最後の一手
俺は杖を向けたまま、空いている手で鞄の肩紐を外した。
鞄の中には、ナギから借りた工具が入っている。アリサの腕輪を外すために使った、細いドライバーも一緒だ。
それを、膨らみ始めた水球の中へ落とした。
布が水を吸って沈みかける。俺は底から水を押し上げ、どうにか塊の真ん中に留めた。
「《水球》!」
悪魔の顔に水を放つと、反射的に下側の腕が動いた。
拘束を引き伸ばし、鎖の先端を俺の右手に向けようとしている。さっきと同じように、水球の向こう側まで突き抜けてくるつもりなのだろう。
でも、今度はそこに先生たちの魔法がある。
「動かさせるか!」
セレナ先生が杖を引いて、伸びかけた鎖が止まる。その先端の手前まで水球が迫ったところで、俺の横からルカが杖を突き出した。
「《衝》!」
水球が横から押され、大きく軌道を変える。
狙いは、悪魔じゃない。その巨体の後ろで、俺たちの戦いを見ている男だ。
「おや」
ナギが一歩下がった。
左手には、外套から取り出した青い石が握られている。さっきの風を直そうとしていたのか、その周りには細い黒い文字が浮かんでいた。
ナギは右手に持った杖を上げた。
発生した薄い防壁が、水球の進路に立つ。
「それでは、届きませんよ」
水が防壁にぶつかり、横へ広がり始めた。
その内側にある鞄に、今度はキサラギが杖を向ける。
「《衝》!」
水を突き破り、濡れた鞄が飛び出した。
ナギの防壁の横を抜け、持ち上がっていた左腕にぶつかる。布越しとはいえ、中身は金属だ。重い音がして、ナギの身体が大きく揺れた。
「っ……!」
体勢が崩れて、青い光が指の間から零れた。
石畳に落ちた腕輪の部品が跳ね、その銀色の枠が割れる。剥き出しになっていた細い金属板が折れ、青い石の表面にも白い筋が走り、その前に工具の入った鞄が落ちた。
「これはこれは……随分と、乱暴なお返しでございますね」
声は丁寧なまま。けれどナギは、もう俺たちを見ていなかった。折れた金属板を指先で起こし、青い石を枠に戻そうとしている。
「お前が貸してくれた道具だ。使い方は、教わってなかったけどな」
ナギの仮面が、俺の杖の方へわずかに向いた。
向こうから、低い金属音が響く。悪魔はまだ動いていた。剣を持つ腕が、セレナ先生の拘束を引きちぎろうとしている。青い石が割れても、あいつまで止まるわけじゃない。
「前を見ろ、アズマ!」
先生の声に、俺は慌てて向き直った。
悪魔の赤い裂け目が、俺たちを見下ろしていた。
ナギの方へ盾を寄せようとしたせいで、傷ついた膝が露わになっている。巨体はその脚を庇って、無事な方に体重をかけ直そうとしていた。
「ツワブキ、脚だ!」
クドウ管理官が叫んだ。
レイナは、もう杖を向けていた。
「《紫電》!」
細い雷が、黒い鎧の継ぎ目に突き刺さった。
キサラギが砕いた場所から、赤い光が噴き出す。悪魔の膝が沈み、傾いた身体を支えようと大剣が動いた。
その腕を、セレナ先生が横へ引いた。
「そこにつかせるか!」
剣先が地面を外れ、支えるものを失った巨体が、前へ崩れる。
地響きとともに片膝が砕け、黒い鎧の腹部に、大きな亀裂が走った。下側の腕が地面を掴んだが、今度はそこにクドウ管理官の光が巻きついていく。
「全員、下がれ!」
俺たちは入口へ走った。
振り返ると、クドウ管理官が悪魔の足元に杖を向けていた。白い魔法陣が広がり、地面を這う文字が黒い鎧を登っていく。
悪魔が、身体を起こそうと暴れ、そのたびに亀裂から赤い光が漏れ、鎧に浮かんでいた文字が乱れる。四本の腕が地面を叩く音は、入口の壁にまで響いていた。
「サキモト!」
「ああ!」
セレナ先生の杖先に、光が集まっていく。
それは細く絞られ、割れた鎧の隙間に真っ直ぐ伸びていった。
