第32話 魔王は王でなければならない
深夜の大工房は、昼間の熱狂的な喧騒が嘘のように静まり返っていた。
巨大な火山炉の火は最小限に絞られ、赤黒い熾火が静かに呼吸するように明滅している。
ゲンは作業台の前に座り、革の胸当ての上に置かれた黒い金属の装甲板と向き合っていた。魔王ルヴィアの専用鎧の左肩パーツだ。勇者レオルドの渾身の一撃を真っ向から受け止めたことで、表面には深い亀裂が走り、全体が内側へと大きくひしゃげている。
ゲンはやっとこでその装甲板を掴み、炉の熾火の中へと突っ込んだ。
鉄がゆっくりと熱を帯び、鈍い赤色に変わっていく。
「……邪魔をするぞ」
背後から、足音を忍ばせて歩み寄ってくる気配があった。
振り返らずとも分かる。ルヴィアだ。彼女は王としてのマントを羽織らず、簡素な平服のまま、ゲンの背中越しに炉の炎を見つめていた。
「寝ねぇのか。明日も朝から作戦会議だろ」
ゲンが火かき棒で炭を動かしながら言うと、ルヴィアは自嘲するように短く息を吐いた。
「眠れなくてな。……目をつぶると、奴隷鉱山で背中を鞭打たれていた同胞の子供たちの姿と、王都アルヴァレムを焼き払えと叫ぶ将軍たちの声が、交互に浮かんでは消えるのだ」
ルヴィアの声には、昼間の会議で見せていた王としての威厳はなく、一人の為政者としての深い迷いと疲労が滲んでいた。
「敵の中枢である大司教を討てば、悲劇は根元から絶たれるかもしれない。犠牲を出してでも王都を落とすことが、魔王としての私の責任なのではないかと……そう思う自分もいるのだ」
彼女は、かつて人間側に奪われ、無惨に殺されていった魔族たちの怨念を一身に背負っている。復讐の機会が目の前にあるのに、それに手を伸ばさないことは、過去の犠牲者たちを裏切ることになるのではないか。
「だが、お前の言う通り、敵地に攻め入れば補給は途絶え、多くの兵が再び死んでいく。……お前がせっかく作ってくれた『生きて帰る』という希望を、私自身の命令で叩き潰すことになる。私は……どうすればいい」
それは、王という孤独な座にいる彼女が、初めて他者に対して見せた、張り裂けそうなほどの弱音だった。
ゲンは無言のまま、十分な熱を持った装甲板を炉から引き出し、金床の上に置いた。
そして、ハンマーを振り上げる。
カンッ、カンッ!
静かな大工房に、鉄を叩く甲高い音が響き渡った。
「俺は鍛冶屋だ。国の動かし方なんて小難しいこたぁ知らねぇよ」
ゲンはハンマーのリズムを変えることなく、ひしゃげた装甲板の歪みを裏側から少しずつ叩き出していく。
「ただ、壊れた道具を直す時の鉄の理屈なら分かる」
カン、カン、という音が、ルヴィアの迷いを断ち切るように響く。
「こういうひしゃげた箇所を直す時、一番簡単なのは、上から分厚い鉄板をベタベタと継ぎ足して、ガチガチに硬くしちまうことだ。そうすりゃ強度は上がるし、二度と同じ場所が凹むことはねぇだろうな」
ゲンはハンマーを止め、赤熱する装甲板をルヴィアの方へ向けた。
「だが、そんなことをしたら重心が狂う。無駄に重くなって、着てる人間が身動きできなくなる。元の形を無視して別物に作り変えちまったら、そいつはもうお前の鎧じゃねぇ。ただの不格好な鉄の塊だ」
「……」
「直すってのはな、本来あるべき形に戻して、二度と同じところが割れねぇように『しなやかさ』を足してやることだ。力任せに別の道具に作り変えることじゃねぇんだよ」
ゲンは再び装甲板を金床に戻し、今度は少し軽めのハンマーで、表面の細かな歪みを整えるように叩き始めた。
鉄を本来の形に戻す。別のものにはしない。
その職人としての冷徹で純粋な言葉は、ルヴィアの胸の奥底に、一本の光の矢のように真っ直ぐに突き刺さった。
(……そうだ。別物にしてしまっては、意味がないのだ)
ルヴィアは目を見開いた。
復讐のために魔王軍を侵略国家へと作り変え、王都を焼き払い、力で人間どもを支配する。それは確かに『元より強い国』になるかもしれない。
だが、それは彼女が本当に守りたかった魔王領の姿なのか。
民が穏やかに笑い合い、誰かに虐げられることなく、自分たちの居場所で生きていく。その本来の形を取り戻すために彼女は王になったはずだ。血に飢えた復讐の化物という『別物』になってしまえば、国としての重心は狂い、いずれ内側から崩壊する。
「……フッ」
ルヴィアの口元から、自然と柔らかな笑みがこぼれた。
「本当に、お前という男は……。どこまでもただの職人だな」
「当たり前だ。他に何があるってんだ」
「いや……それでいい。おかげで、目が覚めた」
