落とさない
アリサが落ちていく。
俺たちの声に振り返ることも、杖を取り出すこともない。身体から離れたエプロンの裾が風を受け、細い腕だけが、力なく上へ持ち上がった。
ついさっきまで、その手は沙耶香の袖を掴んでいた。腕輪も外した。やっと、自分で帰りたいと言えたのに。
「《暴風》!」
中庭で、緑色の光が広がり、地面から吹き上がった風が、アリサの身体を包んだ。
それでも、すぐには止まらない。
落ちながら身体の向きが変わり、崩れた石と一緒に落ちていたアリサだけが、少しずつ塔から離れていく。
風が、落下を緩めながら横へ運んでいるんだ。
「ミカ……」
沙耶香の声に、その魔法が誰のものかを理解した。
中庭を見下ろせば、ミカが風の上級魔法を唱えていた。俺たちの視線に気付いて、にいっと笑みを浮かべた。
「何よ、そのドヤ顔……」
沙耶香が今言った言葉の意味を問いただす気力もない。
俺はただ、風がアリサを無事に受け止めたのを見届けて、息を吐くことしかできなかった。
やがて地面へ近づくにつれて、風が草を大きく波打たせる。ミカは身体を傾けながらも、最後まで杖を下ろさなかった。
アリサの身体が、草の上に横たわる。
その周囲に職員たちが駆け寄り、上からは姿が見えなくなった。
「マナト!」
レイナに肩を引かれた。
「受け止めた。今度は私たちが出るぞ!」
俺は頷こうとした。
けれど、喉が詰まって、息がうまく通らなかった。アリサの袖が指を滑っていった感触だけが、まだ手の中に残っていた。
◇
階段まで戻る間、何度も足場が揺れた。
セレナ先生が残った床を確かめ、クドウ管理官が障壁で崩落を押さえる。その間に一人ずつ扉を抜け、俺たちは下の階へ降りた。
途中の鉄格子は、職員が固定したままで、入口の扉も開いている。
そこを抜けた瞬間、外の空気が肺へ入り、俺はようやく大きく息を吸った。
「アリサちゃん!」
沙耶香が先に走った。
塔から離れた芝生に、職員たちが集まっている。その手前では、ミカが膝を折って地面に片手をついていた。
「ミカ!」
「あー、やばい。暴風あんだけ長く使うの初めてじゃん……あ、アリサちゃんはあっちで先生たちが診てくれてるじゃん」
何を言えばいいのか、一瞬分からなくなった。礼を言うべきなのに、口を開くと、さっきの叫び声まで一緒に出てきそうだった。
「あ、ありがとう」
どうにか、それだけ言った。すると、ミカは「ははっ」と軽く笑顔を見せた。
「本当に、落ちてくるんだもん……間に合って、よかったじゃん」
杖を握ったままの手が、まだ震えていた。
制御室のあった場所は、外壁の一部が大きく抜け落ちていた。露出した床が斜めに傾き、その下を、地上の教員たちが張った障壁が支えている。
俺たちが、さっきまでいた場所だ。
「アリサちゃん、分かる?」
沙耶香の声に、俺は顔を上げた。
アリサは敷かれた上着の上に寝かされていた。医務担当の先生が左腕に杖をかざし、その隣で、レイナが落ち着かない様子で手元を見ている。
「意識はある。無理に起こさず、このまま治療室へ運びます」
「……よかった」
「お姉ちゃん……」
アリサの瞼がわずかに動く。
何かを探すように視線が揺れ、沙耶香の顔を見つけたところで止まった。
「うん。いるよ」
「お嬢様は……?」
「ここにいる」
レイナが、少し身を屈めた。
「皆いる。心配はいらん」
アリサの口元が、かすかに緩んだ。
沙耶香がその手に指を添えると、弱い力で握り返したようだった。今度は、目を閉じても、沙耶香は何度も呼びかけなかった。
ただ、手を添えたまま、アリサの顔を見ていた。
「アズマ。お前の手も見せろ」
セレナ先生が俺を呼んだ。
隠すつもりはなかったけど、反射的に指を曲げてしまった。その動きを見て、先生が眉を寄せる。
