第34話 魔王軍、最後の防衛線
魔王領の国境線は、かつてないほどの土埃と殺気に包まれていた。
勇者の敗北と奴隷鉱山の陥落という二つの失態を取り戻すため、聖王国アルヴァレムはかつてない規模の大軍を編成し、魔王領への本格的な侵攻を開始したのだ。
無数の聖騎士、魔法使い、そして重装歩兵の部隊が、大地を揺らして進軍してくる。
だが、迎え撃つ魔王軍の陣地に、かつてのような浮足立った焦りは微塵もなかった。
「……来るぞ」
防衛陣形の中央で、ザガンが低く呟いた。
彼の背後には、ゲンの設計した『折れない短槍』を隙間なく構えた歩兵部隊が、何重もの壁となって控えている。彼らの身体は『死なない鱗鎧』に守られ、後方には悪路走破性を高めた荷車が絶え間なく予備の武器と物資を運び込み続けていた。
『邪悪なる魔族どもを根絶やしにせよ! 突撃!』
人間側の指揮官の号令と共に、魔法で強化された重装騎士たちが地響きを立てて魔王軍の盾陣に激突した。
凄まじい衝撃。
だが、陣形は決して崩れなかった。
「受け流せ! 真っ向から受けるな、斜めに滑らせろ!」
各部隊の隊長たちの指示が飛び交う。
人間側の分厚い長剣が振り下ろされると、魔王軍の兵士たちは鱗鎧の曲面を活かして刃を滑らせ、衝撃を殺した。そして即座に、しなりの強い短槍を敵の装甲の隙間に向けて突き出す。
突出して無双する英雄など一人もいない。
ただ、各々が与えられた役割をこなし、機能的な道具を正しく使い、陣形という一つの巨大な「組織」として敵の猛攻を淡々と削り取っていく。
「よし、槍がこぼれた奴は後退しろ! 予備と交代だ!」
刃こぼれした槍を持った兵士は素早く後列に下がり、荷車から真新しい槍を受け取って再び陣形に戻る。
この戦場に「使い捨て」の命はない。
突出した個の力ではなく、標準化された武器と、修理・補給のサイクルが完璧に回る『組織の力』が、圧倒的な物量を誇る人間側の軍勢を見事に凌ぎ切っていた。
その鉄壁の防衛戦の様子を、ゲンは少し離れた高台から見下ろしていた。
「……どうやら、俺の出る幕はなさそうだな」
ゲンがぽつりと呟くと、隣にいたリュシアが誇らしげに頷いた。
「みんな、本当に強くなりました。誰も無理に前に出ようとせず、隣の兵をカバーしながら戦っています。これなら、どんな大軍が来ても……」
リュシアの言葉が、不自然に途切れた。
「……リュシア?」
「待って、ください。おかしいです」
リュシアは顔色を変え、地面に広げた魔力探知の羊皮紙を凝視した。
「前線の人間側の軍勢……数の割に、魔力反応が薄すぎます」
「薄い? 押し負けて後退してるってことか?」
「いいえ。違います」
リュシアは即座に首を振った。
「これだけの規模の軍を動かしているのに、中心となる高位の魔法使いや、精鋭の聖騎士の反応が少なすぎるんです。最初から……ここにいない」
ゲンの目が細くなった。
「目くらましか」
「可能性はあります」
リュシアはすぐさま探知の範囲を広げた。
前線。
補給路。
国境の山岳地帯。
そして。
魔王領のさらに深部――自分たちが拠点としている、魔王城の地下大工房周辺へと索敵の網を伸ばしていく。
「……っ!!」
羊皮紙に浮かび上がった光の歪みを見て、リュシアは息を呑んだ。
「ゲンさん!」
「なんだ」
「大工房の近くです。空間が……歪んでる」
「歪んでる?」
「転移術式の座標固定です」
リュシアの顔から血の気が引いていく。
「まだ転移そのものは完了していません。でも、大工房のすぐ近くに、外側から無理やり『出口』を作ろうとしている!」
ゲンは羊皮紙を覗き込んだ。
当然、彼には魔力の光など読めない。
だが、リュシアの表情だけで十分だった。
「どれくらい猶予がある」
「分かりません。術式の規模が異常です。でも、この歪み方なら……」
リュシアは探知へ意識を集中させる。
「半刻もありません」
「……ちっ」
ゲンが低く舌打ちした。
「数日前の黒核石か」
「はい」
リュシアは青ざめたまま頷く。
「でも、黒核石は本来の転移触媒にはなりません」
「触媒じゃねぇんだな」
「はい。黒核石は、魔力を吸収して圧縮する石です。だから……あれを無理やり巨大な魔力源として、術式の外側に噛ませている」
「黒核石そのものが座標を繋いでるわけじゃねぇ、と」
「はい」
リュシアの声が震えた。
「私が研究院で完成させ、その直後に奪われた転移術式。その回路へ、黒核石に溜め込んだ膨大な魔力を一気に叩き込んでるんです」
「回路を焼き切る覚悟で、無理やり動かす」
「……はい」
リュシアは拳を握りしめた。
