中央塔
中央塔へ近づくにつれて、校舎の異変がはっきり見えるようになった。
窓が誰も触れていないのに開き、閉じる。渡り廊下の先では、閉まりかけた扉を職員が身体で押さえ、その隙間から生徒たちを逃がしていた。頭上の魔力灯は赤く明滅し、そのたびに石畳へ落ちる影の濃さが変わっている。
「中央塔は、学院の結界や施錠をまとめて管理している」
走りながら、クドウ管理官が説明した。
「各棟の防火障壁、緊急時の避難経路もだ。あそこから誤った命令が出れば、逃がすべき者を閉じ込めることにもなる」
「壊れたら、また魔法が使えなくなるんですか?」
「魔力を供給している塔とは別だ」
セレナ先生が、俺の前を走りながら答える。
「お前たち自身の魔法が止まるわけではない。だが、学院の設備は、誰の指示に従うか分からなくなるだろうな」
人間の道具を学ぶために、避難経路を確かめたばかりだ。その道を開けたり閉じたりする仕組みが、今度は勝手に動いている。
さっき職員が押さえていた扉を思い出して、俺は無線機を握り直した。
中央中庭には、まだ生徒たちが残っていた。教員が塔から離れるよう誘導する中、空中連絡橋の表面を覆う光が、不規則に薄くなっている。
「橋は使うな! 地上の経路へ回せ!」
クドウ管理官が指示を出すと、近くの職員が駆け寄ってきた。
「学院長が外周の結界を維持しています。各棟の避難も進めていますが、扉の誤作動が増えています」
「中央塔へ入る。それから、ナギに無線機の予備部品がないか確認しろ。用意できるなら職員をつけてここまで持ってこさせろ。塔へは入れるな」
「承知しました」
職員が走り去ったところで、向こうからミカが駆けてきた。
「マナト! アリサちゃん、上にいるんでしょ?」
「ああ。さっき、鐘のところに見えた」
「あたしも行くじゃん」
「クゼ先輩は?」
「別棟へ移した。先生たちも一緒だから、もう大丈夫」
ミカが俺たちに並びかけるけど、セレナ先生が足を緩め、塔の上部を指した。
「カナメ、お前は外で援護しろ」
「え? あたし、また居残り?」
「上から破片が落ち始めている。避難する者を守れ。それに、中から出られなくなった場合、窓から人を運び出すことになるかもしれん」
言われて見上げると、時計盤の下で、細かな石片が壁を伝って落ちていた。地上に届く前に職員の障壁に弾かれたけど、あれがもっと大きくなれば、近くにいるだけでも危ない。
ミカは、塔と俺たちを交互に見た。
「……分かったじゃん。外は見てるから」
「頼む」
「だから、アリサちゃんのことお願いね」
いつもの軽い調子は、ほとんど残っていなかった。
◇
中央塔の正面扉では、管理部の職員が二人がかりで解除を試みていた。
扉に刻まれた魔法陣が一度暗くなり、すぐ赤く光り直す。そのたびに内部から重い金属音がして、取っ手を押していた職員が顔をしかめた。
「解錠しても、塔の内部から施錠命令が戻ってきます」
「手動解除は?」
「こちらも途中で止まっています。無理に回すと、軸が曲がる恐れが」
扉の脇にある小さな鉄板は、すでに外されていた。壁の中から突き出した取っ手が、半端な角度で引っかかっている。
ルカが、その前にしゃがみ込んだ。
「これ、動力側の金具が噛んでるんじゃねえか?」
「分かるのか?」
「避難訓練のあと、整備室で同じ型を見せてもらったからな。ちょっと、中を照らしてくれ」
俺は鞄から懐中電灯を取り出した。
白い光を差し込むと、取っ手の奥で金属の部品が小刻みに動いているのが見えた。ルカはすぐには触らず、その動きが戻る位置を確かめてから工具を選んだ。
「取っ手を支えていてください。これを外せば、魔法錠から切り離せるはずです」
職員がクドウ管理官を見た。
管理官が頷き、ルカの肩越しから内部を覗き込む。
「やれ」
ルカが工具を差し込んだ。
一度目は、金具に押し返された。二度目は深く入り、取っ手を支えていた職員の腕が、わずかに動く。
「今です。ゆっくり回してください」
重い音が壁の中に響いた。
今度は、赤い魔法陣が光り直しても、取っ手が戻らなかった。職員が扉に肩を当てると、細い隙間が開き、その向こうから冷えた空気が流れてくる。
「開いた」
思わず声が出た。
ルカは工具を抜きながら、小さく息を吐く。
「説明を聞いとくもんだな」
「俺だって、聞いてたらできたかもしれない」
「お前、あのとき懐中電灯の蓋を開けてただろ」
覚えていたか。
言い返す言葉を探す前に、セレナ先生が扉の中を確認した。クドウ管理官は入口を開いたまま固定するよう職員に命じ、俺たちを振り返る。
「ここからは離れるな。勝手に先へ進むことも禁ずる」
「お待ちください」
