第25話 女魔王、職人を守る
魔王城への帰路、深い夜の闇が山道を覆っていた。
前線砦での視察を終えたゲンは、大工房へ戻るための人気のない裏道を歩いていた。普段ならリュシアが口うるさく付き纏うところだが、今日は前線での結界維持で魔力を使い果たし、一足先に馬車で城へと帰らせていた。
その代わりと言うべきか、今は魔王ルヴィア本人が、数人の護衛を遠ざけてゲンの隣を歩いている。
「……わざわざあんたが護衛につくこたぁねぇだろ。俺はただの鍛冶屋だぞ」
ゲンが面倒くさそうに首の裏を掻きながら言うと、ルヴィアは夜風に黒髪をなびかせ、前を向いたまま答えた。
「ただの鍛冶屋ではない。今の我が軍にとって、お前は第一級の重要人物だ。人間どもが、お前の存在に気づいていないはずがない」
ルヴィアの声には、王としての厳しい警戒感が滲んでいた。
「勇者レオルドが砦に現れたことでも明らかだ。教会の連中は、前線での劣勢の原因が『異端の技術を振るう人間』にあると察知している。確実に、お前を消しに来るだろう」
「消すったって、そう簡単には……」
ゲンが言いかけた、その瞬間だった。
風の音が、不自然に途切れた。
ゲンの職人としての勘――炉の火のわずかな変化や、金属の微細な悲鳴を捉える感覚が、背後の空間の異様な『歪み』に反応した。
(……後ろか!)
振り返ろうとしたゲンの視界の端で、闇そのものが実体を持ったように蠢いた。
迷彩の外套を纏った人間側の暗殺者だった。音一つ立てず、完全に気配を殺して背後の木の上から跳躍してきたのだ。その手には、月明かりを反射しないように艶消し処理された、細く鋭い短剣が握られている。
狙いは魔王ではない。ゲンの首筋、ただ一点だった。
「ッ……!」
避ける暇もない。ゲンが咄嗟にハンマーを盾にしようと腕を上げた時――。
ドンッ! と、強い力で横から突き飛ばされた。
「ルヴィ、ア……?」
地面に転がったゲンが見上げた先には、彼を庇うようにして暗殺者との間に割って入ったルヴィアの背中があった。
暗殺者の放った必殺の短剣は、ゲンの首ではなく、ルヴィアの左肩口の魔鎧へと深々と突き立てられていた。
「チッ……!」
暗殺者が舌打ちをする。魔王の防御呪縛を突破するため、あらかじめ刀身に強力な破砕の魔法を込めていたのだろう。短剣はルヴィアの鎧の装甲板を突き破り、その下の肉にまで到達していた。
「……舐めるなよ、人間の小賢しい鼠め」
ルヴィアは左肩に刃を受けたまま、眉一つ動かさずに右手の長剣を抜き放ち、暗殺者の胴体に向かって凄まじい横薙ぎの斬撃を放った。
暗殺者は間一髪で短剣から手を離し、後方へ大きく跳躍して斬撃を躱す。そして、奇襲が失敗したと悟るや否や、即座に懐から煙玉を叩きつけ、深い森の闇の中へと姿を消した。
残されたのは、濛々と立ち込める煙と、左肩から血を流して立つルヴィア、そして地面に座り込んだままのゲンだけだった。
「おい、ルヴィア! 大丈夫か!」
ゲンは慌てて立ち上がり、ルヴィアに駆け寄った。
「騒ぐな。かすり傷だ」
ルヴィアは平然とした声で言い、自身の左肩に突き刺さったままの短剣の柄を掴み、力任せに引き抜いた。
ごぼりと鮮血が溢れるが、彼女は顔をしかめることすらせず、傷口を手で押さえた。
「それより、お前に怪我がなくて良かった。やはり教会の手の者が入り込んでいるな。これからは、より一層の警戒を――」
「馬鹿野郎、喋るな。見せてみろ」
ゲンはルヴィアの言葉を遮り、彼女の肩口の鎧を覗き込んだ。
「……ひでぇな。暗殺用の特殊な刃だ、刀身に抜けにくくする返しの溝が掘ってある。装甲板は貫通してるし、下地の革もズタズタだ。このままじゃ動くたびに装甲が傷口に擦れて、傷が開くぞ」
ゲンは腰の工具袋から小刀とやっとこを取り出した。
「ここで応急処置をする。その鎧、少し脱げ」
「なっ……!?」
ルヴィアがわずかに目を見開き、一歩後ずさった。
「ここで、か? いくらなんでも……」
「変な想像してんじゃねぇよ。装甲板を外して革を切り取らねぇと、真っ直ぐに患部が圧迫できねぇんだよ。いいから外せ」
ゲンのあまりに事務的で、色気も何もない職人としての言葉に、ルヴィアは毒気を抜かれたように小さく息を吐き、「……分かった」と頷いた。
