第94話 転移迷宮①
その頃――。
アレクシアは、焦っていた。
目の前には、また一つの行き止まり。
壁際には、淡く光る文様が刻まれている。
この迷宮で何度も見てきた、転移罠と同じような文様だ。
「……またかよ」
アレクシアは、苛立たしげに髪を掻き上げた。
隣では、ロガーナがハルバードを杖のように使いながら、重く息を吐いている。
「次の転移も試すのか?」
ロガーナの言葉に、アレクシアは呟く。
「転移の規則が分からないと厳しそうだな……ここで少し休息しよう」
「そうだな」
ロガーナは短く頷いた。
だが、その声にも以前ほどの力はなかった。
補給物資は、すでに尽きている。
食料も回復薬も残っていない。
水だけなら、アレクシアが魔法で作れる。
だが、戦闘と探索を続けるための魔力を残しておかなければならない。
今のアレクシアに残された魔力は、決して多くなかった。
このまま先へ進めば。
次の広場で多数のガーディアンに襲われれば。
本当に、魔力が尽きるかもしれない。
そこまで追い詰められていた。
そもそもの始まりは、三日前。
五十階層の階層主との戦闘が始まってすぐだった。
◇
ロガーナが転移罠に飲み込まれた。
アレクシアは、補給物資の入ったバッグを掴み、迷わずその後を追った。
ロガーナを、あの場に一人で残すわけにはいかなかった。
その判断が間違っていたとは、今でも思わない。
幸い、転移先でロガーナとはすぐに合流できた。
だが。
予定していた転移結晶は、発動しなかった。
結晶に魔力を通しても、何も起こらない。
「……こりゃ、面倒な場所に飛ばされたな」
アレクシアは焦る気持ちを隠し、軽く肩をすくめた。
転移先は、石造りの通路が延々と続く迷宮だった。
進んでも進んでも、道はことごとく行き止まりに突き当たる。
そして行き止まりには決まって、五十階層でロガーナが飛ばされた転移罠に似た、怪しく光る文様があった。
最初のうち、二人はそれを避けていた。
何が起こるか分からない転移罠など、踏むべきではない。
普通なら、そう考える。
丸一日かけて、文様を避けながら通路を調べた。
だが、出口らしい場所はどこにもなかった。
しかも、広めの部屋へ出るたびに、複数のガーディアンが襲いかかってくる。
黒い石と金属で造られた、人型の守護兵。
ロガーナがハルバードで迎え撃ち、アレクシアが上級魔法でまとめて吹き飛ばす。
初日は、それでどうにかなった。
だが、いつまでも続けられるわけではない。
戦闘のたびに、魔力も補給物資も減っていく。
そもそも、五十階層まで進んだ後だったため、補給物資にも余裕がなかった。
そして二日目の朝。
アレクシアは、転移罠に似た光る文様の前に立っていた。
「……避けてるだけじゃ、何も変わらねーか」
ロガーナが隣に並ぶ。
「踏むのか?」
「ああ」
アレクシアは、光る文様を睨んだ。
「ここまで調べて、出口は見つからなかった。だったら、こいつを使って進むしかないんだろ」
「自分は、こういうのは分からん」
ロガーナは素直に言った。
「アレクシアに任せる」
「ああ」
アレクシアは小さく笑った。
そして二人で、文様の上に立つ。
淡い光が足元から広がり、視界を白く染めた。
次の瞬間。
二人は、見知らぬ通路に立っていた。
「……迷宮内の別の場所か」
ロガーナが周囲を見回す。
アレクシアは床と壁をじっと見た。
似たような造りだ。
だが、同じではない。
壁の傷の位置も、通路の幅も、わずかに違っていた。
「ただ飛ばされただけじゃねーな」
「文様ごとに、行き先が違うのか?」
「たぶん、な」
アレクシアは腕を組んだ。
行き止まりの文様を使い、別の区画へ進む。
正しい順番で文様を踏み続けなければ、出口へはたどり着けない迷宮。
そんなところだろう。
(……リュザードを連れてくるべきだった)
壁や床に残る痕跡。
文様ごとの違い。
通った場所と、まだ見ていない場所の判別。
アレクシアも、何も考えられないわけではない。
だが、こういうことに関しては、斥候であるリュザードの方が圧倒的に経験が上だ。
(アタシもそれなりに考えてはいるんだけどな)
そう思いつつも、二人は何度も転移を繰り返した。
文様を踏み、別の通路へ移り、行き止まりを見つける。
広場へ出れば、ガーディアンの群れが現れる。
最初は上級魔法で一気に片づけていた。
だが、二日目の途中から、アレクシアは中級魔法を中心に使うようになった。