途端に、悪魔の身体が反り返った。腹部から胸へ、内側の光が突き抜けた。黒い鎧が幾つにも裂け、その隙間で、赤い文字が一つずつ崩れていく。
「バルグレム」
ナギの呼びかけに、悪魔は一切反応しなかった。
兜の真ん中にある裂け目が明滅する。大剣を握っていた指が開き、重い刃が地面へ落ちた。
「バルグレム。立ちなさい」
ナギの命令もむなしく、鎧の胸が内側から砕けた。
黒い破片が宙へ飛び、セレナ先生が俺たちの前に防壁を広げる。その表面に幾つもの破片がぶつかり、砕けながら黒い煙に変わっていった。
赤い光が消えた。
あとに残ったのは、地面を覆う煙と、倒れていく巨大な盾だけだった。
◇
「動くな、ナギ!」
クドウ管理官の声が飛んだ。
ナギは、落ちている青い石に手を伸ばしていた。
だが、その指が触れる前に、小さな衝撃が石畳を走った。大きな欠片が弾かれ、俺たちの手前まで転がってくる。
キサラギだった。
「アズマ。拾え」
俺は屈み、青い欠片に手を伸ばす。
同時にナギの右手が、外套に入った。
「また銃!」
沙耶香の声で、俺は身体を縮めた。
銃声が響く。
目の前に差し込まれた防壁に、白い傷がついた。俺は青い欠片を掴み、そのまま地面に伏せた。
「そのままでいろ!」
セレナ先生が、俺とキサラギの前へ出た。
ナギは銃を構えたまま、残った破片を左手に掻き集めていた。白い手袋には泥と血が付いて、拾おうとした小さな金属片のうちいくつかが、その指から滑り落ちる。
今まで、あの人が何かを取り落とすところなんて見たことがなかった。
ナギは拾い直そうとした、その時。
「《引牽》!」
最後の青い石が、引力の魔法で引っ張られた。
「ハクア様」
石が収まったのは、キサラギの手。彼を、ナギは仮面越しへまっすぐ見据えていた。
「ご自分の付き人を邪魔するようには、お教えしていなかったはずですが」
「僕の付き人は、生徒を傷つけようとしない」
キサラギの返答にも、ナギの仮面は穏やかに笑ったままだった。
「それでは、私はもう不要ということでしょうか」
キサラギは口を開きかけた。
そのまま一度閉じ、泥のついた杖を握り直す。
「……僕の付き人のふりは、もうやめろ」
短い言葉。ナギは、少しの間黙っていた。
「左様でございますか」
その背後で、悪魔の盾が崩れた。
石畳にぶつかった衝撃で泥水が跳ね、黒い煙が大きく広がる。視界の向こうで、ナギの外套が翻った。
「逃がすな!」
クドウ管理官の光が、煙の中へ走った。
何かが弾ける音がした。
けれど、煙の端から見えたのは、横へ身を投げるナギの姿だった。仮面の白い髭が一瞬だけ見え、そのまま校舎の角へ消えていく。
「あっちです!」
壁際の低い出入口が開いている。
一般の生徒が使う扉ではない。大きな廊下から外れた、狭い通路へ続く場所。ナギの外套の裾が、その奥へ消えた。
近くにいた職員が二人、すぐに後を追う。クドウ管理官も入口まで走り、杖を構えたまま中を確かめた。
「隣の棟へ連絡! 通路の出口を押さえろ!」
別の職員が駆け出した。
俺も立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。濡れた地面に手をつき、そこでようやく、自分の膝まで震えていることに気づいた。
「もう行くな」
セレナ先生が言った。
「追うのは私たちの仕事だ。お前たちは、そこにいろ」
「でも、ナギが……」
「分かっている」
先生は、通路の入口から目を離さなかった。
すぐに中へ続こうとはせず、別の職員へ指示を出している。さっきまで銃を向けられていたことを思い出し、俺は口を閉じた。
あの狭い通路へ、考えなしに飛び込むわけにはいかないんだ。
俺は、握っているものに目を落とした。
青い石の、大きな欠片だった。