「握れるか?」
「多分、少し痛いです」
「つまり重傷か」
問答無用とばかりに先生が俺の手に杖を向ける。
冷たい感覚が指先に広がり、ようやく、自分がずっと拳を握ろうとしていたことに気づいた。
「俺、袖には届いたんです」
先生は答えなかった。
「もう少し、ちゃんと掴めていれば」
「カナメが受け止めた」
短い返事だった。
俺が顔を上げると、先生はアリサの方を見ていた。
「お前一人で、最後まで掴んでいなければならないわけではない」
何か言おうとして、やめた。
少し離れたところで、ミカが職員に肩を借りて立ち上がっている。杖を持つ手はまだ震えていたけど、沙耶香に声をかけられると、いつものように頷いていた。
俺は、ようやく指を開いた。
◇
「管理官。これを」
職員の一人が、布に包んだ銀色の破片を持ってきていた。
腕輪だ。二つに割れた外装と、そこから外れた小さな部品が、布の上にまとめられている。塔の近くに落ちた物を、職員たちが回収してくれたらしい。
クドウ管理官が受け取り、割れた面を確かめた。
俺も、手当てされた指をかばいながら近づく。
「そこ、見せてください」
銀の飾りの内側に、小さな板が収まっていた。表面には細い銅線が通り、その先が青い石の下に入り込んでいる。
外から見えていた石は、ただの飾りじゃなかったんだ。
「これは……人間の部品か?」
「はい。あの黒い箱と、似たつなぎ方をしてます」
俺が答えると、セレナ先生が身を屈めた。
石そのものには触れず、その下にある金具と、周囲に刻まれた紋様を見比べる。
「記憶石のようだな。術式を保存するための物だ」
「でも命令を受けるだけなら、要りませんよね」
「ああ」
クドウ管理官の指が止まった。
黒い箱は、外からの信号を中継しながら、使われた魔法を記録していた。箱が押収されたあとでも、腕輪の中には記録を残せる物があったんだ。
「この石は、アリサ自身の魔法だけを記録していたんですか?」
「分からん。だが、この大きさの感応範囲なら、近くで使われた魔法まで拾っていた可能性はある」
つまり、塔で俺たちがアリサを止めるために使った魔法も、残っているかもしれないな。
「どこまで残っているんですか?」
「ここでは調べん。下手に触って別の術式を動かす可能性がある」
管理官はそう言い、布を閉じようとした。
「どうやら接続部分は、切れているようですね」
背後から、ナギさんの声がした。
振り返ると、少し離れた場所にナギさんとキサラギが立っていた。二人についていた職員も、その隣からこちらを見ている。
「ただ、石の固定具には、まだ細い線が残っているようでございます」
ナギさんにつられて、俺はもう一度石の周りを見た。
回路が複雑に絡み合っていて、どの線のことか分からない。
「その下に――」
ナギさんが一歩近づいた。
「そこから見ろ。触れる必要はない」
クドウ管理官が告げると、ナギさんは穏やかに頷いた。
「承知いたしました」
そうしてナギさんは、その場から腕輪を見下ろす。
「まあまあ距離ありますけど、分かります?」
「ええ。それなりに。そうですね……そこの箇所とか」
「そこ?」
彼が指さしているのは、どのあたりだろう。
俺だけでなく、皆の注目が腕輪に集まっていく。
そして。
青い石の載った布の端が掴まれ、下から伸びたもう片方の手が、クドウ管理官の手首を払った。
「――おい!」
管理官が包みを引き戻そうとする。
それより先に、ナギさんが身体ごと踏み込んだ。
布が強く張り、管理官の指から抜ける。
俺が手を伸ばしたときには、ナギさんはすでに後ろへ下がっていた。そして、その手には証拠品である腕輪の入った包みが握られていた。
「ナギ!」
叫んだのが誰かは分からない。
