扉の裏側
沙耶香は、アリサが部屋を出ていないと言った。その間、自分はその扉の前にずっと立っていたのだとも。
俺はその言葉を何度も思い返しながら、整備室の奥へ開いた隙間を見ていた。
「先の安全は確認できた。足元に気をつけろ」
クドウ管理官に呼ばれて、俺は部品棚の脇へ進んだ。
背中の痛みは、治療を受けて随分ましになっている。ただ、ルカはもう少し診てもらう必要があるらしく、整備室に残されていた。
沙耶香たちは別の職員とともに、リネン室へ戻っている。待っていた位置や、アリサが出入りした扉を確認するためだ。
「こんなところにも、通路があったんですね」
「図面には、壁の向こうに通路があると記されている。が、整備室へつながる出入口は載っていなかった」
入口側を見張っていても、これでは意味がない。
俺たちを守っていた職員が支え続けていた重い金属棚を思い出した。何かが少し違っていたら、あの下に俺たちがいたかもしれない。
通路の床には、水の跡が残っていた。
靴底の形を保っているものもあれば、点々と垂れただけのものもある。俺と襲撃者の水球がぶつかったとき、外套の裾も濡れていた。
セレナ先生が先を照らし、その後ろを管理官と俺が歩く。
低い配管をくぐり、狭い角を曲がると、先行していた職員が立っていた。
「水の跡は、ここまで続いています」
示されたのは、木板で塞がれた行き止まりだった。
壁際の溝に指を入れ、板を少し持ち上げてから横へ滑らせる。開いた隙間の向こうには白い布がぎっしり積まれていた。
職員が布を脇へ寄せると、その間から見覚えのある顔が現れる。
「……マナト? どうして、そこから?」
「沙耶香?」
しばらく彼女の顔を見つめた後、俺はぐるりと部屋の中を見回した。
高い棚に並んだシーツと、畳まれた枕カバー。正面の扉のそばには、レイナとミカ、それにアリサが立っている。
「ここが、リネン室?」
「この裏口を知っていたか?」
一緒に出てきたすぐさまクドウ管理官が問う。相手はもちろん、戸惑っているアリサだ。
「はい。板があることは存じておりました。ですが、開くとは思っておりませんでした」
アリサは布の山を見つめた。
相手はさっきこの部屋へ戻ったときにも、その前を通ったのだろう。
「私は、あそこにいました」
沙耶香が正面の扉を指す。
「アリサちゃんが布を探している間、ずっと。出てきたら見えたはずです」
けれど、奥の棚は高い。扉の前からでは、その裏で何をしているかまでは見えなかった。
「ここから整備室まで、どのくらいかかる?」
レイナの質問に、管理官が即答した。
「普通の廊下より、かなり短いが……これから測る」
「なら、俺が行きます」
言った途端、セレナ先生に肩を押さえられた。
「お前は座っていろ。さっき背中を打っただろう」
「もう痛くありませんけど」
「痛くなくなったら、何をしてもいいと思うな」
反論する前に、近くの箱に座らされた。
代わりに職員が通路へ入り、整備室にいるルカたちと無線機で連絡を取りながら、行き来にかかる時間を確かめた。
結果は、往復で一分十数秒。
アリサがこの部屋へ入っていたのは、およそ四分だった。
そして襲撃の時間は、二分ほど。
「通報の時刻とも、大きな差はない」
「でも、それだけで決められるわけじゃないですよね!」
沙耶香の声が硬くなる。
「アリサちゃんが走ったところを見たわけでもないし、着替える時間だって必要です」
「ああ。ただ、七分かかる廊下を往復するしかない、という前提は崩れた」
俺にも……いや、とくにアリサと沙耶香には、この言葉が死刑宣告にも聞こえたかもしれない。
アリサが、レイナの方を見た。
いつもの、許可を求める目とは違っていた。
「お嬢様……わたしは、整備室へ行っておりません」
「分かっている」
「では、なぜ……」
レイナは、すぐには答えず、代わりにクドウ管理官に顔を向ける。
「管理官。まだここで話を続けるのか?」
「場所を移そう」
廊下では、行き交う生徒の何人かが足を止めていた。職員に促されても、野次馬は増えるばかりだ。
レイナはアリサの手を取り、扉の方へ歩き出した。
「確かめるなら、私も聞く」
◇