彼女はマントを外し、首元の留め具を外して、左肩から胸元にかけての鎧のパーツをガシャンと取り外した。
月明かりの下、彼女の白い肌が露わになる。
ゲンは止血のための布を当てようと手を伸ばし――そして、ピタリと動きを止めた。
「……なんだ、これは」
ゲンの声が、不意に低く沈んだ。
彼の視線の先にあるのは、ルヴィアの左肩の新しい刺し傷だけではなかった。
鎧の下に隠されていた彼女の肌には、無数の古い傷跡が刻み込まれていたのだ。刃物で斬られたような一文字の傷、魔法の熱で焼かれたような火傷の痕、深く抉れたような古傷。
それだけではない。透き通るように白いと思っていた肌は、間近で見ると、極度の疲労と睡眠不足による不健康な青白さだった。筋肉は常に緊張を強いられているように強張り、少しの休息も許されていないことが、触れずとも職人の目には明らかだった。
(……こいつ、こんな状態でずっと……)
魔王軍の頂点に立つ、絶対的な強者。
どんな時も威厳に満ち、戦場では誰よりも前に立ち、冷徹に軍を率いる王。
それが、これまでのゲンが見てきた『魔王ルヴィア』の姿だった。
だが、鎧という硬い殻の下に隠されていたのは、傷だらけになりながら、限界を超えて無理やり立ち続けている、一人の酷く消耗した女の身体だった。
「どうした、ゲン。早く止血をしてくれ。血の匂いは森の魔獣を寄せる」
ルヴィアが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
ゲンはハッと我に返り、「ああ、悪い」と短く答えて、素早く傷口に布を当てて圧迫し、持っていた革紐で包帯代わりにきつく縛り上げた。
「……痛まねぇか」
「問題ない。お前こそ、気分でも悪くしたか? それとも、私の身体の傷を見て恐れをなしたか」
ルヴィアは自嘲するように薄く笑い、外した鎧のパーツを拾い上げようとした。
だが、ゲンは彼女の手からその装甲板をスッと奪い取った。
「おい」
「このパーツの留め具、もうイカれてる。俺が預かって直しておくから、あんたは今日はもうそのままでいろ」
「何を言う。それでは示しがつかん。城に戻れば兵たちの目があるのだぞ」
「城の連中には、暗殺者の不意打ちで鎧が壊れたって言っときゃいいだろ。……いいから、今日はもう休め」
ゲンはルヴィアの顔を真っ直ぐに見据えた。
「……あんた、自分のメンテナンスはどうしてんだ」
「メンテナンス、だと?」
「道具だって、使えば刃こぼれもするし、歪みも出る。手入れを怠れば、いつか決定的に壊れる。人間だろうが魔族だろうが、身体も同じだろ」
ゲンは奪い取った装甲板を工具袋に突っ込み、ルヴィアの肩に自分の羽織っていた厚手の上着をバサリと掛けた。
「王様として気を張ってなきゃいけねぇのは分かるがな。ぶっ壊れるまで無理して立ち続けるのが、上に立つ者の責任ってわけじゃねぇだろ。……少しは肩の力抜けよ。俺が打った鎧が泣く」
それは、ただの職人からの忠告という枠を超えた、彼女の身を心底案じる言葉だった。
ルヴィアは掛けられた上着の襟を掴み、呆然とゲンの顔を見つめた。
今まで、誰も彼女にそんな言葉をかけた者はいなかった。配下たちは彼女の強さに平伏し、敵は彼女の強さを恐れる。誰もが彼女を『無敵の魔王』として扱い、彼女自身もその役割を完璧に演じ続けてきた。
だが、目の前の男だけは違う。
彼は魔王としての威厳ではなく、鎧の下にある傷だらけの身体と、疲弊しきった彼女自身を真っ直ぐに見ていた。
「……お前は、本当に」
ルヴィアは俯き、小さく息を吐いた。上着から微かに漂う、煙と鉄の匂いが、不思議と彼女の張り詰めていた神経を解きほぐしていくようだった。
「……少しだけ、休ませてもらうとしよう。お前がそこまで言うのならな」
「ああ、そうしろ。帰るぞ」
ゲンは短く返し、先に立って歩き出した。
ルヴィアはその広い背中を追いかけながら、左肩の痛みよりも、胸の奥で静かに広がる温かい感情を自覚していた。
そしてゲンもまた、前を歩きながら静かに思考を巡らせていた。
(……魔王だの何だの言っても、結局はただの無理してる女じゃねぇか)
彼の中で、ルヴィアの像が「強大で手の届かない王」から、「自分が作った道具で守ってやらなければならない相手」へと、決定的に形を変えた夜だった。




