九年間の付き人
「聞こえているなら、なぜ従わない」
キサラギの声が、少しだけ掠れた。
ナギの銃口は、まだその胸に向けられている。穏やかに笑っている老人の面とは裏腹に、彼自身が何を考えているかはもう分からない。
「僕は、その銃とやらを下ろせと言っているんだ」
「ええ」
「なら――」
「お命じになれば、私が従う。そうお考えなのですね」
ナギの言い方には、問いかける響きさえなかった。
キサラギは口を開いたまま、言葉を詰まらせる。いつものように鼻を鳴らすことも、前髪を撫でることもできず、ただ目の前の仮面を見つめていた。
「キサラギ。そのままでいろ」
管理官は杖を下げている。けれど、空いている方の手が、背中の後ろでわずかに動いた。それを見たセレナ先生が、俺たちの側へ半歩寄る。
「何が目的だ」
「そちらを通していただければ、それで結構です」
ナギは銃を持つ手を動かさず、仮面の顎だけを校舎の間へ向けた。
「その腕輪は置いていけ」
「それはどうか、ご容赦いただきたく」
「生徒にそんなものを向けておいて、頼みが通ると思うな」
「ですから、こうしてお話ししております」
いつもの声だった。ラジオの中を覗き込み、どこに力を加えれば壊れるのか教えてくれたときと、少しも変わらない。それがかえって、目の前の光景をひどく遠いものに感じさせた。
背後では、医療担当の先生がアリサを抱き上げている。沙耶香がその身体を支え、レイナとミカが二人を庇う位置に移った。
アリサの手は、沙耶香の袖を掴んだままだった。
「……父上が、命じたのかい」
キサラギが聞いた。
「腕輪を取り戻せと。だから、こんなことをしているのかと聞いているんだ」
「いいえ。こちらは、ミツルギ様のご指示ではございません」
「だったら、なぜだ! あれは父上が渡した物だろう!」
「ええ。ミツルギ様がご用意なさった物です。ただし、あの方が用意されたままの物ではございません」
俺は、ナギの外套に目を向けた。
奪った腕輪は、布ごとその内側にしまわれている。銃を持っていない左手が、さっきからずっと、その辺りに触れていた。
「あの記録の仕組みを加えたのは、お前か」
セレナ先生が尋ねた。
「ええ。それと、外から指示を送るための仕組みも。古い服従の術式だけでは、できることが限られておりましたので」
「ミツルギは、それを知っているのか」
「いいえ。あの方は、ご自分の用意された術式が働くものとお考えだったでしょう」
キサラギの顔から、残っていた血の気が引いていく。
父親が、アリサに何を渡したのか。その贈り物に、自分の付き人が何を加えたのか。一度に聞かされたことを飲み込めないように、唇だけが何度か動いた。
「だから、アリサを……」
俺が言うと、仮面がこちらを向いた。
「工具を貸したのも、あれを取り出すためだったんですか」
「記録まで壊されては困りますからね。留め具を外していただければ、それが一番でした」
鞄の中で、工具同士が小さく触れ合った。
俺はあの道具を使って、アリサを助けようとした。ナギも同じことを考えていると思って、受け取ったんだ。
「あのまま塔の下敷きになれば、回収は難しかったでしょう。皆様が間に合ってくださって、助かりました」
「助かったって……!」
踏み出しかけた俺の腕を、ルカが掴んだ。
その手にも、強い力が入っている。俺だけが腹を立てているわけじゃない。それでも、目の前にはキサラギがいる。
ナギの銃口は、一度もそいつから外れていなかった。
「ナギ」
キサラギが、また名前を呼んだ。
「九年だぞ」
「ええ。よく存じております」
「九年間、僕の側にいたじゃないか。学院へ来る前から、ずっと……」
そこで、声が途切れた。
キサラギは何かを言おうとして、結局、同じ名前をもう一度呼ぶ。
「ナギ」
「はい、ハクア様」
返事だけは、すぐに返ってきた。
キサラギの眉が歪む。さっきまで何度も命令を繰り返していたのに、今度は続きが出てこなかった。
「九年間、一度も疑われませんでしたね」
ナギが言った。
「ご自分がお命じになれば、私が従うと。私が何を考え、何を見ているかなど、お確かめになる必要もなかったのでしょう」
「そんなことは――」
「靴も、服も、歩かれる先も、すべて整えてまいりました。それらが、ご自身のお力で整ったものとお考えだったようですが」
キサラギの拳が震えた。
俺はあいつの嫌味が嫌いだ。アリサや沙耶香に投げつけてきた言葉を、忘れたわけでもない。
それでも今、銃を向けられたまま立ち尽くす背中を見て、笑う気にはなれなかった。
「……僕のことを、ずっと笑っていたのか」
その問いに、ナギは答えなかった。
外套の内側から、左手を抜く。その指の間には、淡い青色の石が挟まれていた。
「その手を止めろ」
クドウ管理官の制止も聞かずに、ナギの親指が、石の縁を撫でる。
青い石の奥で、細い光が点いた。
「今だ!」
クドウ管理官が踏み込んだ。
同時に、セレナ先生の杖が跳ね上がる。キサラギと銃口の間に、薄い光の板が差し込まれた。
銃声が響く。
