第31話 勝てるなら、王都まで攻めるべきか
勇者レオルドの敗北と、彼の持つ聖剣が粉々に砕け散ったという事実は、魔王軍全体に爆発的な熱狂をもたらしていた。
大工房の奥に設けられた作戦会議用の大きな木のテーブルには、魔王領と人間側の国境を記した広大な地図が広げられていた。
「見ろ、人間どもの前線基地は完全に浮足立っている」
武闘派幹部のザガンが、地図の上に置かれた木製の駒を力強く前へと押し出した。彼の顔には、かつてないほどの高揚感が浮かんでいる。
「聖剣教会の最高戦力たる勇者が敗れ、量産型の聖剣も次々と折れることが現場の兵士たちに知れ渡ったのだ。奴らの士気は底を突いている。今こそ、長年の雪辱を果たす時だ」
テーブルを囲む他の将軍たちも、一様に熱を帯びた目で頷いた。
「ザガン将軍の言う通りだ。これまでは防戦一方だったが、今の大工房長が整えてくれた『折れない槍』と『死なない鎧』、それに強靭な荷車の補給線がある。今の我らならば、国境を突破し、聖王国アルヴァレムの王都まで一気に攻め上ることができる!」
「奴隷鉱山の報復だ! 教会の連中を王城から引きずり下ろし、魔族の恐ろしさを骨の髄まで思い知らせてやろう!」
勝利の気配に酔いしれ、作戦会議は「いかにして王都を攻め落とすか」という侵攻論一色に染まっていた。
テーブルの上座には魔王ルヴィアが立ち、腕を組んで彼らの激論を静かに聞いている。彼女の瞳の奥にも、かつて同胞を虐げられた怒りと、積年の戦いに終止符を打てるかもしれないという王としての野心が微かに揺らめいていた。
「……おい。勝手に人の道具の用途を変えんじゃねぇよ」
熱狂に包まれていた会議の空気を、水を差すようなひどく低い声が切り裂いた。
将軍たちが一斉に振り返ると、大工房の炉のそばで作業をしていたゲンが、ハンマーを持ったまま近づいてくるところだった。
「大工房長……用途を変えるとは、どういう意味だ?」
ザガンが怪訝な顔で尋ねる。彼はゲンに命を救われて以来、彼を心から尊敬しているが、今の言葉の意図は全く読めなかった。
ゲンは作戦テーブルの横に立ち、ザガンが誇らしげに着ている鱗鎧をハンマーの柄でコツンと叩いた。
「その鎧は、飛んでくる矢や剣を斜めに滑らせて『やり過ごす』ための構造だ。攻城戦で城門をこじ開けたり、敵陣のど真ん中で無双するための重装甲じゃねぇ。槍だって同じだ。あれは陣形を組んで待ち構え、敵の突撃を『しなり』で受け止めるための防衛用の得物だぞ」
「そ、それはそうかもしれないが、事実として我々はこの装備で敵を圧倒しているではないか」
「それは自分の陣地で、万全の補給を受けながら戦ってるからだ」
ゲンは地図の上に置かれた、王都へと長く伸びた人間側の領土を指でトントンと叩いた。
「いいか。侵攻ってのは、敵のホームグラウンドに踏み込むってことだ。俺が荷車の車軸を改良したから補給線は安定してるが、それだって前線砦までの悪路を想定したセッティングだ。そこから先、敵が橋を落とし、井戸に毒を投げ込み、道なき道を進むことになれば、いくら獣の脂を塗った鉄の軸受けだって摩耗して焼き付く」
ゲンの目は冷徹だった。戦場の熱狂など微塵も介さない、ただの物理と品質管理の視点だ。
「補給が伸び切った先で武器が刃こぼれし、鎧の留め具が壊れた時、誰が現場で直すんだ? 俺は大工房ごと王都まで出張してやる気はねぇぞ。直せなくなった防具を着た兵士は、ただの動く的だ」
ゲンは将軍たちをぐるりと見渡した。
「……勘違いすんな。俺は敵の城を落として『勝つため』にこいつらを打ったんじゃねぇ。お前らがこれ以上、無駄死にして『滅びないため』に作ったんだ」
その言葉に、将軍たちは息を呑んだ。
勝利のための武器ではない。滅びないための道具。
あまりにも消極的で、しかし、数え切れないほどの魔族の命を実際に繋ぎ止めてきた、重すぎる事実だった。
「しかし……!」
一人の将軍が、たまらず声を荒げた。
「人間どもは、我らの同胞を奴隷鉱山で家畜のように扱い、その命をすり潰して自分たちの武器を作っていたのだぞ! あの大司教とかいう黒幕を討ち取り、根源を絶たねば、我々に真の安寧など訪れないではないか!」
「そうだ! 大工房長の技術が優れているからこそ、今ここで息の根を止めなければ、奴らは必ずまた新たな手を打ってくる!」
反攻論の炎は、そう簡単には消えなかった。彼らの主張にも、十分な戦略的合理性と、血を流された側としての痛切な大義があるからだ。
ゲンはそれ以上反論しなかった。
「……俺は鍛冶屋だ。鉄の限界と、道具の適性しか語らねぇ。どこで戦うかを決めるのは、あんたらだ」
ゲンはそう言い残し、背を向けて再び自分の作業台へと戻っていった。カン、カンと、再び一定のリズムで鉄を打つ音が響き始める。
取り残された作戦会議のテーブルには、重い沈黙が落ちていた。
「……陛下」
ザガンが、すがるような視線をルヴィアに向けた。
「大工房長の言う、兵站と装備の限界は理解できます。しかし、戦術的に見れば、今を逃せば二度と敵の中枢を叩く機会は訪れないかもしれません。……ご決断を」
ルヴィアは地図を見つめたまま、微動だにしなかった。
王都アルヴァレムを地図上で睨む彼女の頭の中には、二つの道が明確に広がっていた。
一つは、魔族の王として、長年の怨敵を打ち滅ぼし、圧倒的な勝利と復讐を手にする道。犠牲は出るだろうが、あの憎き教会をこの世界から消し去ることができる。
もう一つは、山奥の職人が示した、これ以上誰も無駄死にさせないための『防衛』の道。それは敵を滅ぼさない以上、常に脅威と隣り合わせの、地味で終わりの見えない忍耐の道だ。
(……私は、強い武器が欲しかった。だが)
ルヴィアの視線が、奥の炉の前で火の粉を浴びながら鉄を打つゲンの背中へと向かう。
あの男が作ってくれた道具で、魔王軍は生き返った。あの男が持ち込んだ『死なないための技術』が、魔族の兵士たちの心に初めて「生きて帰る」という希望の火を灯したのだ。
もしここで侵攻を選び、敵地深くで武器が壊れ、兵が次々と死んでいけば、それは結局、人間側の教会が奴隷を使い潰して聖剣を作っていたことと、何ら変わりないのではないか。
我らは、あの人間たちと同じにはならないと、勇者レオルドに対して宣言したばかりではないか。
「……」
ルヴィアはきつく目を閉じ、自身の奥底にある王としての怒りと、一人の為政者としての理性の間で、激しく揺れ動いていた。
大工房に響くハンマーの音が、彼女の選択を急かすように、静かに、そして重く時を刻んでいた。




