泥だらけの誇り
防壁が砕ける寸前、クドウ管理官が杖を横へ払った。
光の壁が傾き、その表面を黒い大剣が滑っていく。俺たちの頭上を外れた刃は、すぐ脇の芝生に突き刺さった。地面が大きく抉れ、飛び散った土が頬を叩く。
「下がれ! 負傷者を先に通せ!」
叫ぶセレナ先生の杖から、何本もの光の帯が伸びた。
大剣を引き抜こうとする悪魔の右腕に、それらが巻きついていく。太い腕が引かれるたび、先生の足元で敷石が軋んだ。
その間に、俺たちは校舎へ向かって下がった。
医療担当の先生がアリサを抱え、沙耶香がその横に付き添っている。入口までは、あと十歩ほど。あそこへ入れば、少なくとも広場で身を晒しているよりは安全なはずだった。
けれど、その入口の前に、黒い線が走った。
「止まれ!」
俺の腕を引き、ルカが足を止める。
直後、目の前の敷石が弾けた。悪魔の下側の腕から伸びた鎖が、入口の前を横切っていたんだ。その先端が跳ね上がり、扉の横にある柱に深く食い込んでいく。
剣を止められても、残りの三本は動くんだ。
「《風壁》!」
ミカの杖から緑の魔法陣が開き、俺たちの足元に風が集まり始める。その瞬間、悪魔のもう一本の鎖が、低い位置から跳ね上がった。
「ミカ!」
風が広がるより早く、鎖が魔法陣を横切った。
ミカは慌てて腕を引く。掠めた鎖に杖先を弾かれて、緑色の光が崩れた。踏みとどまろうとした足が濡れた草の上を滑り、倒れかけた体をルカが受け止めた。
そして鎖は、まだこちらを狙っている。
「《水球》!」
膨らんだ水が鎖を包み込むけど止まらない。
水の中を突き抜けた先端が、杖を握る俺の手に向かってきた。咄嗟に避けて、袖を掠めた鎖はそのまま背後の地面に突き刺さった。
「何だよ、今の……」
鎖は、水球ができてから向きを変えたわけじゃない。最初から、その向こう側にある俺の腕を狙っていた。
ミカのときも同じだ。
風が出る前に、魔法陣の位置へ鎖が向かっていた。
さらに、レイナが杖を上げる。雷魔法の収束が始まるかどうかというところなのに、もう盾がレイナに向けられていた。
「……まだ撃っていないぞ」
悪魔は盾を元の位置へ戻した。上げた剣はセレナ先生に押さえられたままだが、赤い裂け目は、俺たちの間をゆっくりと動いている。
「同じ間合いで撃ち合うな!」
先生が叫んだ。
「構えと術式を見られている! 発動する頃には、もう対処に入っているぞ!」
分かったからといって、すぐに別の戦い方が出てくるわけじゃない。
魔法の方向を考えるだけでも、俺には少し時間がいる。その時間に、あいつは鎖を伸ばしてくるんだ。
「よく覚えているでしょう」
盾の後ろから、ナギの声がした。
「皆様には、それぞれ準備の癖がございます。魔法を使う前に、どこを見るか。どちらの足に体重を乗せるか。ご本人はお気づきにならないことも多いものです」
「黙っていろ!」
クドウ管理官が声を荒げる。
悪魔の足元に光が走り、その両脚を囲む。今度は盾で防げない位置だった。
巨体が沈んだのは、ほんの一瞬。同時に入口へ伸びていた鎖が大きく引かれた。柱が嫌な音を立て、その表面から石片が剥がれていく。
「柱が!」
沙耶香の声に、管理官が杖を返した。
剥がれた石が、先生たちに落ちる。その間に防壁を差し込んだ瞬間、悪魔の足元を囲んでいた光が薄くなった。
黒い足が、その輪を踏み越えた。
逃がさないよう押さえれば、別の腕で逃げる人を狙ってくる。先生たちは、悪魔だけを見て戦えないんだ。
「マナト」
ルカが、俺の肩に手を置いた。
「入口の鎖だけでも止められねえか。あれが動いてる限り、アリサを通せねえ」
「ああ。でも……」
俺は悪魔の下側の腕を見る。そこに魔法を向ければ、また先に動かれる。水球で覆うのも、風で押し返すのも、すでに一度見られている。
その横を、金色の頭が通り過ぎた。
「キサラギ?」
そいつは答えず、俺たちの前に出た。
膝も肘も泥だらけだった。白かった袖には黒い汚れが広がり、杖を握る手にも土がついている。
それでも、背筋だけは伸ばしていた。
「ハクア様。そこは危のうございます。よろしければ、皆様とご一緒にお下がりください。手加減までは、覚えさせておりませんので」
「九年間も見ていたのだろう?」
キサラギが、杖を持ち上げる。
「なら、僕が何をするかも分かるはずだ」
「ええ。こういうとき、ひときわ目立つ魔法をお選びになることは」
老人の仮面が、ゆっくりと傾いた。
「ですが、術式を完成させる時間があるかどうか――」
キサラギの杖先に光が集まると、悪魔の盾が、その正面に動いた。
次の瞬間、キサラギが地面を蹴った。
「おい!」
俺は思わず声を上げた。
あいつは、まだ魔法を撃っていない。それなのに杖を下ろし、盾へ向かって真っ直ぐ走り出したんだ。
悪魔の下側の腕が動く。それに伴って俺たちを狙っていた方の鎖が引き戻され、キサラギの進路に矛先を変えた。
「ルカ、あの鎖!」
「分かってる!」
ルカの杖が横へ振られる。
「《衝》!」
鎖の途中に衝撃がぶつかり、その軌道が上へずれた。
キサラギは身体を伏せた。いや、あれは伏せたというより、濡れた地面に飛び込んだようなものだった。
