閉ざされた避難路
人間世界を見学するために、俺たちは学院の中で遭難した。
事の始まりは、今朝のホームルームだ。
「本日の授業は、避難訓練だ」
教壇に立ったセレナ先生は、始める前から面倒そうだった。単語を一つ言うごとに一回ため息をつきながら、彼女は説明した。
「ただし、魔法の使用は禁止。照明、通信、扉の開閉も含め、魔法が使えない状況を想定する。南訓練棟から中央中庭まで、班ごとに移動しろ」
「それって、この前の事件みたいな感じ?」
ミカが手を挙げた。
「そうだ。学院の設備は、中央魔力塔からの供給が止まると、その大半が使えなくなる。人間社会実習の審査でも、安全対策として指摘された」
教室の後ろには、記録係としてクゼ先輩が立っている。
各班へ配られたのは、紙の地図と笛。そして、小さな筒形の照明だった。ん? これって……
「懐中電灯だ!」
俺が突起を押すと、先端から白い光が出た。もちろん、オンオフを繰り返せば、そのたびに光も点いたり消えたりする。
「うおお! しかもこれ新品だ! 光もこんなにはっきり……ぐああああっ! 目があああっ!」
「懐中電灯の光を覗き込まないでよ!」
「う、動くか確かめただけだよ」
「三回も?」
「三回とも動いた」
「一回で分かるでしょ!」
そしてもう一つ、班ごとに携帯無線機が渡された。
俺のラジオとは違い、離れた相手にこちらの声も送れる人間の機械だ。対になる一台は中庭で待つクドウ管理官が持っている。
これも当然のように新品。傷一つない。なんか興奮してきた。
「アズマ」
セレナ先生が俺を指す。
「通じなくても、その場で分解するなよ」
「しませんよ。多分」
「お前の多分は信用できない」
「ええ……あの、それ……授業中に流行らせないでもらえます?」
「私も使わせてもらうと言っただろ?」
ぐぬぬ……口癖にいちいち突っ込まれていたらやっていられないのに。
「昼間の校舎で、そんな玩具を持ち歩く必要があるのかい?」
キサラギが懐中電灯を眺め、鼻を鳴らした。
「窓から光が入るだろう? それに照明魔法がなくても、目を開ければ前は見えるじゃないか?」
「地下には窓がないじゃん」
とミカが言う。
「僕なら、暗い場所へ入る前に使用人へ確認させるね」
「使用人が戻らなかったらどうする?」
今度はレイナだ。
「別の使用人を向かわせればいい」
「うわ、最低じゃん」
「適材適所と言いたまえ」
その横で、アリサが真剣な顔をしている。
「では、わたしが先に確認した方がよろしいでしょうか」
「必要ない」
レイナが即答した。
「これは避難訓練だ。お前も自分が避難することを考えろ」
「承知いたしました!」
アリサ、本当に分かっているかなあ。
俺がそう思ったことはレイナにも伝わったのだろうか。彼女も浮かない顔でアリサを見つめている。
◇
そうして、訓練が始まった。
俺たちの班は、俺、沙耶香、ルカ、ミカ、レイナ。それに、レイナから離れられないアリサも同行する。
キサラギは別の班だったけど、すぐ後ろから出発していた。
南訓練棟の二階から、壁に貼られた矢印と紙の地図を頼りに進んで、中央中庭まで出る行程だ。
「点く。消える。点く」
「遊ぶな」
ああっ! 俺の懐中電灯が!
