第16話 女魔王、鉄に嫉妬する
魔王城の奥深く、謁見の間。
ルヴィアは玉座に深く腰掛け、不機嫌そうに組んだ指先で肘掛けをコツコツと叩いていた。
「……遅いな」
彼女の呟きに、控えていた側近がビクッと肩を震わせた。
「へ、陛下。やはりあの人間の職人は、王の呼び出しを軽んじているのではないでしょうか。私が大工房まで赴き、無理にでも引っ立ててまいりましょうか」
「不要だ。あの大工房は、彼にとっての戦場だ。無闇に邪魔立てはするな」
ルヴィアは側近を制したが、その声には明らかな苛立ちが混じっていた。
前線からの報告は連日、彼女の耳に届いていた。荷車の改良による補給線の復活。折れない短槍と死なない鱗鎧がもたらした、下級兵たちの生存率の劇的な向上。
軍の状況は確実に上向いている。その最大の功労者であるゲンを呼び出し、王として直々に労いと新たな権限の授与を行おうとしたのだが……肝心の呼び出した本人が、指定の時刻を過ぎても一向に姿を見せないのだ。
「……しかし、これでは私の面目が立たん。直接、様子を見に行くとしよう」
ルヴィアは玉座から立ち上がり、長いマントを翻して大工房へと足を向けた。
大工房の火山炉は、今日も轟々と熱気を噴き上げている。
ルヴィアが足を踏み入れると、硫黄と鉄の匂いが混ざり合った熱風が彼女の頬を撫でた。
視線の先、一番大きな炉の前で、ゲンは前掛け姿のまま炎と向かい合っていた。彼の手には、以前リュシアが見つけてきた『泥石』の粉末を混ぜ込んだ耐火煉瓦で作られた、特製の焼き戻し用の治具が握られている。
カン、カン、というリズミカルな金槌の音ではなく、今はただ、シュゥゥゥ……という静かな水蒸気の音が響いていた。
「ゲン」
ルヴィアが声を掛けるが、ゲンは火かき棒から手を離さず、振り向きもしない。
「後にしてくれ。今、星鉄の焼き戻しの肝の温度だ。泥石が熱を溜め込みすぎて、一秒でも目を離すと炭素が抜けちまう」
ルヴィアの眉がピクリと動いた。
「私が呼び出したはずだが? 王の呼び出しよりも、その鉄の塊の方が重要だと言うのか」
王としての威厳を込めた問いかけだったが、ゲンは炉の中の火の赤さから全く目を逸らさない。
「ああ、今はな」
素っ気ない、しかし極めて真剣な一言。
その言葉を聞いた瞬間、ルヴィアの胸の奥で、微かな、しかしはっきりとした『苛立ち』がチリッと音を立てた。
それは王としての面子を潰された怒りではなく、自分の声が、ただの鉄の塊に負けたという、奇妙で割り切れない感情だった。
「……ふん。ならば、その鉄が冷えるまで待たせてもらおう」
ルヴィアは腕を組み、ゲンの背中を睨みつけるようにしてその場に立ち尽くした。
その光景を、少し離れた作業台から見ていたリュシアが、呆れたようにため息をつきながら歩み寄ってきた。
「魔王様、諦めた方がいいですよ。あの人は、素材と道具の話になったら、王様だろうが神様だろうが関係なくなっちゃいますから」
リュシアは手にしていたヤスリを軽く振りながら、どこかおかしそうに笑った。
「私なんて、せっかく命懸けで珍しい素材を採ってきても、『おう、置いとけ』の一言で終わらされることがしょっちゅうです。あの人にとって、鉄の温度管理は、魔王の命令より重いんですよ」
「……不敬な男だ。私がわざわざ労ってやろうというのに」
「でも、そうやって鉄を優先してくれるからこそ、前線の兵士たちは助かってるんですよね」
リュシアの言葉に、ルヴィアは反論できなかった。
彼女はもう一度、ゲンの背中を見つめた。
燃え盛る炎の前で、汗だくになりながら鉄の理と向き合うその姿。王である自分には決して見せないほどの熱意と真剣さを、ただの鉄の塊に向けている。
(……私が、鉄に嫉妬している、だと?)
ルヴィアは自身の内に芽生えた感情の正体に気づき、小さく息を呑んだ。
そんな感情を抱くなど、王としてあり得ないことだ。だが、炉の熱とは違う熱さが、確かに彼女の頬を上気させていた。
「……おい」
やがて、ゲンが火かき棒を置き、額の汗を前掛けで乱暴に拭いながら振り返った。
「終わったぞ。で、用事ってなんだ?」
ようやく自分の方を向いたゲンに対し、ルヴィアはわざとらしく咳払いをし、冷徹な王の仮面を被り直した。
「……いや。前線の装備改善について、改めて報告を聞こうと思ったのだが、お前のその様子を見れば十分だ。引き続き、励むが良い」
「なんだそりゃ。わざわざここまで足を運んで言うことかよ」
ゲンが面倒くさそうに首を掻くのを見て、リュシアがクスクスと笑い声を漏らす。
「ゲンさん、本当に鈍感ですね。魔王様は――」
「エルフの。余計な口を叩くな」
ルヴィアが鋭い視線でリュシアを射抜く。
三人の間に、これまでの殺伐とした戦場の空気とは少し違う、軽口と嫉妬が入り混じった穏やかな時間が流れていた。
だが、その穏やかな時間の裏側で、静かに、そして確実に、事態は動き始めていた。
魔王領の境界線に近い、深い森の中。
高い木の上に身を潜め、魔力で強化された遠眼鏡を構えている人影があった。
白銀の甲冑ではなく、周囲の風景に溶け込むような迷彩柄の外套を羽織った、人間側の斥候部隊の一員だ。
『……こちら斥候部隊・班長。対象の視認に成功した』
斥候は、口元に当てた通信用の魔導具に向かって低く囁いた。
『報告通りだ。魔王軍の下級歩兵どもの装備が、一新されている。粗悪な長剣は姿を消し、分厚い短槍と、薄い鉄板を鱗状に繋ぎ合わせた見慣れぬ鎧を装備している』
遠眼鏡の先には、魔王軍の国境警備部隊の姿があった。
以前であれば、数合わせの使い捨てとしか思えなかった貧相な装備の兵士たちが、今は統一された武器と防具を身につけ、整然とした隊列を組んでいる。
『それに、補給用の荷車の形状も変わっている。車輪に傾斜がつけられ、泥濘の悪路でも速度が落ちていない。……これでは、我が軍の遊撃部隊による補給線分断の戦術が通用しない』
斥候の額に、冷たい汗が伝い落ちた。
魔王軍の戦力は、強大な魔力を持つ一部の幹部や魔将たちにあると、人間側は長年信じ切っていた。下級の兵士など、鎧袖一触で蹴散らせる烏合の衆だと。
だが、今の魔王軍は違う。個の武力ではなく、軍全体を下支えする『道具の質』が、劇的に、そして不気味なほど均一に底上げされている。
『……あの山奥で聖騎士の一個小隊を退けたという、謎の職人の仕業か。いずれにせよ、事態は聖剣教会の想定を超えつつある。直ちに本部へ帰還し、詳細を報告する』
斥候は通信機を切り、音もなく木から飛び降りると、人間の領土へ向けて疾走し始めた。
大工房の熱気の中で、ゲンは打ち上がったばかりの星鉄の刃角を確かめていた。
「……粘りは十分だ。これなら、そう簡単には折れねぇ」
魔王領の奥底で職人が打つ地味な実用品が、人間側の強大な組織の目に、明確な『脅威』として映り始めた瞬間だった。




