8: ああ、無理よ……
さあ、冷静に上品にカーディス伯爵令息をお迎えするぞ! という私の意気込みは、彼が現れた数秒後にどこかへ飛んでいった。
「お久しぶりです、エイリーン嬢。仕事が立て込んでいたせいでなかなかお会いできず、胸の張り裂ける思いでした」
屋敷に迎え入れるなり私の方へとまっすぐ足を進めた彼は、そのきらきらしい貴公子ぶりで私を圧倒すると、さりげなく私の片手を取った。
「愛しい人を目にできないだけでこれほど苦しい気持ちになるものなのだと、私は初めて知ったのです。もし今日までの間にあなたが少しでも私を思い出してくれていたならば、この心も少しは慰められるのですが」
熱の込められた言葉、優しく甘い眼差し、恭しく手の甲に寄せられた唇。
ひいいいいぃぃぃぃっ。どうしようどうしようどうすればいいのなんか無性にむず痒いっ。さらっと愛しいとか言われた気がするし、醸し出される雰囲気が、もう……! どうしよう、逃げていいかな。でも手。手を取られてる。どうしよう。
大混乱に陥っていると、父にこっそり肘で小突かれた。
「あ……、その、お会いできるのを、楽しみにしておりました」
頭から吹っ飛んでいた挨拶の言葉を、かろうじて思い出して口にする。練習していた笑顔は、浮かべられているだろうか。引き攣っている気がしてならない。
「私も。あなたに会えることを励みに、仕事をこなしてきました」
そんな私にお手本のような笑顔を向けると、カーディス伯爵令息はポケットから何かを取り出して、捉えたままの私の手にするりとはめた。上品な輝きを放つそれは、白薔薇をモチーフにした美しいブレスレットだ。
「私達が出会った夜の月明かりと薔薇の香りを思い出して、思わずこれを手に取っていました。あなたにもあの日を覚えていていただければ、と」
ものすごく自然に贈られたプレゼントを、半ば呆然と見やる。なんだか別世界にいるかのようだ。彼は恋愛小説から飛び出してきたヒーローかもしれない。ヒロインは誰だろう。
「想像した通り、とてもお似合いですね」
ああ、無理よ……。
太陽に照らされた淡雪のように、眩い笑顔の前に跡形もなく溶けて消えてしまいそう。もう敗北を認めて、部屋に篭ってもいいかな。いっそ気絶してしまいたい。
「まぁ素敵。よかったわね、エイリーン」
あまりの出来事に意識を飛ばしかけた私を、母の明るい声がかろうじて引き留めた。それにはっとして、職務放棄をしそうになっていた表情筋を必死に働かせる。
「と、とても嬉しいですわ。ありがとうございます。これを目にするたびに、出会いの日を鮮明に思い出せそうです。お心遣いに深く感謝いたします」
部屋に戻ったらこのブレスレットは速攻封印しよう。いらないことを思い出しそうだ。
「エイリーン嬢に喜んでいただけたなら、これ以上の喜びはありません」
「まぁ」
頑張って照れたような笑みを浮かべつつ、彼に囚われたままだった手をさりげなく取り返す。ようやく接触がなくなりホッとしていると、彼はすぐに後ろで控えていたお付きの人から綺麗にラッピングされた箱を受け取って、今度は両親に向き直った。
「エイリーン嬢の魅力に抗えず、ご挨拶が遅れて失礼いたしました。ミドレ男爵、夫人も、ご無沙汰しております。確かおふたりの婚姻記念日は来週でしたね。ささやかですが、婚姻年に仕込まれたワインを取り寄せましたのでお納めください」
「わざわざ探してくれたのかい? ありがとう。フェルナンドさんは本当に気配り屋さんだね」
「まぁ! こんなに嬉しい贈り物をいただけるなんて感激だわ。ありがとうございます」
なぜ彼は、両親の婚姻記念日なんて知っているのだろう。娘の私でさえ忘れがちなのに。
ぼんやり両親と彼のやりとりを見つめていると、両親が彼を応接室へと誘った。
私の前を歩く彼の背中を見ながら、一連の出来事を思い返す。自分の見目の良さを生かした笑顔、紳士的でさりげないけれどこちらを意識させる接触、気負いなく贈られたプレゼント、家族への気遣い。なんという人たらしぶり!
