お疲れ様会
「それでは、本日はありがとうございました!」
アリサが深々と頭を下げ、共用談話室の出口へ向かった。
「待って待って。どこ行くの?」
沙耶香が、三つ編みに手を伸ばしかけて呼び止める。
アリサは扉の前で振り返った。
「皆様から『お疲れ様』と言っていただきましたので、失礼しようかと」
「お疲れ様会は、今から始まるんだよ!」
「終わりのご挨拶ではないのですか?」
「だったら『会』をつける意味がないでしょ!」
視察から一日が過ぎた。
今朝、学院には、人間社会実習の準備を続けてもよいという仮の許可が届いた。
実施時期も行き先も決まっていないけど、完全な中止ではない。明日には、生徒向けの説明会も開かれるらしい。
そこでミカが言い出したんだ。
『実習準備の再開と、アリサちゃんの初仕事をまとめて祝うじゃん!』
準備期間は、昼休みから放課後まで。
会場は、男子寮と女子寮の間にある、一階の共用談話室の一角。
長机の上には、厨房から分けてもらった焼き菓子や、小さな果物のタルトが並んでいる。
紙を切って作った飾りが窓辺に吊され、真ん中にはミカの字で『おつかれさまなのです!』と書かれていた。
「どうして、ミカまで『なのです』になってるの?」
「アリサちゃんのお疲れ様会だからじゃん」
「わたし、そのような決まり文句を持っているのでしょうか」
「持ってると思うよ」
「そうなのですか……」
自覚はなかったらしい。
「とにかく、アリサちゃんはこっち」
沙耶香が椅子を引いた。
「今日は主役なんだから、座ってて」
「主役とは、何をする役目でしょうか」
「食べたり、話したり、楽しんだり」
「皆様へお茶をお出しするのは?」
「しなくていいよ」
「お菓子をお配りするのは?」
「それもしなくていい」
「食器の片づけは?」
「あとで全員でやるから」
質問を重ねるたび、アリサの勢いがなくなっていく。
「では、わたしは何をすればよろしいのでしょうか」
「だから、楽しんでればいいの」
「何もせずにですか? そのような難しいことを、いきなり……」
魔法生物実習ではグリフォンに連れ去られながら四つの魔法を覚えて、昨日の教育審査会では途中で茶をこぼしても、最後まで仕事を続けた。
そんなアリサにとって、椅子へ座って何もしないことの方が難しいらしい。
「いいから座れ」
ずっとアリサの隣で控えていたレイナが椅子を指した。
「ですが、お飲み物が――」
「私から命令……いや、違うな」
レイナは言いかけた言葉を飲み込んで、わずかに顔を背けた。
「隣で、一緒に……食べてくれ。これは……命令ではなく、私の頼みだ」
「お嬢様の、お願い、なのです……?」
「何度も言わせるな。席は空けてある」
「アリサちゃんが、この会にいたいなら座るの」
「わたしが……」
アリサは一度立ち上がり、空いた椅子と、机を囲んでいる俺たちを交互に窺った。
レイナは何も言わないし、沙耶香も答えを急かさなかった。
アリサはもう一度、椅子へ目を落とす。
「皆様と、ご一緒したいです」
そう言って、自分で椅子へ座り直した。
「それじゃ、改めて始めるじゃん!」
ミカが果実水の入ったコップを持ち上げる。
「アリサちゃんの初仕事と、人間社会実習の準備再開を祝って――」
「まだ仮許可」
沙耶香が訂正する。
「えーこほん。準備再開の準備を祝って!」
「余計に分かりにくくなったぞ」
ルカのツッコミに、ミカは「あー」と目を泳がせた。
「もう何でもいいから、乾杯!」
「乾杯!」
俺たちもコップを重ねる。
アリサだけが一拍遅れて、周囲の動きを真似するようにコップを持ち上げた。
「か、乾杯なのです!」
果実水で喉を潤すと、アリサは空になった自分のコップを置き、早速立ち上がろうとした。その視線が水差しへ向かうより先に、レイナが取っ手を掴む。
「お代わりをお持ちします!」
「ここにある」
レイナはアリサのコップへ果実水を注いだ。座ったまま受け取れば済むはずなのに、アリサは慌てて両手を伸ばし、水差しまで引き取ろうとしている。
「お嬢様に、そのようなことをしていただくわけには」
「傾けるだけだ。お前は飲め」
「あ、レイナ。私も少し欲しいじゃん」
「俺も」
ミカに続いてコップを差し出すと、レイナは俺たちと水差しを交互に見た。それでも注いでくれたので礼を言うと、今度は空になった皿が目に入ったらしく、片手で机の端へ寄せ始める。
「ねえ、レイナ」
沙耶香が水差しを受け取った。
「自分の分、まだ飲んでないでしょ」
レイナの前には、乾杯のときからほとんど減っていないコップが残っていた。ミカがそれを見て、小さく吹き出す。
「アリサちゃんが座ったら、今度はレイナが働いてるじゃん」
「お前たちが頼んだのだろう」
それは、その通りだった。俺は寄せられた皿を引き取り、ミカも焼き菓子の皿をレイナの前へ押し出す。ようやくコップを持てたレイナを、アリサが何だか誇らしそうに見つめていた。
「お嬢様、とてもお上手なのです!」
「褒めるな」
アリサは嬉しそうに果実水を飲んでいる。今のところ席を立つ気配はないので、次は食べ物を勧めてみることにした。
ミカが空になったコップを机へ置いた時、アリサの腰が反射的に浮いて、立ち上がる寸前で止まった。
空のコップを見て、自分の椅子へ目を落とす。
しばらく迷った末、アリサは何も言わずに座り直した。