「ルカのド外道!」
「そこまで言われるとは思わなかったぜ」
そのままルカは、懐中電灯を持って俺から離れていく。
「第一、そんなに付けたり消したりして何の意味があるんだよ?」
「動作確認」
「さっき教室で済ませただろ」
「場所が変わっても動くかどうかを」
「動くに決まってんだろ」
「魔法陣は場所によって調子が変わることもあるぞ」
「これ懐中電灯だから、電池があればどこでも動くわよ」
おお、沙耶香。それが一番すごいんじゃないか。
「アリサちゃん、それ逆じゃん」
ミカが、アリサの持っている地図を指でなぞっていた。見ると、確かにアリサは地図を上下逆に持っている。
「あ、なるほど! 歩くたびに目的地が遠ざかっていくと思っていたのです!」
「その発想はなかったじゃん! 地図の中の目的地は動かないし」
「む、難しいのです……」
どうやらアリサは地図が苦手らしい。でも廊下の曲がり角では迷わず先を見ている。
「この先は階段です。足元へお気をつけください」
「地図を見なくても分かるの?」
沙耶香が尋ねる。
「先日、お茶を運ぶ際に通りましたので」
「あー、歩いた道は覚えてるんだ」
「一度通った場所でしたら、おおよそは」
こりゃあ、地図より本人の方が役に立ちそうだな。
この建物の東階段の先には、中央棟へ続く二枚扉がある。ここを抜ければ、中庭まで残り半分ほどだ。
先頭を歩いていた生徒が取っ手を押した。
「あれ?」
どうやら、扉は開かないようだ。
引いても、もう一度押しても動かない。
「退きたまえ」
後ろの班から、キサラギが前へ出た。
「全く。扉の開け方まで分からないのかい?」
取っ手を握り、引く。開かない。
「……む?」
両手で引くけど、やはり開かない。
「……建てつけが悪いね」
「顔、赤くなってるじゃん」
「黙りたまえ! 普段ならこんなもの、開錠魔法の一つで簡単に開けられる!」
「それができない場合の訓練じゃん」
「ミカ・カナメ! 君は本当に……!」
「いや、これは建てつけじゃねえな。向こう側で何かに引っかかってる」
いつの間にか、ルカも扉を調べていた。何度か扉のあちこちを叩いて、そう結論を下している。
立ち止まった二つの班が、狭い廊下で重なった。
後ろにいる生徒には、扉が開かないことが伝わっていない。そのまま進もうとして、前の生徒へぶつかる。
「おい、押すな!」
誰かが声を上げた。その声でさらに人が動き、俺の背中にも肩がぶつかった。
前後から身体を挟まれる。
「ちょっと、下がって!」
沙耶香の声も、騒ぎに埋もれた。
クゼ先輩が笛を持ち上げようとするけど、周囲の生徒に押されて腕を動かせない。
「皆様、止まってください!」
アリサの声が、廊下の端まで突き抜けた。
普段の元気な大声とは違う。遠くまで届くよう、腹から真っ直ぐ出した声だ。
「前の扉が開きません! 後ろから押さず、その場で止まってください!」
生徒たちの動きが、一瞬止まる。
「後ろの方から、一歩ずつお下がりください! 前の方は動かなくて大丈夫です!」
アリサは、自分の周りにいる生徒を先に一歩下がらせた。それを見た後ろの生徒も続く。少しずつ間隔が開き、押されていた身体が軽くなった。
ようやく腕を動かせるようになったクゼ先輩が、笛を三回鳴らす。
「全員、その場で停止してください! 別の経路を確認します!」
廊下が静かになった。
「助かったよ、アリサさん」
「皆様が止まってくださったからなのです」
「でもよく、あんな状況で声が出たね」
沙耶香が聞く。
「群れが狭い門へ集まったときも、後ろから押させないようにするのです。羊とは違いますが、今は同じように見えました」
「僕たちを羊と一緒にしないでもらいたいね」
キサラギが制服を直しながら言う。
「お前も言われたとおり下がっていただろう」
「後ろの者へ手本を見せただけだよ」
レイナの指摘にムキになっているけど、絶対に違う。
俺は携帯無線機の送信ボタンを押した。
「こちら南訓練棟。東階段の扉が開きません。聞こえますか?」
管理官につながっているとの話だったけど、実際には機械からは雑音だけが返ってくる。
「あ、あれ?」
「壊れてるじゃん?」
「そうなのかな? もしかしたら、電波が届きにくいのかも」
「分解するなよ」
「しないって。少し戻って試す」
他の班をかき分けて階段の途中まで戻って、もう一度呼びかける。
今度は雑音の向こうから、途切れた声が返ってきた。
『こちら……中央中庭。状況を……報告しろ』
「東階段の扉が開きません。複数の班が止まっています。怪我人はいません」