私が捻くれ者で自分に自信がないだけで、普通のご令嬢であればころっと恋に落とされているだろう。
そしてこちらの好感度を上げつつも、彼は現れた瞬間からその場を自然に支配し、完全に己の思い通りにことを進めていた。これが「できる男」という生き物なのかと感心してしまう。現実味がなくて、遠い異国の王子様でも見ているかのようだ。
そんな自信に溢れた彼の様子を前にすると、自分の子供っぽさや拙さが浮き彫りになって「こんな幼稚な女を愛しいだなんて冗談でしょ?」という卑屈な思いが強くなってくる。
やはり両親や自分が考えつかないだけで、ミドレ家や領地にカーディス家の欲しがるものがあるのかも。そんな疑いと不安まで胸に込み上げて、それを逃すようにそっとため息をついた。
裏があるなんて、決めつけてはいけない。でも彼を信じる理由がないこともまた確かで、心は川の流れに翻弄される木の葉のように、ゆらゆらと覚束なく揺れていた。
カーディス伯爵令息への疑いを胸に燻らせていた私だけれど、応接室のソファに腰を下ろし和やかに談笑する間に、あっさりと彼の手管に陥落していた。
「で、では病院の治療や外国薬との併用という形で、国内外で伝統薬の活用の場を広げられるかもしれないということですか!?」
「ええ。併用の副作用が少ない点もですが、一部の伝統薬の効果は外国薬では実現しないものもあり、隣国ナツィーラの研究者達の興味を引いています。病院医師と調薬師達が協力して医療を提供する未来も、遠くないうちに訪れるかもしれませんね」
その言葉に嬉しさが込み上げてくる。
今は裕福でない者達を中心に必要とされている伝統医療も、病院の普及が進み、医師が増え医薬品が進歩するにつれて、必要とされなくなるかもしれない。それはこの事業を続けていくうえで最大の懸念だった。
「病名の付かない症状等に対しては伝統医療の方が優れていますし、そういった形での生き残りを考えていましたが、病院診療の一部として活かせる可能性もゼロではないのですね」
相容れないと思っていた病院と伝統医療。それらを融合することでさらに良い医療を提供できるのであれば、これほど嬉しいことはない。
とはいえ「伝統薬なんて古臭い手法、医療としては認められない」と拒絶する医師――特に若手医師――も多く、実現が容易ではないことは確実だ。それでも新たな可能性を知らせてもらえたことで、心のうちに明るい希望の火が灯る。
期待を込めて見つめる先で、カーディス伯爵令息は自信たっぷりの笑みを浮かべた。
「もともと伝統薬に可能性を感じたからこそ、事業提携という形で関わらせてもらっているのです。そして今のところ、国内よりもナツィーラで受け入れられる方が早いのではと見込んでいます。あちらの研究機関には伝手がありますから、伝統薬の効果を検証してもらえるよう積極的に働きかけているところです。ナツィーラで効果が保証されれば、この国の者達にその有用性を認めさせるのは容易いでしょう」
その言葉に、思わずきゅんとしてしまう。どうしよう、仕事のできる男性って本当に格好いい。普通にしてても美形な彼の顔がさらに輝いて見える。
高位貴族や外国に大した伝手のないミドレ家では、新たな一歩を踏み出すにも情報収集や資金調達で苦戦するし、既存の仕組みを変えるための根回しなんて、協力者を得られず空振りに終わる可能性が高いのがこれまでの状況だった。
どんなに良いものでも、それを伝え、広める手段がなければ消えてしまうもの。それも一度「時代遅れの医療もどき」の烙印を押された伝統医療を再評価させる難しさは、想像を絶する。
でも彼が味方でいれば、実現できるかもしれない。そう思わせるカーディス伯爵令息の魅力を、私は今思い知らされていた。父が話してくれていた以上に彼は頼りになるすごい人なのもしれない。
その頼もしい姿をうっとりと眺めていると、彼が包み込むような笑みを私に向けた。
「ですからエイリーン嬢。あなたとは今後も末長く、公私共に寄り添っていければと願っております」
私もですっと頷きかけて、はたと我に返る。
公私共に? どこから「私」が出てきた?
いや、事業関連の話になって熱中してしまったけれど、そもそも今日彼がここにいるのはプライベートな用件だった。
軽い自己紹介から始まり、話題豊富な彼が外国のファッションや食べ物、最近の国内での流行など様々な話題を振ってくれた中で、私が興味を持った話題を深掘りしてくれたに過ぎない。私はまんまと何に興味を示すか探り当てられ、いい気分にされられてしまったというわけだ。できる男って怖い。
それにただの雑談の場で話されたことをどこまで信用していいだろう。なぜ私を求めるのか、その理由さえはっきりしない。当主でもない私が今「喜んで!」と言ったところで何かが成立するわけでもないけれど、この人に言質を取られるような発言をすることは躊躇われた。
自分を落ち着かせるためにひとつ呼吸をして、練習していた笑顔を作る。
「そのようにおっしゃっていただけて、とても光栄ですわ。私もカーディス卿とは、またお話しさせていただきたいと思っております」
とりあえず問題を先送りにすると、彼は小首を傾げて、にこりと笑みを浮かべた。
「ではどうぞ、そのようなよそよそしい呼び方ではなくフェルナンドとお呼びください。今後も長い付き合いになるのですから」
うぅっ。ぜんぜん先送りにできている感じがしないし、すごく負けた気がするというか、むしろ今後も勝てる見込みがない。でも繋がりを断ちたくないのは私も同じなので、名前くらいお望みの呼び方で呼んで差し上げようではないか。
それにいい情報を得られたことは素直に嬉しいし、教えてくれた彼には感謝している。ありがとうの意味を込めて、彼に笑顔を向けた。
「はい、フェルナンド様」
「……」
「……」
「……」
心を込めて呼んだのに、すっと戸惑うように視線を逸らされて愕然とする。
なにこの反応。
本当は名前で呼んでほしくなかったとか? もしくは私の笑顔が不細工だった?
地味にショックを受けていると、微かな吐息をこぼした彼が、逸らした視線を再び私へと向けた。
「失礼。あまりに愛らしい笑顔で呼んでいただけたものですから、胸が高まるあまり言葉を失ってしまいました」
うわぁ。落として上げる手法が憎い。
今度は私の方が言葉を無くしていると、彼はこちらへ少し身を乗り出した。その形のよい唇は緩やかな弧を描き、どこか色気を含んだ眼差しが私に向けられる。
「名前で呼び合うと、距離が縮まったように感じて嬉しくなりますね。これからもよろしく、エイリーン」
「……!」
そしてまさかここで呼び捨てにしてくるとは、さすがフェルナンド・カーディス。侮れない。
動揺させられて悔しくなるけど、仕返しできるモテ淑女テクニックなんて私には備わっていない。尻尾を巻いて逃げ出さないだけで精一杯だ。
こちらこそよろしくとすら言えず俯いた私の反応に、彼はどうやら満足したようだった。お可愛らしいですねとトドメを刺した後、そろそろ次の約束の時間が迫っていますのでと、気配を殺して見守っていた両親に丁寧に挨拶して、意気揚々とご帰宅あそばしたのだった。




