命令しない
止めてくださいと頼んだアリサの手が、俺たちに向かって振り下ろされた。
赤い魔法陣から飛び出した炎を、クドウ管理官が斜めに張った障壁で逸らす。炎は扉の枠を削り、その向こうの石壁にぶつかって砕けた。
「入口に固まるな! 左右へ分かれろ!」
俺とルカは制御室の右側へ走り、反対側ではレイナが沙耶香の腕を引いて、壁沿いに並ぶ魔道具の陰へ飛び込んだ。
続けざまにアリサの右手に青い魔法陣が開くのを見て、俺は杖を突き出した。
「《水球》!」
放った水が、アリサの水球に横からぶつかる。
押し返せるとは思っていなかった。それでも、狙いをずらすくらいならできるはずだ。
二つの水が噛み合い、膨らんだ球体が壁際の機器に叩きつけられた。
金属の覆いがひしゃげ、大量の水が床に流れる。
けれど、そちらを確かめる余裕はなかった。アリサの足元に緑の光が広がり、濡れた床の上を、細かな水滴が一斉に走り始めたからだ。
「《戒鎖》!」
セレナ先生の魔法陣から、光の鎖が伸びた。
アリサの胴と脚に巻きつき、踏み出しかけた身体を止める。腕を無理に引かないようにしているのか、左手首の近くには、一本も鎖が触れていなかった。
「クドウ、正面を頼む!」
「ああ!」
クドウ管理官がアリサの前へ回った。
その隙に、俺は左側から近づく。銀色の腕輪には、まだ留め具がある。指を伸ばしかけて、面談室で弾かれたときの痛みを思い出した。
腕輪の周りに、薄い赤い光が見える。
やっぱり、まだ守られている。
「先に外側の術式を落とす必要があるな」
セレナ先生が、俺の視線を追って言った。
「金具だけを壊そうとしても、あの障壁に弾かれる。内側の服従術式も残したままにはできん」
「両方、壊すんですね」
「ああ。ただし、腕を傷つけずにな」
アリサが身体を捻った。
光の鎖が軋み、先生の杖先が大きく揺れる。俺が一歩下がったところへ、アリサの右手が伸びてきた。
その指が、途中で止まった。
「申し訳……ございません」
唇の隙間から、声が漏れる。
けれど、次の瞬間には腕輪が強く光り、伸ばした手が俺の胸元へ迫ってきた。
「マナト!」
ルカに肩を引かれた。
俺たちのいた場所を風が通り抜け、背後の機器が壁に叩きつけられる。足元をすくわれて転がった拍子に、鞄から無線機が滑り出した。
床にぶつかった音を聞いて、思わず手を伸ばす。
ルカが、俺ごと機器の陰へ引きずり込んだ。
「道具より先に、お前が避けろ!」
「分かってる!」
「分かってねえから、引っ張ったんだよ!」
無線機は、まだ音を出していた。
短い音が二回、その後に長い音が一回。さっき塔の中で拾い直したものと、同じ並びだった。
俺は濡れた床からそれを拾い上げ、もう一台と並べた。
「信号を邪魔すれば、あの障壁も弱まるかもしれない」
「また、送る位置を変えられたら?」
「一台で追いかけるのをやめる」
俺は片方を、最初に信号を拾っていた位置に戻した。
「こっちは前の位置に残す。もう一台は、向こうが信号を移した範囲まで、まとめて邪魔できるようにする」
「そんなことできんのか?」
「送る範囲を絞ってる調整を崩す。まともな通信には使えなくなるけど、今は雑音が出ればいい」
「戻せんのかよ、それ」
「分からない」
ナギさんから借りた工具を取り出す。
人間の道具を手に入れるのも、使えるように直すのも、簡単じゃない。学院の備品だからといって、壊して構わないわけでもない。
けれど、元に戻せるか考えている間にも、アリサは鎖を引き千切ろうとしていた。
あの腕輪を外せるなら、あとで怒られるくらい、別にいい。
「先生! 妨害する範囲を広げます!」
セレナ先生が、こちらを見た。