「研究院の最大の後援者は聖剣教会でした。研究の途中経過も、『王国防衛のため』という名目で逐一提出させられていた。教会は、最初から理論を持っていたんです」
彼女の瞳に、怒りが宿る。
「本来は、遠隔地へ物資を送るための術式でした。前線で重傷を負った人を、安全な後方へ逃がすためのものだった」
声が掠れた。
「それを……こんなことに」
前線での陽動に魔王軍の主力を釘付けにし。
その隙に、すべての装備の要である大工房と、その心臓部である職人――ゲンを直接叩き潰す。
それが、大司教バルザックの仕組んだ一策なのだ。
「……なるほどな。頭のいいやり方だ」
ゲンは一切取り乱すことなく、腰の工具袋の重みを確かめた。
「大工房には今、ガルドの親方たちと、見習いのガキしか残ってねぇな」
「はい……!」
「戻るぞ」
ゲンは即座に踵を返した。
「私も行きます!」
「駄目だ」
「なっ……!?」
リュシアが目を見開く。
「なんでですか!」
「お前が今抜けたら、前線の探知網はどうなる」
「それは……」
「人間側の本隊が全部囮だと決まったわけじゃねぇ。ここで探知が切れたら、今度こそ本当に前の連中が死ぬ」
リュシアは唇を噛んだ。
ゲンは高台の下へ視線を向ける。
そこでは、予備の槍や防具を積んだ荷車が前線と後方を絶え間なく往復していた。
かつて補給路で使われていた粗悪な木製荷車。
ゲンが車軸を削り直し、車輪を補強し、悪路でも止まらぬよう改良したものだ。
「俺が先に戻る」
「でも!」
「探知を誰かに引き継げ。ザガンとルヴィアにも警告しろ。その後で来い」
ゲンは高台を駆け下りた。
「ゲンさん!」
「急げよ」
振り返らず、それだけを言う。
ゲンは補給部隊の荷車へ飛び乗った。
「おい、そいつ貸せ!」
「だ、大工房長!?」
「大工房長じゃねぇ! 緊急だ、馬を外すな!」
「は、はいっ!」
御者が慌てて手綱を渡す。
ゲンは改良荷車の荷台から予備武器の箱を幾つか降ろし、車体を軽くした。
自分で削った車軸。
自分で直した軸受け。
泥道でも荷を止めないために作った道具。
まさか、それで自分の工房へ駆け戻ることになるとは思わなかった。
「走れ!」
鞭が鳴る。
改良荷車が土煙を上げ、魔王城へ向かう道を猛然と駆け出した。
高台に残ったリュシアは、遠ざかる荷車を一瞬だけ見つめた。
だが、すぐに顔を引き締める。
「伝令!」
『はっ!』
「ザガン将軍へ! 前線の高位魔力反応が少なすぎます。陽動の可能性あり! 陣形を絶対に崩さないで!」
『了解!』
「それからルヴィア陛下へ、大工房周辺で転移術式の座標固定を確認! 敵の奇襲です!」
伝令が走る。
リュシアはさらに、隣で探知補助を行っていた魔族の術者へ羊皮紙を押しつけた。
「ここから先、この範囲を見てください。大きな反応が出たらすぐザガン将軍へ」
「し、しかしリュシア殿、この精度は私には……」
「全部見なくていいです! この三本の補給路と、敵陣中央だけ! 変化があれば知らせて!」
「は、はい!」
リュシアは杖を掴んだ。
「騎獣を一頭借ります!」
もう一度だけ。
羊皮紙の上。
大工房付近で膨らみ続ける、空間の歪みを見る。
「間に合って……!」
彼女は高台を駆け下りた。
* * *
人間側支配領域。
山岳地帯の奥深くに隠された、巨大な地下施設。
床一面を埋め尽くす転移魔法陣の周囲に、無数の黒核石が積み上げられていた。
漆黒の石が。
奴隷たちの血と命を吸って掘り出された石が。
不気味な光を放っている。
『出力を上げろ!』
神官の怒号。
『座標は固定された! 魔王城地下、大工房周辺!』
『黒核石の蓄積魔力を解放!』
『しかし、このままでは回路が――』
『構わん! 一度通ればよい!』
次の瞬間。
黒核石に圧縮されていた膨大な魔力が、一斉に術式へ叩き込まれた。
バヂィィィィッ!!
魔法陣の一部が焼け焦げる。
神官が血を吐く。
空間そのものが軋み、歪み。
そして。
魔王城地下。
大工房から少し離れた薄暗い坑道の一角に、青白い亀裂が走った。
バリィィンッ!
空間が割れる。
その裂け目から。
純白の法衣の上に艶消しの黒い外套を羽織った、教会の異端審問官たちが次々と姿を現した。
彼らの手には、特殊な形状の短剣が握られている。
部隊を率いる審問官が、荒い息を整えながら顔を上げた。
その先。
岩壁の向こうには。
山奥の職人が作り上げた、大工房がある。
『……転移は成功した』
審問官は冷酷に笑った。
『前線の馬鹿どもが陽動を務めている間に、異端の職人と、その工房を灰にする』
黒衣の部隊が、音もなく動き出す。
戦場の喧騒から遠く離れた地下の闇の中で。
山奥の鍛冶屋が作り上げた心臓部へ。
冷たい凶刃が、ついに届こうとしていた。




