記録された失敗
「おいルカ。今の火矢、見たか?」
俺が尋ねると、ルカは炎の落ちた場所に目を向けた。
「ああ。曲がったな」
「アリサが使ったときも、ああなったんだ」
飼育場で、初めて沙耶香の火矢を真似したとき。それから、腕輪に操られて俺たちに杖を向けたときも、炎は真っ直ぐには飛ばなかった。
あの曲がり方が、妙に目に残っている。
「あいつ、俺たちやアリサの魔法を覚えているんだよな……癖まで真似したってことか?」
「まだ分からない。でも――」
大きな音がして、俺たちは身を縮めた。
悪魔の大剣が、セレナ先生の作った光の帯を引き伸ばしている。先生は拘束を緩めず、その腕を横へ引こうとしていた。正面では、クドウ管理官が盾ごと悪魔を押し戻そうとしている。
いつまでも、ここで考え込んではいられない。
アリサは、柱の陰へ敷かれた毛布の上に寝かされている。医療担当の先生が左腕に包帯を巻き、沙耶香がその肩を支えていた。
「アリサ。少し聞いてもいいか」
声をかけると、アリサの瞼が動いた。
俺を見てから、ゆっくりと入口の外へ視線を向ける。黒い鎧の巨体を見つけた途端、小さな身体が強張った。
「わたしの……」
「え?」
「今の魔法、わたしの火矢なのです」
起き上がろうとした肩を、沙耶香が支え直した。
「そのままでいいよ。ここからでも見えるから」
「ですが、あれが――」
「分かってる。だから、マナトの話を聞いて」
アリサが俺の方へ顔を戻す。
俺はその横に屈んだ。左手首の包帯に、薄く赤いものが滲んでいる。
「腕輪に操られていたとき、お前、俺たちに魔法を撃っただろ」
「……はい」
「そのときも、火矢が曲がった。あれは、わざとだったのか?」
アリサは答えようとして、唇を閉じた。
しばらく黙ったあと、小さく頷く。
「最初は、上手にできなかっただけなのです。お姉ちゃんと同じようにしたつもりでも、どうしても左側が崩れてしまって……」
「飼育場のときだな」
「はい。でも、あのときは……真っ直ぐ飛ばない方が、よかったのです」
包帯を巻かれていない方の手が、沙耶香の袖を握った。
「お姉ちゃんに、当たらないようにしたかったので」
沙耶香が、何も言わずにその手を包んだのを見届けて、俺は外に目をやる。
誰もいない石畳に、黒い焼け跡が残っていた。悪魔は確かに入口へ狙いをつけていたのに、炎はその手前で逸れた。
「腕が動いてしまうのは、止められませんでした。でも、魔法を作るときには、少しだけ……」
アリサが言葉を探すように目を伏せる。
「綺麗に作れなくてもいいから、そちらへ飛んでいかないでほしいと、思っておりました」
頭上で、雷が鳴った。
入口の外が白く染まり、俺は反射的にアリサの前へ腕を伸ばした。
三本に分かれた雷が、広場へ落ちる。
二本はクドウ管理官の防壁にぶつかり、残る一本は、その手前の地面を大きく抉った。
砕けた石片が入口に飛んできたが、ミカの風に押されて横へ流れていく。
「あ、あれもなのです!」
アリサが、俺の腕の向こうを見ていた。
「三本に分かれるのも、わたしの雷です!」
「全部、同じなのか?」
「全部かは、分かりません。でも、あの魔法なら……」
アリサは、沙耶香の手を握り直した。
「塔では、皆様がいる場所から、少しでも離そうとしておりました」
俺たちは、アリサの魔法を避けながら腕輪に近づこうとしていた。あのときも、アリサは当てないようにしていたのか。それが、どこまでできていたのかは分からない。俺たちが避けた分も、先生たちに守られた分もある。
けれど、目の前の焼け跡まで、ただの偶然で片づけることはできなかった。
「マナト」
レイナが、入口からこちらを見た。
「何か分かったのか?」
「ああ。もしかしたら、あいつ、アリサの失敗したところまで真似してるのかもしれない」
そう口にしてから、俺は少しだけ言い直した。
「それに、俺たちに当てないように変えたところも」
レイナの目が、アリサに向いた。
アリサは俯きかけたけれど、今度はその視線から逃げなかった。
「全部を、止められたわけではございません」
「ああ」
「皆様に、何度も危ないことを……」
「今、話してくれて助かった」
レイナは短く答え、杖を持ち直した。
「続きはあとで聞く。お前が知っていることがあるなら、今はそれを教えろ」
「……はい」
アリサの手から、少しだけ力が抜けた。
◇
悪魔の足元に、水が溢れ始めた。
下側の腕が生み出した青い魔法陣から、大きな水球が膨らんでいく。黒い鎧の横で回るそれを見て、俺は思わず立ち上がった。