光の板に白い亀裂が走る。その向こうでクドウ管理官がキサラギの襟首を掴み、身体ごと横へ引き倒した。
「伏せていろ!」
二発目の弾丸が、頭のすぐ上を通った。
俺は反射的に身を縮める。転がってきたキサラギの肩をルカが掴み、俺もその腕を引いた。
さっきまでそいつが立っていた場所に、セレナ先生の防壁が広がっていく。
「その武器を捨てろ!」
管理官の声とともに、地面を這うように光の帯が走った。
ナギの足元に迫り、その両脚を絡め取ろうとする。もう、人質はいない。
けれどナギは、逃げようとしなかった。
青い石を握った左腕に、黒い魔紋が浮かんでいた。
「契約に従い、来なさい」
芝生の上に、黒い円が開く。中央に重なった文字が回転し、その内側から、何か大きな物がせり上がってきた。
「《バルグレム》」
最初に現れたのは、盾だった。
人の身体ほどもある黒い盾が、ナギの前に突き立つ。光の帯がその表面に巻きついたが、次の瞬間、内側から押し返されて弾け飛んだ。
地面が沈み、俺たちが踏んでいる芝生まで揺れていく。近くに落ちていた石片が跳ね上がり、何か巨大な質量が現れたと理解したころには、黒い円の中から、鎧を着た巨大な身体が立ち上がっていた。
腕が、四本ある何か。上の右腕には、俺の身長より長い剣。左腕には、さっきの盾が握られている。腰の横から伸びた残りの二本は、それぞれ黒い鎖を引きずっていた。
顔に当たる部分は、分厚い兜で覆われている。
その真ん中を走る赤い裂け目が、ゆっくりと俺たちの方へ向いた。
「契約悪魔だと……!」
セレナ先生が、杖を握り直す。
「負傷者を下げろ! 建物の陰まで運べ!」
医療担当の先生たちが動いた。
沙耶香もアリサを支えたまま下がっていく。レイナはその前を離れず、ミカは両手で杖を持ち直した。アリサを受け止めたばかりの腕が、まだ少し震えている。
悪魔の右腕が持ち上がり、剣先が退避する先生たちに向けられた。
「まだです」
だけど、ナギの言葉一つで、巨大な剣が、空中で止まった。
「先に、こちらを」
ナギは悪魔の背後へ下がり、左手の石を持ち上げた。
青い光が、細い糸のように伸びていく。糸の先が黒い鎧に触れた途端、その表面に幾重もの文字が浮かび上がった。
悪魔は動かない。
ナギの手元から流れ込んでくる光を、黙って受け入れている。
「記録を移しているのか!」
セレナ先生が声を上げ、杖を振るった。
光の帯が、今度は悪魔の側面を回り込んだ。だが、下側の腕から鎖が跳ね上がり、その帯を途中で叩き落とす。
飛び散った光の向こうで、ナギは石を掲げ続けていた。
「アリサの魔法を、そいつに覚えさせるつもりか!」
俺が叫ぶ。
「アリサ様だけではございませんよ」
ナギが答えた。
「皆様は、随分と熱心に戦い方を見せてくださいました。あの方を止めるために、何を使い、どこを狙い、誰と組み合わせるのか」
中央塔でのことが、頭をよぎった。
アリサを傷つけないように、俺たちは何度も攻撃を変えた。誰かが引きつけ、誰かが足を止め、その隙に腕輪へ近づこうとした。
「それを、全部……」
「ええ。ご協力に感謝いたします」
鎧の表面を走っていた文字が、赤い光の中に沈んでいく。
ナギは青い石を外套に戻した。銃もしまい、乱れた袖口を片手で整える。
もう、あの銃で俺たちを遠ざける必要はないということか。
「逃がさんぞ」
クドウ管理官が、悪魔の正面に立った。
「外周は学院長が押さえている。そいつを呼んだところで、外へ出られると思うな」
「タマヨリ様ですか。困りましたね。では、通していただけるまで、お願いするしかございませんね」
「ナギ!」
俺の横で、キサラギが立ち上がった。
膝にも肘にも泥がついている。ルカが止めようとしたが、その手を振りほどき、杖を抜いた。
「僕を見ろ!」
老人の面が、わずかに傾いた。
「お話でしたら、後ほど伺います、ハクア様」
「後ほどだと……?」
「今は、そちらの皆様にもお相手いただきませんと」
ナギは悪魔の背後で、一歩だけ横へ退く。その動きだけで、もうキサラギの方を見ていないと分かった。
キサラギは杖を上げたまま、動かない。俺はそいつの肩を掴み、剣の正面から下がらせた。
「おい、キサラギ。今は下がれ」
「離したまえ」
「あとでいくらでも怒れよ。今、そこで突っ立ってたら死ぬぞ」
返事はない。けれど今度は、俺の手を振りほどかなかった。
黒い鎖が地面を擦る。それが、悪魔の最初の一歩の合図だった。巨体が俺たちとナギの間を完全に塞ぎ、盾の横から覗く赤い裂け目が、杖を持った俺の右手に向いた。
「バルグレム。道を開けなさい」
ナギの声に従って、剣が振り上げられた。
クドウ管理官の防壁が、俺たちの前に広がる。そこに黒い刃が叩きつけられ、足元から胸の奥まで、重い衝撃が突き抜けた。
防壁に亀裂が走る。
俺は杖を上げた。剣を押し返すのか、脚を止めるのか。頭の中で次の一手を選ぼうとしたとき、盾の陰で、下側の腕がすでに動いていた。
「お気をつけください」
ひび割れる防壁の向こうから、ナギの声が届いた。
「皆様の戦い方は、すでに学習済みです」




