第17話 最初の小隊が、生きて帰る
大工房の壁際に積まれた、修理待ちの武器の山。
ゲンは作業台に座り込み、刃こぼれした古い鉄剣を砥石に当てていた。シャッ、シャッという単調な音が響く。
魔王軍の最前線、人間側の遊撃部隊と衝突が予想される防衛拠点へ、ゲンの作った新型の鱗鎧と折れない短槍を装備した小隊が派遣されてから、数日が経過していた。
そろそろ、最初の衝突の結果が届く頃合いだ。
「……ゲンさん、少し落ち着かないですね」
傍らで木炭の粉を計量していたリュシアが、クスリと笑って言った。
「別に。刃の角度が狂ってねぇか確かめてるだけだ」
「嘘です。さっきから同じ剣を三回も研ぎ直してるじゃないですか。自分の作った防具が実戦でどうなるか、心配なんでしょ?」
「馬鹿言え。俺の打った鉄は裏切らねぇよ」
ゲンはぶっきらぼうに返し、研ぎ上げた剣を乱暴に木箱へ放り込んだ。
その時だった。
大工房の重い扉が開き、伝令の兵士が転がり込んできた。
「ぜ、前線の小隊が……! 帰還しました!」
息を切らす伝令の声に、大工房にいたドワーフたちも、ゲンも、一斉に手を止めた。
ゲンは前掛けで手を拭い、無言で立ち上がって城の中庭へと向かった。
中庭の石畳には、人間側の精鋭と激突した小隊の兵士たちが座り込んでいた。
彼らの姿は、凄惨の一言だった。鱗鎧の鉄板はあちこちがひしゃげ、ひっかき傷のような剣痕が無数に刻まれている。短槍の樫の柄は血と泥に塗れ、兵士たちの顔も煤と疲労で汚れきっていた。
決して、華々しい圧勝ではなかったのだ。圧倒的な物量と魔力を誇る人間側を相手に、泥這うような防衛戦を強いられたことは一目で分かった。
だが。
「……生きてる」
リュシアが、信じられないものを見るように呟いた。
これまで、その防衛拠点に派遣された下級兵の小隊は、一人残らず全滅するか、良くて数名が這々の体で逃げ帰ってくるのが常だった。
しかし今、中庭にいる兵士たちは、重傷者こそ数名いるものの、誰一人として命を落としていなかった。全員が、自らの足で歩き、生きて帰ってきたのだ。
ゲンが中庭に足を踏み入れると、一人の獣人兵が立ち上がり、ふらつく足取りで歩み寄ってきた。彼の着ている鱗鎧は左肩の鉄片が数枚剥がれ落ち、下地の革が露出している。
「大工房長……」
「大工房長じゃねぇって言ってるだろ。怪我の具合はどうだ」
「大したことはありません。……これのおかげです」
獣人兵は、傷だらけになった鱗鎧の胸元を叩いた。
「敵の重騎士の剣を食らいました。今までの一枚板の鎧なら、間違いなく骨ごと両断されていた一撃です。でも、この重なった鉄板が刃を斜めに滑らせて、衝撃を逃がしてくれた……っ」
兵士の声が、微かに震えていた。
「槍も、そうです。何度も弾かれ、盾で殴られましたが、柄がぐんと撓って、絶対に折れなかった。折れないから、最後まで敵を突き返せたんです」
獣人兵は、血と泥に塗れた手で、ゲンの前掛けを不器用に握りしめた。
「俺……初めてです。戦場に立って、背中を向けずに……生きて帰れるって、思えたのは」
ボロボロと、獣人兵の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。周囲に座り込んでいた兵士たちも、次々と声を上げて泣き始めた。絶望しかなかった死地から生還できた安堵と、自分たちの命を繋ぎ止めてくれた道具への感謝が、中庭を満たしていく。
「……泣くほどの事じゃねぇ」
ゲンは面倒くさそうに頭を掻き、獣人兵の手を軽く叩いて離させた。
「槍の穂先が少しこぼれてるな。あとで工房に持ってこい、研ぎ直してやる。鎧も、剥がれたパーツの予備は打ってある。……手入れして、次も使え」
感傷を切り捨てるような素っ気ない言葉。だが、兵士たちは力強く頷き、ゲンに対して深く、深く頭を下げた。
その光景を、城のバルコニーから見下ろしている者がいた。
魔王ルヴィアである。
彼女の元には、すでに小隊の部隊長が直接報告に訪れていた。部隊長は床に膝をつき、泥だらけの顔を歪ませて泣き咽んでいた。