それよりも先に、ナギさんの手が上着の内側から出てきた。
「銃!?」
沙耶香の声と、乾いた破裂音が重なった。
クドウ管理官の足元で、石畳が弾けたんだ。
「何……!?」
管理官とセレナ先生が、同時に愕然としている。俺だってそうだ。今、魔法陣は、一つも開かなかったんだから。
「やはり便利ですね」
ナギさんの声はいつも通りだ。いつも通りすぎて、今の一瞬の動きが嘘だと思いたくなるほど。
彼が手にした黒い物体からは、その威力を示すように煙が上がっていた。
「銃……あれが……?」
初めて見た。
人間が、殺し合いを進めるために作り上げた凶器。分解してみたいという欲求と、危険性による戦慄が俺の体を同時に支配する。
「ナギ! 何をしている!」
すぐ近くに立っていたキサラギ。彼の視線は、自分の胸元に突きつけられた銃へ向いていた。
何が起きたのか、まだ分かっていない。
「急に動かれますと、危のうございます」
ナギさんが言い放った。
その視線は、クドウ管理官とセレナ先生の杖を順番に確かめていた。
「ハクア様に、何かあってはいけませんので」
「……ナギ?」
キサラギの声が、わずかに裏返った。
ナギさんは答えない。
銃を構えたまま半歩動き、キサラギの身体を、俺たちとの間に置く。レイナが横へ回ろうとすると、銃口もそれに合わせて動き、レイナの足が止まった。
その背後では、沙耶香がアリサの前に身を寄せていた。医務担当の先生が二人を庇い、ミカも杖を持って立ち上がっている。
誰も、何が起きたのか説明してくれなかった。
けれど、ナギさんが誰へ銃を向けているのかは、見れば分かった。
「腕輪を置け。今なら、それを下ろす時間はある」
クドウ管理官の言葉に対し、ナギさんは一礼した。
「お気遣い、ありがとうございます」
「冗談を言っているのではない」
「ええ。私もでございます」
彼の声は、少しも荒くならなかった。工具を貸してくれたときも、アリサにお茶の出し方を教えていたときも、こんな声だった。
俺は、上着に仕舞われた包みを見つめる。あの中にあるのは、アリサから外した腕輪だ。俺たちが手を伸ばしても届かなかった身体を動かし、何度も傷つけさせた物だった。
「それを、持っていくんですか」
ナギさんの視線が、俺へ向いた。
「アリサを助けるために、手伝ってくれたんじゃなかったんですか」
返事はない。代わりに、空いている手が上着の内側へ入った。
もう一つ銃を出すのかと思って、俺は身体を固くした。けれど、取り出されたのは……。
「何だアレ?」
それは、老人の笑顔をかたどった面だ。目尻と頬には深い皺が刻まれ、白い眉と顎髭がついている。細められた目も、緩んだ口元も、ただ見れば穏やかな表情だった。
ナギさんはそれを顔に掛け、その間ずっと銃口は、キサラギから外れなかった。
「……何のつもりだい」
キサラギが、さっきより低い声で尋ねた。
「僕が誰か、分からなくなったのか?」
「そのようなことはございません」
老人の面が、わずかに傾く。面で多少くぐもっているけど、それでも彼の声色は変わらない。
「なら、その物騒な物を下ろしたまえ。腕輪も返すんだ」
キサラギが、ようやくナギさんの顔を見た。
けれど、そこにはもう、見慣れた付き人の顔はない。
「ナギ。これは、僕の命令だ」
動かない。少しの間を置いてから、面の奥で、かすかに息を吐く音がした。
「ええ。よく聞こえておりますよ、ハクア様」
丁寧な返事。それにもかかわらず、銃口は下がらなかった。
俺の鞄の中で、工具が小さく触れ合った。腕輪の留め具に差し込んだ、あの細いドライバーも入っている。
貸してくれた人は目の前にいるのに、俺はもう、その道具を返すために近づくことさえできなかった。