「腕輪は核から離れている。残った接続はこちらで遮断する。やるなら、その後だ!」
「分かりました!」
クドウ管理官が、水晶とアリサの間に回り込んだ。
床に残った赤い線の上に、別の魔法陣が重ねられる。光が押し合い、何度か明滅したあと、水晶から壁へ続いていた紋様が薄くなった。
「今だ!」
俺は無線機の蓋を開いた。
ルカが前へ出て、俺とアリサの間に立つ。すぐに魔法陣が開き、飛んできた水の塊を横へ弾いた。
「あとどれくらいかかる!」
「急いでる!」
「それは分かってんだよ!」
細い螺子に、ナギさんのドライバーを当てる。
指が濡れて滑った。指を服で拭い、もう一度握り直す。接続を変え、送信側の調整を崩していくと、隣の無線機から耳障りな音が出始めた。
まだ足りない。少しずつ位置を動かしても、同じ雑音が入るようになるまで、俺は手を止めなかった。
正面では、鎖が一本切れた。アリサの右手から走った雷が、三本に分かれて部屋を横断し、レイナの雷魔法とぶつかり、俺の頭上で白い光が弾けた。
「マナト、まだか!」
「できた!」
予備の電池に交換し、俺は二台の送信を始めた。
無線機から、濁った音が重なって響き、アリサの腕輪の光が、一度だけ弱まった。
「続けろ!」
セレナ先生の声が飛んだ。
光の鎖に捕まったアリサの身体が、少し前へ折れる。自分の足で踏ん張り直そうとしたのか、靴底が床を擦った。
俺は送信ボタンを押さえたまま、彼女の左手首を見た。
腕輪を覆う赤い障壁が、さっきより薄くなっている。
「アリサちゃん!」
沙耶香が機器の陰から出た。
アリサの顔が、ゆっくりそちらを向く。今度は、その目が沙耶香のところで止まった。
「お姉、ちゃん……」
「うん。聞こえてるよ」
「逃げて、ください」
「一緒に帰るために来たんだよ」
沙耶香は、すぐ目の前まで行こうとはしなかった。
アリサの右手が持ち上がるたびに足を止め、下がれば、また少しだけ近づく。クドウ管理官もその横へつき、二人の間に杖を差し出せる距離を保っていた。
「わたしは、お姉ちゃんを突き飛ばしました。それに今も、傷つけようとしているのです」
「アリサちゃんが、そうしたくてやってるんじゃないでしょ」
アリサの口元が歪んだ。
右手の前に、赤い魔法陣が浮かび始める。それを見た沙耶香が足を止めると、アリサは苦しそうに首を振った。
「止めようとしても、止まらないのです。わたしが、ちゃんと……命令を守れないから」
「命令って……どの命令?」
「お嬢様にも、戻るようにと。でも、わたしの手が、勝手に……」
アリサは自分の右手を見た。
開きかけた魔法陣に、左手を伸ばそうとしている。けれど、その腕も途中で震え始め、思うようには動かなかった。
「どちらにも従えないのです。わたしは、また間違えて――」
「アリサ」
レイナが、沙耶香の隣へ進んだ。
その声に反応して、アリサが顔を上げる。
「はい、お嬢様。今度こそ、正しく……」
「最初に言ったはずだ。私は、お前に命令しない」
アリサの口が、半分開いたまま止まった。
レイナは構えていた杖を少し下げた。アリサに向けていた先端が外れ、濡れた床を指す。
「私の言葉を守れないからといって、自分が間違っていると思うな。あの腕輪に従えないことまで、失敗にする必要はない」
「ですが、わたしはお嬢様の――」
「ああ。私のメイドだ」
レイナは、そこを否定しなかった。
「私は、お前に帰ってきてほしい。だが、それを命令で決めさせるつもりはないし、別の命令で、お前を無理に動かすつもりはない」
アリサの目から、涙が落ちた。
レイナはそれを見ても、答えを急かさなかった。ただ、アリサが自分を見るのを待ってから、尋ねる。