背後から、ナギさんの声がした。
振り返ると、管理部の職員に付き添われたナギさんとキサラギが、中庭の端から歩いてきていた。ナギさんは入口の手前で足を止め、小さな包みを職員へ渡す。
「ご用命の物です。予備の電池と、この型に使えるアンテナをお持ちしました」
職員が中身を確かめてから、俺へ差し出した。
同じ大きさの乾電池が数本と、折り畳まれた細い金属の棒。接続するための小さな金具も、一緒に包まれている。
「助かります」
「塔の中では、金属の部品や壁で信号が反射いたします。音の大きさだけで判断なさらぬよう、お気をつけください」
「はい」
包みを鞄に入れると、キサラギが俺を見た。
「無駄にするなよ」
「分かってる」
今度は、余計な言葉をつけなかった。
ナギさんたちを入口の外に残し、俺たちは中央塔へ足を踏み入れた。
◇
塔の中央は、高い吹き抜けになっていた。その周囲を石の階段が巡り、壁沿いには太い管と、魔法陣をつなぐ銀色の線が上まで伸びている。
頭上から、歯車の軋む音が聞こえた。
大きな物が動いているのに、その動きは滑らかではない。進みかけては引き戻されるような音が、石壁を伝って響いてくる。
無線機から聞こえる信号も、外にいたときよりはっきりしていた。
けれど、それだけで腕輪との距離が分かるわけじゃない。俺はナギさんの言葉を思い出し、音量を少し下げて階段へ向かった。
二つ目の踊り場が見えたところで、頭上から金属の擦れる音がした。
「下がれ!」
クドウ管理官が杖を上げる。
天井から落ちてきた鉄格子が、展開した障壁に激突した。俺たちの目の前で止まった格子は、そのまま下りようとしているらしく、障壁の表面に細い光の波を広げていた。
「通路を塞ぐ命令まで出ているな」
管理官が歯を食いしばる。
ルカは受信用の無線機をレイナに預け、壁際の装置へ向かった。俺も懐中電灯を向けたけど、光の先にある部品は、入口の物よりずっと細かい。
「すぐ開くか?」
「調べてる。もう少し右を照らせ」
俺たちが装置を確かめる間、セレナ先生は壁に杖を当てていた。
銀色の線に沿って、赤い紋様が浮かび上がる。上から流れてきた光が途中で止まり、少し戻ったあと、また同じ場所に押し寄せていた。
「面倒だな……学院の術式に、別の命令が割り込んでいる」
「それも、アリサの腕輪の影響ですか?」
「可能性が高いだろうな。正規の命令によく似せてあるが、同じではない。塔が受け入れたり、拒んだりしているようだ」
だから、扉が何度も閉じ直されたのか。
レイナの持つ無線機から、短い音が三回聞こえた。続く二つの長い音を聞きながら、俺は送信用の一台を取り出す。
「ここで、もう一度妨害を試せませんか」
クドウ管理官が、こちらを見た。
「飼育棟では、ミネウチの声が戻っただろう。だが、何が起きたかまでは確かめられていない」
「はい。だから、先生に見てもらいながら」
俺が壁の紋様を見ると、セレナ先生が頷いた。
「術式の変化はこちらで確認する。だが長くは続けるなよ。異常を感じたらすぐにやめろ」
「分かりました」
許可はもらった。すぐに送信ボタンを押す。
すると、レイナの持つ無線機から、濁った音が発せられた。規則正しかった信号が重なり、壁を流れていた赤い光が、途中で引っかかるように揺れる。
頭上で、歯車の軋みが止まった。
急に静かになった吹き抜けに、小さな声が落ちてくる。
「……マナト、様」
俺は顔を上げた。
何層もの階段と梁が重なっていて、声の主までは見えない。それでも、今度ははっきり聞き取れた。
「アリサ! 聞こえるか!」
「お姉ちゃんを……連れて、逃げてください」
叫ぼうとしているのか、かすれた声の最後だけが大きく響いた。
沙耶香が吹き抜けに近づき、手すりを掴む。
「アリサちゃんを迎えに来たんだよ! 一緒に帰るの!」
「駄目です。わたしは、また――」
そこで声が途切れた。
壁の赤い光が、一気に明るくなる。止まっていた歯車も動き出し、鉄格子が障壁を押す音が大きくなった。
「止めろ」
セレナ先生に言われ、俺は送信ボタンから指を離した。
けれど、受信用の無線機からは、さっきの信号が戻ってこない。
「レイナ、それ貸して」
受信位置を少し動かすと、別のところから音が入った。
短い音が二回、長い音が一回。
俺は、つまみの位置を確かめた。
「信号が変わりました。同じところに送っても、妨害が届かない」
「送っている者が、操作したのか?」
クドウ管理官が聞く。
「自動で切り替わったのかもしれません。でも、こっちを避ける仕組みはあるんだと思います」
合わせ直して、短く送信する。
再び壁の光が鈍った、その直後だった。