ルヴィアの顔からは、先程までの暗い迷いは完全に消え去っていた。そこにあるのは、魔王として、自らの国の在り方をはっきりと定めた者の、揺るぎない覚悟の表情だった。
「礼を言うぞ、ゲン。私の鎧……しかと頼んだ」
彼女は翻った足取りで、大工房の出口へと向かっていった。
ゲンは振り返ることなく、装甲板を冷却水へと沈めた。ジュゥゥゥという激しい水蒸気の音が、心地よく響いた。
* * *
翌朝。
大工房の奥に設けられた作戦会議のテーブルには、昨日にも増して熱を帯びた将軍たちが集まっていた。
「陛下! 全軍の準備は整っております。いつでもアルヴァレムの王都へ向けて、進軍の号令を!」
ザガンが身を乗り出して口火を切る。他の将軍たちも、今か今かとルヴィアの決断を待っていた。
少し離れた場所で、ゲンは研磨の作業をしながら、その様子を静かに窺っていた。
ルヴィアはテーブルの上座に立ち、広げられた国境の地図をゆっくりと見渡した。そして、静かに、だが大工房全体に響き渡るような威厳に満ちた声で告げた。
「全軍に命ずる。王都アルヴァレムへの侵攻は……行わない」
「なっ……!?」
ザガンをはじめとする将軍たちが、一斉に息を呑み、絶句した。
「へ、陛下! なぜですか! 今こそ長年の恨みを晴らし、我らの真の力を示す時ではないのですか!」
「復讐のために軍を動かせば、我々もまた教会の連中と同じように、民の命を使い捨てるだけの侵略国家に成り下がる」
ルヴィアはザガンの目を見据え、一歩も引かずに言い放った。
「私が守りたかった魔王領は、そのような血に飢えた別物ではない。人間どもの真似事をして、この国を暴力の機械に作り変えるつもりはないのだ」
「しかし、それでは奴隷鉱山で死んでいった同胞たちの無念は!」
「彼らの無念を晴らすのは、敵の血を流すことではない。彼らが帰りたかった『居場所』を、二度と誰にも奪われないように強固に守り抜くことだ」
ルヴィアは腰の長剣を抜き、地図上の魔王領の国境線にドンッと突き立てた。
「我々の目的は復讐でも、征服でもない。徹底した『防衛』だ。大工房長が作ってくれた生還のための装備で国境を厚く固め、攻め入る人間どもをただ冷徹に弾き返す。……いかなる巨大な暴力にも決して屈しない、不落の防衛国家を築く」
ざわめきが広がった。
だが、ルヴィアはそこで言葉を切らなかった。
「ただし」
その一言で、将軍たちの視線が再び彼女へ集まる。
「王都を焼かぬことと、聖剣教会の罪を見逃すことは別だ」
ザガンが顔を上げた。
「陛下……?」
「奴隷鉱山。黒核石。粗悪な聖剣。奪われた研究。勇者レオルドが見た事実」
ルヴィアは一つずつ、指を折るように挙げていく。
「奴らは多くのものを隠してきた。ならば、我々が集める」
「……何を、です」
「証拠だ」
大工房の空気が変わった。
「王都は焼かぬ。民を巻き込み、兵を使い捨てる侵攻もしない。だが、教会の嘘まで見逃すつもりはない」
ルヴィアは地図から長剣を引き抜いた。
「鉱山の記録を集めろ。聖剣の素材と流通を洗え。人間側の中にも、教会のやり方に疑問を持つ者はいる。勇者レオルドも、その一人だ」
「まさか……」
「剣で王都を奪うのではない」
ルヴィアの赤い瞳が、鋭く光った。
「奴ら自身が隠してきた事実を、人間側の兵と民へ突きつける。教会の支配を、証拠で折る」
沈黙。
先ほどまで王都侵攻を叫んでいた将軍たちですら、その言葉の意味をすぐには飲み込めずにいた。
それは、過去の恨みに囚われていた魔王軍の古い歴史が終わりを告げ、新たな国の形が定まった瞬間だった。
ルヴィアの言葉には、復讐の狂気に流されない王としての矜持と、民の命を何よりも重んじる深い慈愛があった。
「……」
反攻を声高に叫んでいたザガンも、そのルヴィアの揺るぎない覚悟と、彼女が示した「国を別物にしない」という真理の前に、もはや何も言い返すことはできなかった。
彼はゆっくりと膝をつき、深く頭を垂れた。
「……御意。陛下の仰る通りに。我ら魔王軍、この命に代えても、陛下の思い描く防衛の盾となりましょう」
他の将軍たちも次々と膝をつき、ルヴィアへの絶対の忠誠を示す。
その光景を横目で見ながら、ゲンは研ぎ上がった槍の穂先を布で拭い、小さく鼻を鳴らした。
「……ま、それでいいんじゃねぇの」
誰にも聞こえないほどの小さな独り言。
山奥の職人が持ち込んだ『滅びないための技術』が、ついに魔王軍という巨大な組織の思想そのものを書き換えたのだ。
人間側との最終決着へ向けて、魔王軍は今、決して砕けることのない最強の「盾」として、その真の完成を見ようとしていた。