俺の水魔法より、ずっと大きい。あんな塊を入口にぶつけられれば、柱の陰にいても巻き込まれる。クドウ管理官もそれが分かったのか、防壁を入口に寄せ、広く張り直した。
やがて、巨大な水球が放たれた。
よく見れば分かる。表面を走る筋が、俺の作る水とは逆に回っていた。
「先生! 正面から全部受けないでください!」
叫びながら、俺は杖を突き出した。
「《水球》!」
青い光から水が膨らむ。
でも向こうの水球に届いた途端、俺のものは大きく押し潰された。量も、押してくる力も違いすぎる。
それでも、ぶつかったところでは、二つの流れが激しく跳ね返っていた。
「そのまま押さえろ、アズマ!」
クドウ管理官が防壁を斜めに立てた。
俺の水球とぶつかって形を崩した部分が、そこに引っかかる。巨大な塊が歪み、中心から外れた水が、防壁の側面に沿って滑っていった。
結果、入口へ流れ込んだ水は左右に逸れ、足元を少し濡らすにとどまった。
俺は膝をつき、杖を握った腕を押さえる。指の奥が痛んだが、水が柱の陰まで届かなかったことを確かめて、ようやく息を吐いた。
「……逆向きに回ってたんです」
俺の言葉に、管理官が一瞬だけ振り返った。
「アリサを受け止めたときも、俺の水球とぶつかって、あんなふうに崩れました」
「同じ術式を使っているということか」
「……少なくとも、今の水魔法は」
悪魔の足元では、流れた水に土が削られている。悪魔が傷ついた脚に体重をかけ直した拍子に、足先が少し滑った。
セレナ先生が、その隙を逃さず拘束を引く。すると、巨体がそのバランスを支えられずに傾いた。
悪魔は盾を地面に突き立て、転倒を免れた。だが、入口に伸ばしていた鎖が緩み、その先端が敷石の上に落ちた。
「奴の魔法がアリサのものと同じなら、こちらにも知っていることがあるってわけか」
「ああ、多分な」
「おい、本当に大丈夫なんだろうな? お前の多分に、今俺たちの命がかかってるぜ」
俺はルカの手を掴み、立ち上がった。
相手は、俺たちの戦い方を知っている。でも、俺たちだってアリサの魔法を見てきた。上手くいかなかったときも、それで何とか切り抜けたときも、同じ場所にいたんだ。
「上手くできなかったところまで残ってる。もしかしたらあいつには、失敗と手本の区別がついてないのかもしれない」
「だからといって、勝手に外れるのを待つつもりかい?」
キサラギが、汚れた袖で額を拭った。
「違う。分かってる癖を使えないか、考えてる」
「……ふん」
キサラギは悪魔に目を戻した。
低く構えた盾が、傷ついた膝を覆っている。さっき一度狙われた場所を、あいつはもう開けようとしなかった。
「こちらが試すたびに、向こうも覚えていってしまう……か」
「ああ。何度も同じことはできないな」
俺は入口の奥を振り返った。
「アリサ。風は?」
アリサが顔を上げる。
「お前の軟風は、最初だけ強くなるだろ。あれも、毎回そうなのか?」
「はい。最初に魔力を入れすぎてしまうのです。それなのに、その強さのまま続けようとすると、上手くいかなくて……」
「急に弱くなる?」
「……なのです」
返事をしたあと、アリサは自分の左手首を見た。
「何度使っても、上手にはできませんでした」
今、広場では悪魔の腕を縛っている光の帯が、一つずつ引き伸ばされている。先生たちが押さえきれなくなるまで、もう長くはなさそうだ。
もし、あいつが風魔法まで同じように真似するなら……。
「先生! 管理官!」
俺の言葉に、二人は一斉に振り向く。
「もし、あいつが風を使ったら、最初の一度だけ防いでください!」
「最初だけだと? その後は?」
「多分、弱くなります! アリサの術式が、そのままなら」
「多分、か……」
管理官の視線が、俺からアリサへ移り、正面の悪魔へ戻る。
「サキモト。聞こえたか」
「ああ。この学院で一番信用ならない保証付きでな。……弱まらなければ全員下がらせる」
「それでいい」
先生は、悪魔を縛っていた光の帯を握り直した。
「アズマ。風が弱まっても、勝手に飛び出すな。先に私たちが腕を止める」
「分かりました」
「使わない可能性もある。他の攻撃から目を離すなよ」
俺は頷き、杖を持つ手を拭った。手のひらに、汗と泥が混ざっている。
分かったつもりになって前へ出れば、今度こそ鎖に掴まれる。自分たちに都合よく動いてくれる相手じゃない。
それでも、ただ押されていたときよりは、見るべきところが増えていた。
◇
クドウ管理官とセレナ先生が、左右から悪魔を押さえた。