足元から突き上げられるような揺れが来た。俺は手すりに肩をぶつけ、頭上では魔力灯の覆いが割れて落ちる。
「妨害を止めろ!」
反射的に指を離した。
クドウ管理官の障壁が、落ちてきた破片を吹き抜け側へ弾く。下の階で何かが砕ける音を聞きながら、俺は手すりにしがみついていた。
「腕輪だけが動いているわけじゃない」
セレナ先生が、壁の紋様を見据えたまま言った。
「塔の中枢までつながっている。命令を途切れさせたことで、制御そのものが乱れた」
「じゃあ、妨害しちゃ駄目なんですか?」
「遠くから続けるのは危険だ。本人と接続部分を確かめてからでなければ、どこへ負担がかかるか分からん」
送信すれば、アリサが少しだけ話せるようになる。
けれど、それだけで解決できるわけではなかった。俺たちの足元まで揺れたということは、上にいるアリサも、同じ揺れを受けたはずだ。
「抜けた!」
ルカが声を上げた。
鉄格子を押していた力が弱まり、クドウ管理官の障壁が、それを少しずつ持ち上げる。
後続の職員が固定するのを待って、俺たちはその下を抜けた。
上からは、もう声が聞こえなかった。
◇
上階へ進むにつれて、石段の上に細かな破片が増えていった。
踊り場の縁が欠け、手すりの支柱が斜めになっている場所もある。さっきの揺れで傷んだのか、それ以前から壊されていたのか、俺には分からなかった。
セレナ先生が足場を確かめ、その後、俺たちは一人ずつ通った。
沙耶香は木札を鞄にしまっていた。両手を空けるためだったのだろうけど、上を見上げるたびに、その鞄の口を押さえている。
やがて、階段の先に半開きの扉が見えた。
隙間から、強い赤い光が漏れていた。壁を伝っていた紋様も、すべて扉の向こうへ続いている。
「先に入る。後ろにいろ」
クドウ管理官が扉に手をかけた。
沙耶香は何か言いかけたけど、唇を結び、レイナの隣で足を止める。
扉の向こうは、円形の部屋だった。壁沿いには歯車や制御用の魔道具が並んでいて、中央には人の背丈ほどもある水晶が据えられている。奥の大きな窓は開いていて、その先に、外から見上げた欄干があった。
そしてアリサは、水晶の前に立っている。黒い外套が窓の近くに脱ぎ捨てられていた。
左手をその表面に押し当て、身を支えるように前へ傾いていた。銀色の腕輪から伸びた赤い線が水晶の中に入り込み、床に刻まれた溝を通って、部屋の外まで広がっている。
左手首には、縄を巻いた跡が残っていた。袖口の一部が暗く染まり、水晶に触れた指も、ところどころ擦りむけている。羊小屋で見た柱の傷を思い出して、俺は思わず息を詰めた。
「アリサちゃん……迎えに来たよ」
沙耶香が一歩踏み出す。彼女の声に、小さな肩が動いた。
ゆっくり振り返った顔には、涙の跡。けどその目は、俺たちを見ても大きく開かず、誰かの顔を探そうとする様子もない。
右手だけが、こちらに向かって持ち上がった。
「構えろ!」
セレナ先生が叫ぶのと同時に、アリサの周囲に四つの魔法陣が開いた。それぞれに腕輪から赤い線がつながり、別々の色をした光が、同時に膨らんでいく。
「四つ、いっぺんに……?」
俺が言い終える前に、風が床の埃を巻き上げた。
「《障壁》!」
クドウ管理官の前に、透明な壁が広がる。
ぶつかった風は、一瞬だけ凄まじい音を立て、すぐに勢いを失った。飼育場で見たときと同じだと思った直後、その向こうから巨大な水球が押し寄せてきた。
左へ渦を巻く水が障壁に広がり、視界を覆う。
その奥で、炎の矢が大きく曲がった。障壁の端を叩いた赤い光と、三本に分かれた雷が重なり、扉の枠から石片が弾け飛んだ。
クドウ管理官の靴底が、床を擦った。
「後ろへ!」
俺はルカに襟を掴まれ、扉の外に引き戻された。沙耶香とレイナも下がり、セレナ先生がその前に立つ。
障壁の表面に、細い亀裂が広がっていった。
四つの攻撃が途切れたあとも、管理官はすぐには杖を下ろさなかった。乱れた息を整えるように一度大きく呼吸し、こちらを振り返る。
「正面から受け続けるのは無理だ。次は散れ」
障壁が、薄い光の欠片になって崩れた。
その向こうで、アリサが水晶から左手を離す。
つながっていた赤い線が細く引き伸ばされ、やがて途切れた。けれど、水晶の中にも、彼女の腕輪にも、赤い光は残っていた。
アリサが、俺たちへ向かって歩き始める。
右手の前には、もう次の魔法陣が浮かびかけていた。
「お姉ちゃん……」
唇が、わずかに動いた。
さっきまで俺たちの顔を捉えなかった目が、沙耶香のところで止まる。その目から新しい涙がこぼれたのに、持ち上がった右腕は、下がろうとしなかった。
「わたしを……止めてください」




