黒い外套
「沙耶香、離れろ!」
俺が立ち上がったときには、アリサの手が沙耶香の手首を掴んでいた。
「痛っ……!」
沙耶香が顔をしかめる。
レイナが二人の間に腕を伸ばした。その途端、アリサは床から立ち上がり、掴んだままの沙耶香を横へ振った。
「うわっ!」
レイナが受け止める。二人分の重さに椅子が倒れ、机の上の無線機が大きく跳ねた。
「電池を抜け!」
セレナ先生に言われ、俺は無線機を掴んだ。
電池を外すと、繰り返されていた音が止まるけど、腕輪の光は消えなかった。
「こっちが送ってたんじゃない……」
「同じ信号を受けていただけだ! そこから下がれ!」
クドウ管理官が、俺とアリサの間へ入る。
アリサは、沙耶香を振り回した右手を下ろしていた。さっきまで俺たちに包帯を差し出していた手だ。
その指先に、緑色の光が集まり始める。
「アリサ、止まれ!」
レイナの声で、アリサの足が止まったのはほんの一瞬。
腕輪が強く光ると、止まったはずの足が前へ滑り出す。アリサは膝を曲げ、踏ん張るように身体を傾けた。
「動くなと言っている!」
「うっ……!」
左腕が、不自然に引きつった。
右手で腕輪を押さえようとする。けれど、その手は途中で止まり、また俺たちの方へ向けられた。
「レイナ、待って!」
沙耶香が叫ぶ。
「止まろうとしてる! アリサちゃん、止まろうとしてるのに!」
レイナが口を閉じた。
アリサの腕に浮かんだ魔紋が、袖越しにも分かるほど強く光っている。
クドウ管理官が杖を上げた。
「《障壁》!」
透明な壁が広がるのと、風が放たれるのは、ほとんど同時だった。
机が床を滑り、椅子が壁に叩きつけられる。俺は床に伏せ、頭の上を飛んでいく木片から顔を守った。
面談室の扉が外側へ弾け飛び、耳の奥で風の音が鳴り続ける。
けれど、それもすぐに弱まった。さっきまで俺たちを押し潰そうとしていた風が、床の紙を転がす程度になっていく。
飼育場とクゼ先輩が襲われた廊下で起こったことと同じだ。
俺は床へ手をつき、アリサを見上げた。
「腕輪から離れた位置に、魔法陣ができている……」
思わず呟いた俺の一言に、セレナ先生が、杖を構え直した。
「確かにな……本人が杖を持っていなくても、術式を組めるようにしてあるのか……面倒だな」
「そんな……外せないんですか?」
「まず動きを止めないとどうしようもないな。お前たちは下がれ!」
先生の杖先から、細い光が伸びる。
それがアリサに届くより早く、赤い魔法陣が開いた。
炎の矢が、先生へ向かって飛ぶ。
「《水球》!」
俺の水が横からぶつかり、白い蒸気が広がった。
その向こうで、アリサの右手が沙耶香へ向く。
「アリサちゃん!」
果たして沙耶香の声が、アリサに届いたのだろうか。
俺がもう一度水を出そうとしたとき、アリサの左手が自分の右手首を掴み、その手をわずかに横へ逸らした。
火矢の左側が崩れ、炎は沙耶香の脇を通り過ぎた。背後の壁に当たり、焦げた臭いが広がった。
「今、外した……」
「聞こえてるんだよね?」
沙耶香が、アリサの手を見ていた。
アリサの口が何か言おうとしている。でも、声になる前に腕輪が光った。
右手を押さえていた左手が引き剥がされ、今度は青い魔法陣が現れる。
「下がれ!」
クドウ管理官が俺たちを押し戻した。
大きな水球が部屋の中で膨らむ。その表面には、俺とは逆向きの渦が走っていた。
「《水弾》!」
俺も水をぶつけた。
けれど、大きさが違いすぎる。こちらの水が削られ、アリサの水球は勢いを失わないまま迫ってきた。
「《衝》!」
横から、ルカの魔法が飛んだ。
扉のなくなった入口に、ルカとミカが立っていた。押された水球が壁へ逸れ、大量の水が弾け飛んだ。
「ルカ、お前まだ治療を――」
「終わったって言われただろ!」
「二人とも、廊下へ出ろ!」
セレナ先生が叫んだ。
床に広がった水の上を、光の線が走る。
「《戒鎖》!」
アリサの両腕と足に、光の鎖が巻きついた。
「っ……!」
