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第30話 聖剣が折れる日


魔王領の最前線に位置する防衛砦の前に、冷たい風が吹き荒れていた。


砦の物見櫓から眼下の荒野を見下ろしていたゲンは、面倒くさそうに首の裏を掻いた。


「……わざわざ引き返してくるとは、馬鹿な野郎だ」


「アイデンティティが崩壊して、自暴自棄になっているんでしょうね」


隣に立つリュシアが、呆れたような、しかしどこか同情するような声で言った。


荒野の中央に、一人の男が立っていた。


勇者レオルドだ。


彼は大工房で奴隷鉱山の真実を知り、一度は聖王国アルヴァレムへと踵を返した。


教会に問いたださなければならない。


自分が信じてきた正義が、本当にあの子供たちの血の上に築かれていたのか。


それを確かめるために。


だが。


国境へ向かう途中で、レオルドの足は止まった。


もし、すべてが事実だったら。


大司教も、教会も、聖戦も。


自分が命を懸け、仲間を死なせ、それでも正しいと信じてきたものが、最初から間違っていたとしたら。


その現実を真正面から受け止める勇気を、彼はまだ持てなかった。


だから。


最後の逃げ道に縋った。


魔王を倒せば。


神の敵たる魔王を、この手で討ち果たすことができれば。


自分の正義は、まだ完全には死んでいない。


教会の教えも、すべてが嘘だったわけではない。


そう証明できるかもしれない。


そんな絶望的な願いに縋りつき。


半ば狂乱したように、彼は再び魔王軍の前線へ現れたのだ。


『退け! 私は勇者だ! 神の御名において、貴様ら邪悪を討ち果たす!』


叫び声は悲痛で、どこか自分自身に言い聞かせているようだった。


レオルドの身体を包んでいた神聖な鎧は、すでに前の戦闘で自壊し、大部分が剥がれ落ちている。今の彼は、防御を捨て、ただ手に握る聖剣の魔力だけに頼って剣を振り回していた。


だが、魔王軍の兵士たちは崩れない。ゲンの打った鱗鎧スケイルアーマーが聖剣の軌道を滑らせ、折れない短槍の陣形が、レオルドの猛攻を冷静に押し留めていた。


「退がれ。お前たちの手に余る」


陣形の後方から、静かで重圧のある声が響いた。


魔王ルヴィアだった。


彼女は王としての黒いマントを翻し、自らの手で長剣を抜き放ちながら、レオルドの真っ正面へと進み出た。


『魔王……!』


レオルドの目に、狂信的な光が宿る。


『そうだ、お前を討てば! お前さえ討ち果たせば、私の正義は、教会の教えは証明されるのだ!』


「愚かな」


ルヴィアは冷徹な眼差しで、突進してくる勇者を見据えた。


「事実から目を背け、道具に縋って暴れる姿は、もはや戦士ですらないな」


物見櫓からその様子を見ていたゲンは、レオルドの握る聖剣から放たれる青白い光の歪みを、はっきりと捉えていた。


「……終わりだな」


ゲンがぽつりと呟いた。


「限界ですか?」


「ああ。あの剣は、防衛砦で見た時点で内部に無数の微細な亀裂マイクロクラックが入っていた」


ゲンは目を細めた。


「あれから手入れもせずに無理な魔力を込めて、硬い鱗鎧を何度も殴りつけたんだ。金属内部に溜まりきった応力が、もう逃げ場を失ってやがる」


鉄は嘘をつかない。


現場で無茶な扱いを続ければ、どれほど神聖な装飾でコーティングされていようと、物理的な限界は必ず訪れる。


『おおおおおっ!!』


レオルドが絶叫と共に、残されたすべての魔力を聖剣に注ぎ込んだ。刀身が膨大な魔力によって激しく明滅し、一撃必殺の光の刃となってルヴィアの頭上へと振り下ろされる。


対するルヴィアは、回避すらしなかった。


彼女は姿勢を低く沈め、自らの長剣を斜めに構えて、レオルドの聖剣を真っ向から受け止めた。


ガァァァンッ!!


凄まじい衝撃音が荒野に響き渡り、二人の足元の地面が爆発したように抉れた。


だが、ルヴィアの剣は弾かれない。彼女は王としての圧倒的な身体能力で踏みとどまり、レオルドの聖剣の軌道を僅かにずらして応じた。


その瞬間、限界まで魔力を溜め込んでいた聖剣の内部構造が、ついに悲鳴を上げた。


ピキッ……。


ガラスにヒビが入るような、微かな音。


それが致命的な合図だった。


内部の亀裂が一気に繋がり、蓄積された応力が破断のエネルギーとなって刀身全体を駆け巡る。


――パァンッ!!