敵の数を減らし、ロガーナが受け止めた相手を一体ずつ確実に倒す。
「マナの節約か?」
「ああ」
ロガーナに問われ、アレクシアは素直に答えた。
先が見えない以上、魔力を使い切るわけにはいかなかった。
そして三日目。
最後の食料が尽きた。
回復薬も残っていない。
アレクシアの魔力も、かなり減っている。
広場の敵を片づけるたびに、二人は休息を取るようになった。
水を作るための魔力まで、残しておく必要があった。
「アレクシア」
「なんだ?」
「次の広場で、またあの数が出たらどうする」
アレクシアは、少しだけ黙った。
「何とかする」
「本当にか?」
「……何とかするつもりだ」
ロガーナは、それ以上聞かなかった。
聞かなくても分かっていた。
この先で魔力が完全に尽きれば、水すら確保できなくなるかもしれない。
◇
そして現在。
アレクシアとロガーナは、次の転移罠が刻まれた小さな広場で休息を取っていた。
広場の奥には、淡く光る文様。
次に進むためには、あれを踏むしかない。
だが、今の二人にはそのための余力が残っていなかった。
アレクシアは壁際に腰を下ろし、目を閉じる。
少しでも魔力を回復させなければならない。
隣ではロガーナが、ハルバードに体重を預けるようにして座っていた。
「……少し休む」
「ああ」
ロガーナも短く答えた。
その時だった。
通路の奥から、重い足音が響いた。
石が床を叩く音。
アレクシアが、ゆっくりと目を開ける。
「……来たか」
闇の奥から、二体のガーディアンが姿を現す。
さらに、その後ろから三体。
合計五体。
「多いな」
ロガーナが立ち上がり、ハルバードを構えた。
だが、疲労の色は隠せない。
アレクシアも杖を掲げる。
残った魔力で、どこまで戦えるか。
考えるまでもなかった。
ロガーナが前へ出る。
先頭のガーディアンが振り下ろした腕を、ハルバードで受け流す。
だが、すぐに別の一体が横から迫った。
「くっ……!」
鈍い音とともに、ロガーナの身体が揺れる。
「ロガーナ!」
アレクシアは杖を突き出した。
氷の槍が一体の胸を貫く。
だが、倒れた敵の隙間を埋めるように、また別のガーディアンが迫ってくる。
数が多すぎる。
ここで大きな魔法を使えば、この場はしのげるかもしれない。
けれど、その後に魔力が尽きれば終わりだ。
「自分が抑える!」
ロガーナが、さらに前へ出た。
「アレクシアは、転移罠へ行け!」
「ふざけるな!できるわけねーだろ!」
アレクシアは叫んだ。
ロガーナを置いて、自分だけ転移する。
そんな選択ができるはずもない。
その時。
広場の奥にある転移文様が、急に強く光り始めた。
「……何だ?」
ロガーナが、荒い息のまま目を向ける。
アレクシアも杖を構え直した。
白い光の中に、三つの人影が浮かび上がる。
「アレクシアさん!」
聞き覚えのある声が、広場に響いた。
光が消えるより早く、リオがこちらへ駆け出す。
「これを飲んでください!」
リオは小さな瓶を、アレクシアへ向かって投げた。
アレクシアは反射的に受け取る。
「何だ、これ――」
「回復薬です!」
リオの声が飛ぶ。
迷っている余裕はなかった。
アレクシアは栓を抜き、中身を一気に飲み干す。
次の瞬間。
身体の奥に、強烈な熱が流れ込んだ。
張りついていた疲労が消える。
枯れかけていた魔力が、一気に満ちていく。
重かった腕が軽くなり、鈍っていた思考まで澄み渡った。
「……っ」
アレクシアは、自分の手を見た。
失われていた力が、完全に戻っている。
「お前、アタシに何を飲ませた!」
「回復薬です!ここはとにかく先に敵を!」
「後で聞かせてもらうぞ!なんだこれは!体力も魔力も完全に回復してるじゃねーか!」
アレクシアが怒鳴る。
その横で、ミアが杖を掲げた。
「ロガーナさん、今治します!」
柔らかな光がロガーナを包み込む。
傷ついた身体に、温かな魔力が流れ込んでいく。
「……助かった」
ロガーナは低く息を吐いた。
そこに、アレッタがアルカナ・コアクロスでロガーナを援護する。
「リオさん! ロガーナさんの左、二体を止めてください!」
「分かりました!」
リオのディープ・フリーズが、ガーディアンの足を止める。
その隙に、アレッタの矢が敵へ突き刺さった。
完全回復したアレクシアが声をかける。
「……いいぞ。皆!どいてくれ」
杖の先に、冷気が集まり始める。
「アタシがやる」
ーーそして。
広場の敵が、一斉に凍りついた。