前へついた手が滑り、肩から泥に突っ込む。
けど、止まらない。片膝と肘を使って身体を押し出し、持ち上がった盾の下に潜っていく。頭上を通り過ぎた鎖が、遅れて芝生を削った。
「なんて無茶を!」
セレナ先生の悲鳴の前で、悪魔の剣が、拘束を引きちぎろうと持ち上がる。先生は両手で杖を握り、巻きつけていた光の帯をさらに引き絞る。
剣が止まった。そこで、キサラギが顔を上げる。
彼のすぐ目の前には、悪魔の太い脚があった。
「《衝》!」
鈍い音。黒い鎧の隙間から光が漏れ、巨体の膝が外側へ折れる。体重を支えきれなくなった足が地面を滑り、悪魔が大きく傾いた。
盾の下端が、キサラギの背中へ迫る。
「戻れ!」
俺は走り込み、そいつの上着を掴んだ。
ルカも反対側から腕を引く。三人まとめて転がった直後、さっきまでキサラギがいた場所に盾が深々と突き刺さり、土が噴き上がった。
背中に小石が当たり、俺は首を縮める。それでも、掴んだ上着だけは離さなかった。
「今だ! 通れ!」
クドウ管理官の叫び声で、入口へ伸びていた鎖が緩んでいることに気付いた。そのうえ、今は管理官がそれを防壁で地面に押さえつけている。
「走って!」
医療担当の先生が、アリサを抱えて入口を抜ける。沙耶香とレイナが続き、ミカの風が、後ろから降ってきた石片を横へ流した。
「……重い。退きたまえ」
「あ、ごめん」
俺は慌てて身体を起こした。ずっとキサラギを下敷きにしたままだった。
キサラギは仰向けになったまま、荒い息をついている。前髪は泥で額に張りつき、擦りむいた手のひらから、少しだけ血が出ていた。
「お前、何考えてるんだよ」
「膝を壊せば、立てなくなると思った。それだけだ」
「踏まれるところだったぞ」
「フン」
起き上がろうとした腕が震えている。その肘を掴むと、今度は振りほどかれなかった。
悪魔は片膝をついていた。割れた鎧の継ぎ目から、赤い光が細く漏れている。大剣を地面に突き立て、傾いた身体を支えようとしていた。
「……随分と、お行儀が悪くなられましたね」
さっきまでより、ナギの言葉の間が少し長い。
キサラギは俺の手を借りて立ち上がり、泥だらけの顔を上げた。
「そうだな。九年間も教えてこの有様では、君も大した付き人ではなかったらしい」
ナギは答えない。
ただ、白い眉の下にある穴が、じっとこちらを向いていた。
「僕の歩き方まで、いつまでも君が決められると思うな」
キサラギはそう言って、口の端についた泥を袖で拭った。
いつものように前髪を整えれば、余計に汚れるだろう。けれど今のそいつは、そんなことを気にしているようには見えなかった。
「生徒は入口へ下がれ!」
セレナ先生の声が飛んできた。
彼女がそう言うのはもっともだ。悪魔が、ゆっくりと立ち上がり、俺たちを含めた周囲の敵を見据えている。
傷ついた脚を少し後ろへ引き、盾の位置を低くした。さっきまで開いていた膝の前が、今はすっかり覆われている。
キサラギが、杖を握り直した。
その動きに合わせて、悪魔の下側の腕がこちらへ向いた。
「もう一度は無理だ」
俺が言うと、キサラギも足を止めた。
鎖の先端が、地面すれすれで揺れている。今度は上を狙ってこない。
「……一度見ただけで、かい」
「そうみたいだな」
ルカが俺たちの背中を押した。
「感心してる場合か。行くぞ!」
俺たちは、校舎の入口へ向かって下がった。
その前にクドウ管理官が立ち、悪魔を広場の中央へ押し戻そうとしている。セレナ先生も拘束の位置を変え、今度は盾を持つ腕を狙っていた。
ナギは、まだ悪魔の後ろにいる。
逃げ出す機会を探しているのか、それとも今の戦いを見ているのか。仮面の向きは、俺たちと悪魔の間を行き来していた。
「残念ながら、いつまでも同じ相手ではございません」
その声に応じるように、悪魔の下側の手から鎖が地面へ落ちる。
空いた手の前に、赤い魔法陣が浮かんだ。
「魔法まで使うのかよ……!」
見覚えのある術式だ。あれは間違いなく火矢。
きっと腕輪に記録されていたのは、俺たちの動きだけじゃない。アリサが使った魔法そのものも、あの石には残っていたんだ。
細い炎が、校舎の入口へ放たれる。
その狙いの先には、アリサを床に寝かせるのを手伝う沙耶香がいた。
医療担当の先生が、その横に膝をついたところだった。
「沙耶香!」
俺の声に、沙耶香が顔を上げ、迫る炎に愕然としている。
クドウ管理官が、入口の前に防壁を広げた。俺も杖を向けたが、水球を作るには間に合わない。
その直前、火矢の片側が押し潰されたようにさらに細くなった。
真っ直ぐだった軌道が大きく折れ、炎が横へ逸れる。防壁に触れることもなく、誰もいない石畳に突き刺さり、赤い火の粉を散らした。
沙耶香は、アリサの上に覆いかぶさったままだった。
二人とも、無事だ。
「……今の」
俺は、炎が落ちた場所を見た。
誰かが弾いたわけじゃない。少なくとも、俺の見える範囲では、魔法がぶつかった様子はなかった。
勝手に曲がったんだ。そして、同じ曲がり方を俺は前にも見ている。
あのとき火矢を放ったのは、今、沙耶香の腕の中にいる小さなメイドだった。