細い体が締め上げられて、アリサの口からうめき声が聞こえた。
「悪いが、少し我慢してくれよ……!」
先生は鎖を保ったまま、左手首に別の光を伸ばす。だけど、光が腕輪へ触れた瞬間、それは赤くはじけ飛び、先生の杖先が跳ね上がった。
「解除を邪魔している……!」
そうしている間にも、アリサの腕が鎖を引き続けている。
鎖が軋み、袖口の下で皮膚が赤くなった。本人は顔をしかめながら、それでも腕を引き続けている。
「アリサ、やめろ!」
俺が叫んでも、止まらない。
「先生! 鎖を解いて! このまま締めれば、アリサの腕が折れる!」
「やむを得ん……!」
先生が鎖を緩めた瞬間、残っていた拘束が引き千切られた。
同時に、アリサの魔紋が強く光る。
クドウ管理官が出口の前へ障壁を張る。アリサは止まらず、その手前で右手を振り上げると、風が爆発した。
「《軟風》!」
飛んできた扉の破片が、廊下の壁へ流される。
助かったよ、ミカ。
だけどその間に、アリサは崩れた障壁の隙間を抜けて、入口へ走っていった。
「行かせない!」
左腕に飛びつくけど、アリサの見た目からは考えられない力で、身体ごと引きずられていく。靴底を床に押しつけても、水に滑って止まれない。
腕輪の留め具へ指をかけた途端、手のひらに痛みが走った。
「っ……!」
薄い膜のようなものが、指を押し返しているんだ。
跳ね返って壁にぶつかる直前、横から伸びてきた風が俺を受け止める。風が無ければ、全身に傷を作っていたかもしれない。
「マナト、無茶しすぎじゃん!」
ミカの声が聞こえた。
俺が起き上がる間にも、アリサは角を曲がっていた。
「先回りしろ! 西棟側へ向かっている!」
クドウ管理官が通信具へ叫ぶ。
俺たちも、その後を追った。
アリサは階段を駆け下り、連絡廊下へ飛び出す。止まる気配はまるでない。
ただ一度だけ、壁際のくぼみに手を伸ばした。使われていない配膳用の荷車が収められ、その奥には布の包みが押し込まれている。
引き出された布が、床へ広がった。
「これは……!」
黒い外套。俺が声を上げるより先に、アリサは走りながらそれを羽織った。
濡れた裾が床を擦る。深いフードが三つ編みを隠し、白いエプロンも黒い布の下に消えていった。
ついさっき、整備室で見た姿だ。
俺を掴んだ手も、ルカを支えた腕も、その下にあった。
「止まれ!」
前方にいた職員が、通路を塞ぐように杖を構える。だけどアリサは器用に壁を蹴り、その横へ跳んだ。
職員が身体を向け直すより早く、杖を持つ手首が払われる。杖が落ち、続いて足を取られた職員が床へ倒れた。
「大丈夫か!」
「追ってください!」
職員の返事を背に、クドウ管理官が走る。
黒い外套は、廊下の端にある小さな扉へ飛び込んだ。扉には、使用人通路を示す札が掛かっている。
俺たちが追いつく直前、暗い奥から白い光が走った。
「伏せろ!」
クドウ管理官の障壁へ、三本に分かれた雷がぶつかる。
眩しさが目を焼き、直後、通路の中で何かが砕けた。
重い音が重なり、入口から土煙が勢いよく噴き出した。
「アリサちゃん!」
「待て! まだ崩れる!」
レイナが、扉へ向かおうとする沙耶香の腕を掴んでいる。
「でも、中に!」
「別の入口へ回る。ここを無理に開けるな」
セレナ先生が煙の奥へ杖を向けた。
淡い光に照らされた通路は、落ちた石と配管で塞がれていた。隙間から、細かい砂が流れ続けている。
クドウ管理官は、すぐに通信具を取った。
「全職員へ。黒い外套を着たアリサ・ミネウチを捜せ。腕輪によって、行動を強制されている可能性が高い」
通信具の向こうで、聞き返す声がした。
管理官は、はっきりと続けた。
「単独で接触するな。発見した位置を報告し、周辺の生徒を退避させろ。本人の保護を優先する」
アリサの名前が、職員たちへ伝えられていく。
昨日は、クゼ先輩を襲った何者かを、そして今はアリサを捜している。
それなのに、アリサに俺たちへ魔法を撃たせている本当の黒幕が誰なのかは、まだ分からなかった。
◇