「お前は、どうしたい?」
無線機が熱くなってきた。
ずっと送信を続けている方から、かすかに焦げた匂いがする。俺は持つ位置を変え、ボタンを押さえる指に力を入れ直した。
頼む。もう少しだけ、もってくれ。
「……分かりません」
アリサが、か細い声で答えた。
「戻っても、また間違えるかもしれません。皆様に、ご迷惑を……」
「私、また一緒に人形を作りたい」
沙耶香が言った。
アリサが、泣いたまま瞬きをする。
「今度は、三つ編みの長さもちゃんと揃えるから。アリサちゃんに、作り方を教えてほしい」
「お人形……」
「うん。アリサちゃんは、また好きな物を作ればいいよ。苺でも、羊でも」
休日の談話室が、頭に浮かんだ。
机いっぱいに広げられた羊毛と、針を動かしていたアリサの手。自分のために作った苺を胸元につけて、何度も角度を直していた。
あのときの手と、今、沙耶香に向けて魔法を放とうとしている手は、同じ手だった。
「お姉ちゃんは……それだけで、よろしいのですか」
「一緒にいたいんだよ。何かしてもらうためだけに、迎えに来たんじゃない」
沙耶香が、もう一歩近づいた。
アリサの右手が反応する。赤い魔法陣が沙耶香の胸元へ向きかけた、その途中で、アリサの左手が右手首を掴んだ。
腕輪の光が強くなり、アリサの喉から悲鳴が漏れた。それでも、掴んだ手は離れなかった。
「わたしは……」
アリサの腕に、魔紋が浮かび上がる。
赤い光に覆われかけていたその線が、内側から押し返すように輝いた。右手の前に開いていた魔法陣が、少しずつ形を崩していく。
「わたしも、一緒に帰りたいのです」
「うん」
「お姉ちゃんと、お嬢様のところへ……帰りたいです!」
火の魔法陣が、大きく揺れた。
腕輪がもう一度光る。
右手は前へ進もうとしたけど、アリサはその手を、自分の胸元へ引き戻した。
「だから、お姉ちゃんを傷つけるご命令には――」
泣きながら、それでもアリサは、はっきりと言った。
「従いません!」
赤い魔法陣が破裂した。腕輪の周りを覆っていた光に、細い裂け目が走る。銀の表面に浮かんだ紋様が歪み、閉じていた留め具が、ほんのわずかに浮き上がった。
「流れが変わった! 今なら触れる!」
セレナ先生が杖を振った。
アリサを縛っていた鎖がほどけ、その代わりに、左手首に薄い保護の術式が重なる。
「内側はこちらで守る。外側の印と、留め具を壊せ!」
俺は送信ボタンが戻らないよう固定し、無線機を足元に置いた。
レイナが先に動いた。
「《紫電》!」
細く絞られた雷が、腕輪の外側に浮かぶ赤い紋様を貫く。
閉じ直されかけていた留め具が止まり、沙耶香がそこへ杖を向けた。
「《火矢》!」
短い炎が、金属の継ぎ目を焼いた。
俺は《水球》を小さく作り、その部分に押し当てる。蒸気が上がり、腕輪の表面に入っていた亀裂が、留め具まで伸びた。
「ルカ!」
「《衝》!」
金属の端が、外側へ浮いたけど、まだ外れない。
アリサの手首に食い込まないよう、沙耶香が肘の下を支えていた。レイナも反対側から腕を押さえ、セレナ先生の保護術が、何度も明滅している。
足元の無線機から、火花が散った。
雑音が途切れかけ、腕輪の赤い光が戻ろうとする。
「あと少しだ!」
俺は工具包みから、いちばん細いドライバーを抜いた。
浮き上がった留め具の隙間に、先端を差し込む。押し返してくる力に負けないよう、もう片方の手を添える。
金属が軋んだ。
「マナト様……」
「もう少しで外れるからな……!」
腕に体重をかけないよう、留め具だけを少しずつ押し広げる。
背後で、無線機の音が途切れた。