目も眩むような閃光と共に、聖剣は鍔の少し上の部分から、見事に真っ二つに折れ飛んだ。


砕けた刀身の破片が青白い光を引きながら宙を舞う。


やがて魔力の輝きを失い、鈍い金属片となって、乾いた土の上にカラカラと転がっていった。


「あ……」


レオルドは、柄だけになった剣を握りしめたまま、信じられないというように目を見開いた。


彼がすべてを懸けて信じてきた「決して折れぬ絶対の正義」が、物理的な結果を伴って、完全に、そして無惨に砕け散ったのだ。


「あ、ああ……」


レオルドの膝から力が抜け、彼はがくりと地面に崩れ落ちた。


手から剣の柄が滑り落ちる。彼はもはや立ち上がる気力すら失い、虚ろな目で地面に散らばった聖剣の破片を見つめていた。


「……言っただろ」


物見櫓から降りてきたゲンが、ゆっくりと近づきながら声をかけた。


「鉄は嘘をつかねぇってな。お前のその剣がどれだけの犠牲の上に作られ、どれだけ現場で無理をしてきたか。折れたって結果が、何よりの証明だ」


レオルドは何も言い返さなかった。


ただ、後悔と絶望に満ちた涙が、彼の頬を伝い落ちた。


「殺せ……」


かすれた声で、レオルドが呟いた。


「私の信じたものは、すべて虚構だった……。剣は折れ、私は敗れた。ならば、せめて戦士として……首を刎ねろ」


彼はうなだれたまま、ルヴィアの前に自らの首を差し出した。魔族を虐殺してきた自分は、ここで残酷に処刑されるのが相応しいと、そう思い込んでいるのだ。


ルヴィアは彼を見下ろし、そして――静かに自らの長剣を鞘に納めた。


「……魔王?」


予想外の行動に、レオルドが呆然と顔を上げる。


「勘違いするな、人間」


ルヴィアの声は冷徹でありながら、王としての揺るぎない矜持に満ちていた。


「お前を殺さないのは、慈悲ではない。我らの目的が、無益な殺戮や征服ではないからだ。我々が武器を手に取るのは、ただ生きるため……お前たちの理不尽な侵略から、同胞の命と居場所を防衛するためだ」


彼女は一歩踏み出し、レオルドに背を向けた。


「我らは、お前たちと同じにはならない。力なき者を使い捨て、血で血を洗う正義など、我が軍には不要だ」


それは、魔王軍がかつての強者主義を捨て、ゲンが持ち込んだ「死なないための技術」によって生まれ変わったことを示す、明確な宣言だった。


勝ち誇ることも、とどめを刺すこともせず、ただ己の在り方を示す。


その王の背中を見て、レオルドはついに声を上げて泣き崩れた。自らが魔族に向けてきた刃がいかに独善的で残酷なものだったかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。


勇者の改心は、この瞬間、完全に完了した。


折れた聖剣の残骸が転がる荒野で、彼の中にあった教会の傀儡としてのアイデンティティは死に、一人の人間としての新たな意志が芽生えようとしていた。


やがて。


泣き疲れたレオルドは、ゆっくりと顔を上げた。


その目には、もう先ほどまでの狂信的な光はなかった。


「……私は」


掠れた声。


「私は、戻らなければならない」


ルヴィアが振り返る。


「どこへだ」


「アルヴァレムへ」


レオルドは地面に落ちた聖剣の柄へ手を伸ばした。


折れた刀身。


傷だらけの柄。


もう二度と「決して折れぬ正義」の象徴には戻らない、壊れた剣。


それでも彼は、その残骸を両腕で抱え込むように拾い上げた。


「今度こそ……逃げずに、問いに行きます」


声は震えていた。


「大司教猊下に。教会に。奴隷鉱山のことも、この剣のことも……すべて」


ゲンは何も言わない。


レオルドは折れた聖剣を見下ろした。


「私が何を信じ、何をしてきたのか。その答えを……自分の目で確かめなければならない」


今度こそ。


魔王を倒して自分の正義を証明するためではない。


真実から逃げないために。


レオルドは、折れた聖剣を抱えて立ち上がった。


その足取りは重い。


だが。


先ほどまでのように、自分自身から逃げるためのものではなかった。


ゲンはその背中を見送り、やがて空を見上げた。


「……さて。これで目障りな剣はなくなったが」


人間側が誇る最高戦力の敗北。


そして、背後で蠢く大司教バルザックと、聖剣教会の真の思惑。


山奥の鍛冶屋が打ち直した魔王軍は、いよいよ、すべての元凶たる巨大な利権と組織に向け、最終決着の時を迎えようとしていた。


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