通路の確認を職員へ任せ、俺たちは管理棟の別室へ移された。
沙耶香は何度も廊下を振り返っていた。レイナも、椅子を勧められてなお立ったままだ。
そこへ、別の職員に伴われてキサラギとナギさんが来た。
「何だ? 一体、何が起きたんだい?」
キサラギの声は苛立っていた。
「アリサが襲撃者だったと聞いたが――」
「腕輪がアリサを動かしている」
レイナがキサラギを睨んだまま、はっきりと言い放った。
「お前の父親から贈られた、あの腕輪だ」
「何……っ!?」
キサラギの顔からさっと表情が消えた。
「馬鹿な……! 父上が、そのような物を贈るはずがない」
「だが実際に、目の前で起きている」
「ま、待ちたまえ。贈った物が同じだからといって、その中身まで父上が知っていたとは限らないだろう!」
キサラギが、一歩前へ出る。
「誰かが後から術式を加えた可能性は? 父上から受け取ったというだけで、すべて父上の仕業だと言うのかい?」
レイナの拳が握られたけれど、言い返さなかった。
確かに、ミツルギさんが腕輪を渡したことと、今、誰がそれを動かしているかは、まだつながっていないんだ。
「そう。それを確認するために呼んだ」
クドウ管理官が間へ入る。
「ナギ。贈呈品を運んでいたのは、お前だな」
「はい。箱をお預かりし、あの場でお渡しいたしました」
「入手先と、保管中に触れた者を聞く。二人とも、隣室で待機しろ」
「僕たちを拘束するつもりかい?」
「確認が済むまで、職員をつける」
「言い方を変えただけでは――」
「ハクア様」
ナギさんが、静かに呼んだ。
「まずは、アリサ様を見つけていただくことが先かと」
キサラギは唇を噛み、職員に促されて隣室へ入った。
ナギさんも一礼して、その後に続く。
扉が閉じきる前に、沙耶香が口を開いた。
「私も捜しに行きます」
「勝手に動くな」
クドウ管理官の返答は早かった。
「アリサちゃんは、逃げてって言いました。まだ、自分で止めようとしてたんです」
「だからこそ、無闇に近づけん。またお前へ攻撃させられるかもしれない」
「分かってます。でも……」
沙耶香が、赤くなった手首を握る。
アリサに掴まれた場所だった。
「では、見つけたら、私にも教えてください。一人で行ったりしません。だから、置いていかないで」
その隣では、レイナが沙耶香を見て、クドウ管理官へ向き直る。
「私も行く。お前たちの指示には従う」
管理官は二人を見比べ、短く息を吐いた。
「まず、行き先を調べる。それまではここにいろ」
俺は、職員が面談室から回収してきた無線機に手を伸ばした。
電池は抜かれたままだ。裏蓋も外れている。
その横には、落ちた資料と一緒に拾われた、アリサの反省録が置かれていた。
「管理官。この信号を、もう一度調べさせてください」
「何が分かる?」
「アリサの腕輪も、同じ合図に反応していました。信号の届く向きを比べれば、手掛かりになるかもしれません。あるいは、あの腕輪自体が、何らかの応答をしているかも……」
「ミネウチを探知できるかもしれない、ということか。だが、結果として命令を送っている者の方を捜すことになる可能性もあるぞ」
その場合、相手が危険な人物である可能性もある。彼はそう言外に含めているんだ。
「それでも、何もしないよりは」
管理官は、しばらく俺の手元を見ていた。
「送信はするな。まず、受信したものを確かめろ。ヤザワ、お前もつけ」
「はい」
ルカが俺の隣へ椅子を引いた。
「それには、何が要る?」
「整備室に残した工具袋。それと、無事だった方の無線機」
「持ってこさせる」
管理官が職員を呼ぶ。
俺は電池を戻し、受信のつまみに指をかけた。
雑音の向こうから声は聞こえない。
それでも、アリサが最後に言った言葉は、耳に残っていた。
逃げてください。
俺たちを遠ざけようとした、いつものアリサの声だった。
「直せそうか?」
ルカが聞いた。
俺は頷き、届いた工具袋を開いた。
「直せそう、じゃない。直すんだよ」
今度は、こっちから迎えに行く。