管理棟の小さな面談室には、俺たちが座れるだけの椅子が用意された。
アリサの右にレイナ、左に沙耶香。俺は少し離れた席に座り、クドウ管理官とセレナ先生が机を挟んで向かい合う。
ミカと、治療を終えたルカは、隣の待機室にいる。
「アリサ・ミネウチ」
管理官の声に、アリサの背筋がびくっと震えた。
「襲撃者と、お前の行動が重なる部分がある。今から、それについて確認する」
「……わ、わたしが、皆様を襲ったと疑われているのでしょうか?」
「その可能性も調べている」
アリサの手が、膝の上で強く握られた。
「そんなこと、いたしません」
「お前が望んで襲ったと決めたわけではない。覚えていることを、順番に話せ」
管理官が、机にリネン室の簡単な図を広げた。
「まず、部屋へ入ってからだ」
「右の棚から、シーツを取りました。上から三段目の、白いものです」
「何枚だ?」
「に、二枚です。間に枕カバーが挟まっていたので、そちらを戻して……」
アリサが言葉を探す。
「それから、畳み直して、お姉ちゃんのところへ戻りました」
「その途中で、誰かの声を聞いたか?」
「いいえ」
「棚の裏で物音は?」
「……覚えておりません」
俺は、床に落ちた無線機から鳴った音を思い出した。
短い音が三回、長い音が二回。あの音がした直後、黒い外套の相手は、また俺へ向かってきた。
「昨日、クゼと別れた後は?」
管理官が質問を続ける。
「水差しを、配膳室へお返ししました」
「歩いた道は分かるか?」
「はい。手帳に、記録があるのです」
鞄を開いたアリサは、赤い表紙の手帳を脇へ寄せ、その下から使い込まれた一冊を取り出した。
表紙には、『反省録・第十二巻』。何度かページをめくり、通路を描いたところを机に広げる。
「正面の廊下を通るより、こちらの方が早く着きます」
アリサの指が、細い線をたどった。
クゼ先輩と別れた場所から、配膳室へ。そして、その途中で道が分かれている。
「この分岐の先は?」
「西の連絡廊下へ出ます」
クゼ先輩が襲われた場所だった。
「水差しを返しに行ったとき、誰かと会ったか?」
「配膳室で、職員の方と」
「そこまでの間は?」
アリサの指が止まった。
「……どなたとも、お会いしておりません」
昨日も今日も、アリサの行き先は分かっている。ただ、その途中で何をしていたかを、ずっと見ていた人はいない。
「道があるだけだ。通ったと決まったわけではない」
そう進言するレイナ。だけど彼女の口調には、どこか焦りも感じられた。
「そのとおりだ。アズマ。侵入者が使った魔法について説明しろ」
皆の視線が、一斉に俺へ集まってくる。
俺は一度息を吸い、アリサと沙耶香を見てから口を開いた。
「襲撃者の魔法が、アリサの使ったものと似ていたんだ」
「わたしの、魔法と?」
「最初だけ強く吹く風と、左から崩れる火矢。それから、今日の水球と雷も」
アリサは何も言わなかった。ただ、俺を見る目が、少しずつ見開かれていく。
「俺の水球とは逆向きに回ってた。雷は、毎回三本に分かれた」
「ですが……同じ魔法を使う方は、ほかにも……」
「いる」
セレナ先生が答える。
「他人の術式を記録し、似た形を作る方法もある。だから、魔法だけでお前だと決めたわけではない」
「なら……」
「ただ、本人の意思とは関係なく、魔法を使わされる場合もある」
沙耶香の手が、アリサの肩に触れた。
昨日、アリサ自身が言っていたことだ。自分のしたいことと、しなければならないことが、別なのかもしれない、と。
今はその本人が、何を言われているのか分からないように、俺たちを見回している。
「わたしが、覚えていないだけなのですか?」
「それも、まだ分からない」
セレナ先生は、机の上の手帳を閉じた。
「分からないから、身体に異常がないか確かめたい」
アリサが俯いた。
「……申し訳ございません」
「何を謝る」
レイナの言葉にも、アリサはただ首を振るばかりだ。
「分かりません。でも、もし、わたしが……」
「まだ分からないことまで、お前の失敗にするな」
レイナは、握り締められたアリサの手に触れた。
「話を聞く。調べてもらう。今は、それでいい」
アリサが小さく頷くまで、レイナはその手を離さなかった。