赤い光が、俺の指先までせり上がってくる。熱さに手を引きそうになったけど、最後まで残っていた金具が曲がるのが見えた。
「外れろ!」
硬い音とともに、銀色の輪が二つに割れた。
次の瞬間、そこから溢れた赤い光が、制御室を塗り潰した。
「《障壁》!」
クドウ管理官とセレナ先生の声が重なった。
俺たちの周囲に防御魔法が張られ、膨れ上がった魔力を受け止める。衝撃で窓が砕け、外から吹き込んだ風が、床の水と硝子の破片をさらっていった。
沙耶香がアリサを抱き寄せて、俺もその肩を支えながらしゃがみ込み、光が収まるのを待った。
やがて、腕輪の破片が床に落ちた。
水晶の中に残っていた赤い紋様が、一つずつ薄くなっていく。頭上では、歯車がゆっくり動き直す音がした。
「アリサちゃん」
沙耶香が呼びかけた。
その腕の中で、アリサが少しだけ顔を上げる。
「お姉ちゃん……」
「うん。もう外れたよ」
腕輪のなくなった左手が、沙耶香の袖を掴んだ。
ほんの一度、確かめるように指が動く。そのあと力が抜け、アリサは沙耶香の肩に額を預けた。
閉じた瞼に一瞬ヒヤッとしたけど、近くで見れば、肩が小さく上下しているのが分かる。
俺はそれを確かめてから、ようやく詰めていた息を吐いた。
「よかった……」
沙耶香が、アリサの髪を撫でる。
レイナも隣に膝をつき、その左手首に残った傷を見ていた。杖を握っていた指から、少しだけ力が抜けたように見えた。
そのとき、俺の膝の下で、石の割れる音がした。
水晶の台座がゆっくり傾き、亀裂が音を立てて、階段へ続く扉まで走っていく。
やがて台座が沈み、床に溜まっていた水が、その下へ吸い込まれていく。重い物が崩れ落ちる音は、すぐ下の階から聞こえた。
「立て! 壁際へ寄れ!」
クドウ管理官の声に、俺は顔を上げた。
沙耶香がアリサを抱え直そうとしている。けれど、力の抜けた身体は思うように持ち上がらず、レイナが反対側から背中を支えた。
「私も持つ。ゆっくり立て」
「うん……!」
二人が立ち上がるのを待って、俺もアリサの足元へ手を伸ばした。
そのとき、床が大きく傾いた。
台座が亀裂に落ち込み、周囲の石を巻き込んで沈む。クドウ管理官が張った障壁が下からそれを受け止めたけど、重さを支える光の面にも、細かな亀裂が広がっていった。
「中央を通るな! 壁に沿って扉へ!」
セレナ先生が叫ぶ。
ルカが先に走り、扉の枠に掴まった。
「急げ!」
ルカがこちらへ手を伸ばすけど、その間にある床は、もう一枚につながっていない。
俺たちは壁へ寄りながら、少しずつ進んだ。
足を置くたび、石が軋む。アリサを抱えた沙耶香の足元ばかり見ていた俺は、窓の方から聞こえた音のした方へ振り返るのが遅れた。
壁が、外へ膨らんでいたんだ。窓枠を支えていた柱が折れて、残っていた硝子が一斉に砕け散る。外から吹き込んだ風が、俺たちの服を強く引っ張り出す。
「伏せろ!」
レイナが沙耶香の肩を押した直後、二人の立っていた床が窓の方へ滑った。
沙耶香がアリサを抱き締める。けれど、自分の足を支える場所も崩れていて、その身体ごと外へ引きずられていった。
「《戒鎖》!」
セレナ先生の鎖が沙耶香の胴に巻きつき、後ろへ引き戻す。
その腕の中で、アリサの身体がずれた。
「アリサ!」
伸ばした手が、アリサの右袖に届く――!
「痛ッ!」
指先に焼けるような痛みが走った。
握り込みきれなかった布が、指の間を滑っていく。
俺の身体まで外へ出かけたところで、レイナが襟を掴む。そのまま床へ引き倒され、顎を石にぶつけた。
それでも、窓の向こうから目を離せなかった。
今、アリサの身体は、夕焼けの空へ投げ出されていた。まるで時が止まったかのように、その姿が目に焼きついた。