『東階段は……今朝、開放を確認している。訓練で封鎖する予定もない』
クゼ先輩の顔から、表情が消えた。
「予定外の異常ですか?」
『その可能性がある。無理に開けるな。来た道を戻れ』
でも、今狭い階段から戻ろうとすれば、また列が詰まる。
クゼ先輩が地図を広げ、別の経路を探す。
「困りましたね。ここからどう移動すれば……」
「それでしたら、使用人用の通路があるのです」
アリサが、廊下の隅にある小さな扉を指した。
「この先から、中央棟の裏手へ出られるのです」
「え? そんな道、地図には載ってないよ」
「一般の生徒が使う通路ではないのです。正面廊下より狭いですが、一人ずつなら通れます」
アリサはクゼ先輩へ向き直った。
「わたしが先頭に立ちます。こちらを使わせていただけませんか?」
今度も、レイナにも沙耶香にも聞かない。道を知っている自分が、どうすればいいかを考えていたんだ。
クゼ先輩は携帯無線機を受け取る。
「クドウ管理官。使用人通路を使っても構いませんか?」
『了解した。安全を確認しながら、一班ずつ移動しろ』
「分かりました。アリサさん、お願いします」
「はい!」
アリサが案内してくれた小さな扉の先は、確かに一人ずつしか進めないほど狭い。
アリサが懐中電灯を持ち、先頭を歩く。
「二段下がります!」
「次の角を左です!」
「頭上に配管がございますので、お気をつけください!」
後ろまで届くよう、曲がり角ごとに声を送る。
途中、ミカが頭をぶつけた以外は問題なく、俺たちは中央棟の裏手へ出ることができた。
「痛いじゃん……まさか上を向いたら、足元の段差に引っかかったんだって」
「両方を見る必要があったのです……!」
「目は別々に動かないからね」
予定より八分遅れたけど、それでも被害はミカの頭にできた小さなたんこぶだけだった。
◇
訓練は一度中断された。
クドウ管理官とセレナ先生が、開かなかった扉を中央棟側から確認する。俺たちも、最初に異常を発見した班として同行した。
原因は、すぐに分かった。
二つの取っ手が、太い鎖で結ばれていたんだ。しかも中央には金属製の錠までかけられている。
「これでは、反対側から開くはずがありません」
沙耶香が言う。
「しかし今朝確認した際には、鎖などありませんでした」
クゼ先輩の声が硬くなる。
クドウ管理官は手袋をはめ、鎖を調べる。
「魔力反応はない。鎖も錠も同じだな」
「昨日の脅迫状と関係があるんでしょうか」
「いや……まだ決めつけるな。見ろ」
クドウ管理官が指さした先、鎖の結び目には、小さく折られた紙が挟まっている。
その紙には、太い黒字で一文だけ書かれていた。
『人間に頼れば、道を失う』
誰も口を開かない。もう、警告は紙の上だけの話じゃなくなったんだ。
「……おいおい、随分と僕を見ている者がいるね」
キサラギが冷たい声で言った。
周囲の生徒が、気まずそうに視線を逸らす。
「僕が実習へ反対しているから、これも僕の仕業だと言いたいのかい?」
「誰も、まだそうは言ってないでしょ」
沙耶香が答えた。
「どうだか。昨日も言ったが、僕なら意見は正面から述べる。こんな安物の鎖で生徒を閉じ込める趣味もない」
「鎖の値段は関係ねえだろ」
「品性は使う道具にも表れるんだよ」
腹は立つが、キサラギの反対意見は学院中に知られている。そんな中で、わざわざ自分に疑いが向く言葉を残すだろうか。
そう思わせるために、あえて残した可能性もあるけど。
「クゼ」
クドウ管理官が呼んだ。
「人間社会実習の準備から外れる意思はあるか?」
クゼ先輩は、鎖に挟まれていた紙を見る。
「ありません」
「怖くないのか?」
「怖いです。だから、一人では動きません」
昨日、アリサに話したことと同じだった。
「管理部へ相談し、必要なら護衛も受けます。それでも、脅されたことだけを理由に準備をやめるつもりはありません」
「分かった。今日から、実習準備中は必ず誰かと行動しろ」
「はい」
クドウ管理官は証拠の紙を袋に収めた。
「脅迫だけなら悪質な意見で済んだが、今回は実際に避難中の生徒を危険へさらしている」
誰も大きな怪我をしていないし、魔法も使われていない。壊された物も、ほとんどない。
それでも、昨日までとは違う。
「学院内に、実習を止めるためなら、他人が傷ついても構わない者がいる」
開かなかった扉からは、鎖が外されている。
向こう側には、もう何もないのに、俺にはその暗い廊下の奥から、まだ誰かに見られているような気がした。