そのまま数秒。それはきっと、クドウ管理官がアリサに与えた猶予なのかな。
「襲撃者の手首に、銀色の輪が見えたとアズマが証言している」
沙耶香が顔を上げた。
「あの腕輪ですか?」
「同じ物かは分からん。だから確認する」
管理官の発言が終わるよりも先に、アリサが袖口のボタンを外した。すると白い腕が現れ、その手首に青い石を埋め込んだ銀の輪が見えた。
視察の日から何度も見ている。アリサがお守りをもらって、嬉しそうに頭を下げたところも。
「ミツルギさんからいただいた物です。私たちも、その場にいました」
「承知している」
管理官は、腕輪へ顔を近づけることはしなかった。しばらく凝視して、その目線をアリサの顔へ移す。
「それを、外したことは?」
「ございません。お守りですので、つけていた方がよろしいかと」
「痛みや、熱を感じたことはあるか?」
「……そういえば、時々少し温かくなります」
「どんな時だ?」
「……気づいたときには、収まっておりますので」
声が、だんだん小さくなる。
「わたしが失敗しないように、守ってくださっているのだと思っておりました」
誰も、その言葉を笑わなかった。
セレナ先生が、椅子をアリサのそばへ寄せる。
「一度、外して調べよう。留め具はここか?」
「はい」
アリサが右手の爪を、小さな留め具にかけた。けど、動かない。
指をかけ直し、反対側から押してみる。銀の輪は手首に収まったまま、わずかにも開こうとしなかった。
「あれ……?」
「無理に引くな」
セレナ先生が止めた。
彼女の杖先から細い光が伸び、留め具の周りをなぞる。
淡い光に怯えた表情を浮かべながら、アリサが隣にいる沙耶香を見上げた。
「お姉ちゃん。これ、壊してしまうのでしょうか」
「まず、外せるか見てもらおう」
「ですが、いただいた物なのです」
「腕を傷めてまで、つけてなくていいよ」
「必要なら、私から説明する」
レイナも、アリサの肩に手を当てている。二人に触れられて安心したのか、ようやくアリサは「……はい」と首を縦に振った。
そしてようやく、セレナ先生の杖が止まった。
銀の表面に、薄い線が浮かび上がっている。護符の模様を縁取るように見えたそれが、途中で折れ曲がり、別の線に重なった。
「どうした? サキモト」
「これは……面倒な細工をしてあるな。表の術式だけじゃない。下に、別のものが重ねられている」
「ふむ。解除できるか?」
「このまま無理矢理実行したくはないな。まずは、このラインがどこへつながっているのかを確かめてからだ」
その様子を見守っていると、腕輪の内側で何かが赤く光った気がした。
今のは見間違いだろうか。
そしてその直後、通路の確認に使っていた無線機が、机の上で雑音を吐いた。
『ピ、ピ、ピ……ピー、ピー……』
「これって……」
また同じ音だ。
セレナ先生が杖を引いても、腕輪の光は消えなかった。
そして。
「うっ……!」
「アリサちゃん?」
アリサは、左腕を胸元へ引き寄せる。右手で腕輪を押さえ、身体を小さく丸めた。
「痛むのか?」
レイナが肩を支える。
アリサの指が、銀の輪を掻いた。アリサは苦しげな表情を浮かべ、その手で必死に腕輪を外そうとしている。
「取れ……ません……」
「触るな。こちらで――」
先生の声を遮るように、椅子が床を擦った。
アリサの身体が前へ折れ、膝が床につく。
「アリサちゃん!?」
もはや沙耶香の声は悲鳴だ。
アリサの全身が痙攣し、小刻みに震え続けている。にもかかわらず、彼女の腕は必死に腕輪を外そうとしていた。
「取れない! 取れないのです! 何です!? 体が変な動きを続けているのです!」
「アリサちゃん! 落ち着いて!」
「おい、どうしたアリサ!?」
「お嬢様……お姉ちゃん……!」
アリサが、二人の袖を掴んだ。縋りつくような手だったのに、次に出た言葉は違った。
「お姉ちゃん……逃げて、ください」
「何言ってるの。置いていけるわけ――」
袖を握る指がほどけた。
一瞬だけ、アリサの手が二人から離れる。
けれど、その腕は再び持ち上がった。今度は袖ではなく、沙耶香の手首へ向かって。
顔を上げたアリサからは、さっきまでの怯えも、痛みをこらえる表情も、消えていた。