光の帯が剣を持つ腕に巻きつき、足元には新たな拘束が走る。悪魔は盾を持ち上げたけど、その下に潜り込んだ光までは防ぎきれなかった。
黒い鎧が軋む。
ナギが、その後ろで一歩退いた。
「バルグレム。押し返しなさい」
悪魔の下側の手が、俺たちに向いた。
指の間に緑色の光が集まり、魔法陣が開いていく。
あの術式。風魔法だ。
「来るじゃん!」
ミカが杖を両手で握った。
俺も身を低くし、柱に肩を寄せた。ルカがキサラギを壁際に引き、レイナは入口の奥を庇う位置に移る。
「頭を下げろ!」
セレナ先生の声とともに、風が膨れ上がる。
広場に溜まっていた水が、一斉に吹き飛ばされる。泥も石も混ざった白い塊が、防壁に叩きつけられた。
入口の柱が震え、身体を押し潰されそうな音の中で、俺は杖を抱え込んだ。真正面に立っていたクドウ管理官が、片膝をついている。
強すぎる。でも、アリサの魔法そのものと同じじゃない。
あいつが真似しているのは、魔力の量じゃなくて術式の形だ。そこへ流している力は、あの悪魔自身のもの。
だから威力は違っても、術式に残った癖まで同じになる。飼育場でアリサが放った風も酷かったけれど、今度はそれが狭い入口に向けられている。いかに強靭な御霊代の校舎でも、耐えられるか疑問だ。実際に、防壁にも亀裂が入っている。
「まだ下げるな!」
セレナ先生が叫び、管理官の防壁に光を重ねた。
俺は目を細め、舞い上がる泥の向こうを見た。
弱くなるはずだ。そう思っても、立ち上がることはできなかった。向こうが同じ魔法を使っているというだけで、この風まで同じだとは限らない。
そのとき、俺の頬にぶつかっていた水滴の勢いが落ちた。
柱を鳴らしていた音が、急に遠ざかる。
前に押しつけられていた肩が軽くなり、宙に舞っていた小石が、ばらばらと地面に落ち始めた。
「……今です」
入口の奥から、声がした。
アリサが、沙耶香に支えられながらこちらを見ていた。
「もう、強いところは過ぎました!」
クドウ管理官が、防壁の端をわずかに開いた。
そこから流れ込んできたのは、濡れた草を撫でる程度の風だった。
「確認した。行くぞ、サキモト!」
防壁が左右へ割れ、その間を通って光の帯が広場へ走った。
「出力を落とすようには命じておりませんが」
ナギの声に従い、悪魔の魔法陣がもう一度強く光ろうとする。
けれど、その前に二人の先生の拘束が届いた。剣と盾を持つ腕が外へ引かれ、下側の腕にも光が絡みつく。
悪魔が、大きく身体を捻った。
その動きで、低く構えていた盾が持ち上がる。傷ついた膝と、鎧の継ぎ目が露わになった。
「アズマ!」
セレナ先生に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「長くは押さえられん!」
「はい!」
俺が杖を構える横で、ルカとキサラギも立ち上がった。レイナが入口の縁に進み、ミカは息を整えながら、その少し後ろにつく。
アリサが、俺の背中に声をかけた。
「マナト様」
振り返ると、アリサは自分の手を胸元で握っていた。
「あの魔法で、これ以上、皆様が傷つくのは嫌なのです」
「ああ。さっき教えてくれたこと、使わせてもらうぞ」
「はい!」
大きな返事だった。
すぐに咳き込んでしまい、沙耶香に背中を支えられている。それでも、その目は悪魔から逸れなかった。
あいつが覚えているのは、アリサが言われるままに撃った魔法だけじゃない。外そうとした火矢も、当てないようにした雷も、その中に残っていた。
ナギが奪っていった記録には、アリサが最後まで従わなかったところも、確かに残っている。
「ルカ。キサラギ」
俺は二人に向き直った。
悪魔を縛る光が、すでに軋み始めている。打ち合わせに使える時間は、ほんの少ししかなかった。
「最初は、さっきと同じように見せる」
「そのままじゃ、また防がれるぞ」
「分かってる。だから――」
俺は、自分の考えを短く伝えた。
ルカが一度だけ目を見開き、すぐに杖の向きを変える。キサラギは嫌そうに眉を寄せたが、話の途中で口を挟むことはしなかった。
「……君らしい、行儀の悪い使い方だね」
「さっき泥を這ってた奴に言われたくないぞ」
「ふん。さっさと構えたまえ。時間がない」
「分かってる」
悪魔の赤い裂け目が、俺の右手に向く。青い魔法陣が開き始めると、拘束されている下側の腕が、鎖をこちらに向けようと動いた。
そこまでは、さっきと同じだった。
俺は杖先を動かさず、隣に立つ二人を待った。




