ぎ、ぶっきらぼうにそう言った。
「お前の研究は、ちゃんと俺たちの居場所を守るために役に立ったぞ」
その不器用な労いの言葉に、リュシアは袖で目元を乱暴に拭い、「当たり前です」と少しだけいつもの調子を取り戻して言い返した。
「……おい、ゲン」
捕縛した審問官たちを調べていたガルドが、低い声を上げた。
「こいつの懐から、妙なもんが出てきたぞ」
投げ渡されたのは、血と煤で汚れた一枚の羊皮紙だった。
ゲンは受け取り、眉をひそめる。
「俺に読ませるな。リュシア」
「はいはい」
リュシアは羊皮紙を受け取り、そこに記された教会印と命令文へ目を走らせた。
その表情が、みるみる険しくなる。
「……作戦命令書です」
「なんて書いてある」
リュシアは唇を噛んだ。
「『魔王軍大工房における禁忌技術の完全排除』」
大工房の空気が静まる。
「それから……『当該技術は聖なる防衛体系に対する重大な脅威であるため、異端職人および関係者を処分し、設計物、試作品、記録をすべて焼却せよ』と」
ゲンは何も言わなかった。
ただ。
羊皮紙へ伸ばした手で、その命令書を掴んだ。
「……なるほどな」
低い声。
「自分たちの立場を脅かすから、消しに来たってわけか」
リュシアは命令書を見つめたまま、静かに言った。
「これも……証拠になります」
「ああ」
ゲンは捕縛された審問官たちへ視線を向けた。
「捨てるなよ。血がついてようが煤けてようが、そのまま残しとけ」
「分かりました」
「……さて。これで前線の陽動も、裏の奇襲も失敗した」
ゲンは捕縛された審問官たちを見下ろし、そして、遠くアルヴァレムの方角へと視線を向けた。
「教会の連中も、手駒が尽きた頃だろうな。そろそろ、元凶を引きずり出す時間だ」
魔王城地下での防衛戦を制し。
さらに、教会自身が禁忌技術の排除を命じた物証まで手に入れた。
彼らはついに、すべての戦争の黒幕である大司教との最終決着へ向けて、その足場を完全に固めたのだった。