『陛下……! 武器が、折れませんでした! 鎧が、我らの命を繋いでくれました! 誰一人欠けることなく、全員、生きて帰ってまいりました……っ!』
その涙の報告を聞いた時、ルヴィアの心臓は大きく跳ねた。
魔王軍の長として、彼女は常に「敵を滅ぼすための力」を求めていた。人間側の勇者や聖騎士を打ち倒す、絶対的な最強の剣を。
だが、最強の剣を手に入れたとして、それで最前線で死んでいく力弱き民を救えただろうか。
彼女の視線の先には、傷ついた鱗鎧のパーツを点検し、ぶっきらぼうに兵士たちを追い立てているゲンの姿がある。
(……そうか。お前は)
ルヴィアはバルコニーの手すりを強く握りしめた。
ゲンの仕事は、単なる武器の製造ではなかった。彼女がどうしても守り切れず、死なせてしまっていた民の命を、彼が打つ薄っぺらい鉄板と木の棒が、確実に救い上げているのだ。
その事実に気づいた時、王としての冷徹な思考の奥底で、一人の女としてのどうしようもない熱情が、静かに、しかし決定的に輪郭を持ち始めていた。
その日の夜。
大工房の炉の火は落とされ、静寂が支配していた。
ゲンは一人、作業台のランプの灯りを頼りに、昼間帰還した小隊の鱗鎧を修理していた。
剥がれ落ちた鉄板の鋲を専用の工具で抜き取り、あらかじめ大量に打っておいた新しい鉄板を重ね合わせて、再びカシメる。手慣れた作業だ。
コツン、という足音がして、ルヴィアが工房の奥から現れた。
彼女は王としての豪奢なマントを外し、軽装の私服姿だった。
「……こんな夜更けに何の用だ。鉄はもう打たねぇぞ」
ゲンは手を止めず、鋲を打ち込む作業を続けた。
「少し、お前の顔が見たくなってな」
ルヴィアはゲンの向かい側に立ち、彼の手元を見つめた。
「見事なものだ。一枚板の鎧であれば、丸ごと炉で溶かして打ち直さねばならないほどの損傷を、たった数分で直してしまうとは」
「当たり前だ」
ゲンは新しい鉄板を革紐に固定し、ハンマーで軽く叩いて馴染ませた。
「戦場で壊れない道具なんて存在しねぇ。だったら、壊れた時にどうやって素早く、同じ品質で直せるかが重要なんだ。これならパーツを交換するだけで、新品と同じ強度が戻る。安上がりで合理的だろ」
職人としての理屈を淡々と語るゲン。彼は自分の仕事が、兵士たちの命だけでなく、魔王の心すらも救い上げていることに全く気づいていない。
ルヴィアは、そんなゲンの横顔を見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……私は、強い武器が欲しかった」
「あ?」
「敵を薙ぎ払い、恐れさせるような、強大な力が欲しかったのだ。だが……」
ルヴィアは手を伸ばし、ゲンが修理を終えたばかりの鱗鎧の表面に、そっと指先を這わせた。鉄と革の、武骨で温かみのない感触。
「お前は、私が本当に欲しかったものを作っていたのだな」
それは、勝利という名の虚栄ではなく、自らの民が明日も生きて笑うための「生存」だった。
「……何言ってんだ、あんた。熱でもあんのか?」
ゲンは心底不思議そうな顔をして、ルヴィアの顔を覗き込んだ。
「俺が作ってんのは、ただ直しやすいだけの安物の防具だぞ。欲しかったってんなら、次はあんたの分も打ってやるよ。どうせその派手な魔鎧も、継ぎ接ぎだらけでボロボロなんだろ」
あまりにも鈍く、色気のない返答。
だが、その不器用な実用主義こそが、ルヴィアにはひどく心地よかった。
「ふっ……あははははっ!」
ルヴィアは堪えきれずに、大工房に響くような声で笑い出した。王の威厳などかなぐり捨てた、年相応の娘のような屈託のない笑い声だった。
「な、なんだよ。急に笑い出しやがって」
「いや……すまない。お前は本当に、ただの職人なのだなと思ってな」
ルヴィアは笑い涙を指で拭い、愛おしそうにゲンを見つめた。
「頼むぞ、ゲン。私の鎧も、お前に任せよう」
魔王軍の兵士たちがゲンに向ける信頼は、もはや絶対のものとなった。そして、魔王ルヴィア自身の彼に対する感情もまた、単なる契約や利害を超えた、確かな熱を帯びて踏み出していた。