縁に残った銀色の枠は歪み、細い金属の線が何本か飛び出している。中では淡い光が明滅していたが、ナギが持っていたときのように文字が並ぶことはなかった。
「それを渡せ」
戻ってきたクドウ管理官に、俺は欠片を差し出した。
「一部は、持っていかれました」
「見ていた」
「これ、中身は……」
「読めるかどうかも含めて、調べる」
管理官は布を広げ、俺の手から欠片を受け取った。
その横で、別の職員が散らばった金属片を拾い集めている。ナギが取り落とした部品も濡れた工具も、一つずつ布の上に並べられていった。
俺は、口の開いた鞄を見た。細いドライバーが、泥の中に半分埋まっている。
あれを使って、アリサの腕輪を外した。その道具を持っている間ずっと、貸してくれた相手を疑わずにいたんだ。
「……全部、嘘だったのかな」
口から零れた言葉に、誰もすぐには答えなかった。
ラジオを直すときの説明も、アリサに茶の運び方を教えていた声も、俺が困るより先に差し出された道具も。
「それは、捕まえてから本人に聞け」
クドウ管理官が答えた。
「今は手当てを受けろ。お前も、そっちの二人もだ」
◇
入口の奥へ戻ると、沙耶香がすぐに俺たちに気づいた。
「マナト! 撃たれたの!?」
「当たってない。先生が止めてくれた」
「本当に?」
「ああ。泥まみれになっただけだ」
沙耶香は俺の袖と胸元を確かめ、ようやく息を吐いた。
「そういうときくらい、すぐに返事してよ……」
「悪い」
その向こうで、アリサが顔を上げた。
まだ毛布の上に寝かされている。俺たちを順番に見てから、入口の外へ目を向けた。
「あの、悪魔は……」
「止めたよ」
俺が答えると、アリサは目を閉じた。
けれど、すぐにまた開く。
「ナギ様は?」
「逃げた。今、先生たちが捜してる」
「……そう、ですか」
アリサの視線が、キサラギに向いた。
キサラギは入口の壁に背を預けていた。杖を持つ手を下げたまま、通路のある方を見つめている。
「ハクア様、お手が……」
「いい。少し擦っただけだ」
そう答えた手のひらには、まだ血がついていた。
医療担当の先生が近づくと、キサラギは何かを言いかけた。だが、結局その手を差し出し、黙って傷を洗われ始めた。
アリサは、それを見届けてから俺の方へ顔を戻した。
「わたしが、お話ししたことは……役に立ちましたでしょうか」
「ああ」
俺は、その横に座った。
「風が弱くなるって分かってなければ、あそこでは動けなかった。水の回り方も、火矢が曲がった理由も、聞けてよかったよ」
「ですが、上手くできなかったことばかりなのです」
「塔で、俺たちに当てないようにしたのも?」
その言葉に、アリサが押し黙る。
すると、沙耶香がそっとその手に触れた。
「アリサちゃんが止めようとしてくれたこと、ちゃんと分かったよ」
「でも全部は、止められませんでした」
「うん。でも、今こうして話せてる」
アリサは、沙耶香の顔をじっと見つめていた。
それから俺、レイナ、ミカ、ルカへと順番に目を向ける。最後に、手当てを受けているキサラギまで確かめたところで、ようやく肩から力が抜けた。
「よかった……なのです」
その声は、小さかった。
するとレイナが毛布の端を直し、アリサの顔にかかった髪を指で払った。
「お前も怪我人だ。もう起き上がろうとするな」
「はい、お嬢様」
アリサは素直に頷いた。
少し迷ってから、沙耶香の手を握る。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今は、少し眠りたいのです」
「うん。ちゃんと休もう」
医療担当の先生が、運ぶ準備を始めた。
アリサはその間も沙耶香の手を握っていたが、やがて、自分からゆっくりと指をほどいた。
まぶたが閉じる。
左手首には包帯だけが巻かれていた。銀色の腕輪は、もうどこにもなかった。