「……今のは?」
沙耶香が聞く。
「お代わりをお持ちしようとしました」
「うん」
「ですが、今は休む時間なのです」
アリサは両手を膝の上へ置き直した。
「ですので、自分で座りました!」
「そこまで胸張って報告することかなあ」
それでも、沙耶香は少し嬉しそうだった。
とりあえず、食べ物があれば、しばらくは大人しくなるかもしれない。
「ささ、アリサ。どれ食べる?」
俺が促すのは、机のタルト。苺、杏、木苺の三種類が一つずつ残っている。
アリサは三つを見比べた。
ほんの一瞬もレイナへ答えを求めることなく、苺のタルトへ手を伸ばす。
「では、苺をいただきたいです!」
迷いのない返事だ。
皿へ取ろうとしたとき、袖口から銀色の腕輪が覗いた。
「あ、それ、昨日もらったお守りじゃん」
ミカが気づいた。
「はい。初めてのお仕事を、最後まで務めた記念なのです」
アリサは腕輪を持ち上げて見せた。
中央に埋め込まれた淡い青色の石が、窓から入る夕日を反射する。つまり、初仕事の報酬ってことだ。
「似合ってるよ」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに答えたアリサは、苺のタルトを自分の皿へ載せた。
「いただきます!」
「元気だねえ」
一口食べると、アリサの頬が緩んだ。
よし。座ったまま楽しむ、という難題も、これなら何とかなりそうだ。
「フン。随分と浮かれているね」
そこで、聞き慣れた嫌な声がした。
談話室の入口に、キサラギが立っている。その後ろには、いつものようにナギさんも控えていた。
「アンタ、何しに来たの?」
沙耶香が早速嫌そうな顔をする。
「ここは共用の談話室だ。僕がいつ入ろうと自由だろう?」
「こんな一角まで、なんでわざわざ足運んできたんだって言ってんの」
沙耶香の言葉を無視して、キサラギは室内の飾りを見回す。
「仮の許可が出ただけで宴会とは、随分と気が早い。審査会が最終的に認めるとは限らないのだよ」
「これはアリサちゃんのお疲れ様会でもあるじゃん」
「父上へ茶をかけた慰労会かい?」
アリサの手が止まった。
「ハクア」
レイナの声が低くなる。
「おっと。僕はれっきとした事実を言っただけだよ」
「その事実には続きがあるだろ。アリサは、そのあと新しい茶を出して最後まで仕事を務めた」
「失敗しなかったことにはならない」
沙耶香が口を開きかける。
けれど、その前にアリサがフォークを皿へ置いた。
「はい」
自分からキサラギへ向き直る。
「わたしは、ミツルギ様へお茶をこぼしました」
「おや。自分で認めるのかい?」
「はい。反省録にも記しました」
アリサは胸を張るでも、俯くでもなかった。
「ですが、そのあと、新しいお茶をお出しすることはできました」
食べかけの苺のタルトへ一度だけ目を落とし、またキサラギへ向き直る。
「昨日のお仕事は、失敗もいたしました。でも、全部が失敗だったわけではないのです」
今度は、誰もアリサの代わりに答えなかった。
「それに、ハクア様にも感謝しております」
キサラギが目を見開いた。
「僕に?」
「はい。練習のとき、急に茶葉を変えるようお願いされました。あのとき考える練習をしたので、本番でも、次に何をすればよいのか考えられたのです」
「僕は君の訓練へ協力したつもりはないよ」
「それでも、ありがとうございました!」
アリサが頭を下げる。
キサラギは、明らかに言葉を失っていた。嫌味をそのまま礼へ変えられるとは思っていなかったんだろうな。
「ハクア様」
ナギさんが穏やかに促す。
「お礼を受けた際には、素直に受け取るものかと」
「……ええい、分かっている」
キサラギは顔を背ける。
「最低限の対応ができたことは認めよう。だが、それだけだ」
「はい!」
「なぜ嬉しそうなんだい?」
「認めていただきましたので!」
「君は本当に、話しにくいな……」
だったら嫌味を言わなければいいのに。素直に話せば、素直に返してくれるのに。
「せっかくだから、キサラギも食べれば?」
俺が空いている椅子を引く。
「断る。僕は祝いに来たわけではない」
「でも、さっきから帰らないじゃん」
「今来たばかりだ!」
「でしたら、こちらをどうぞ」
アリサが杏のタルトを差し出した。
「甘さが控えめなので、ハクア様も召し上がりやすいと思います」
「僕の好みを勝手に決めないでもらいたいね」
「甘い物は、お嫌いでしょうか」
「嫌いとは言っていない」
「では、どうぞ!」
「……ふん、仕方ない。食べ物を残すのも品がないからね」
キサラギは椅子へ座った。
「最初から食べたかったんじゃん」
「黙りたまえ」
結局、ナギさんの分も含め、二つの椅子が追加された。
◇
「アリサちゃん、それ何書いてるの?」
会が始まって三十分ほど経った頃。
アリサは苺のタルトを食べ終え、例の小さな手帳へ何かを書き込んでいた。
「これは本日の反省なのです」
「お疲れ様会でも反省するの?」
「開始直後に帰ろうとしてしまいました。また、お代わりをお出ししようとして三回立ち上がりました」
「そんなことまで書かなくていいよ」
「ですが、忘れてしまえば、同じ失敗を繰り返すかもしれません」
手帳の表紙には、『反省録・第十二巻』。
中には、この学院へ来るより前から積み重なった失敗が書き詰められていた。
「アリサちゃんって、できたことは書かないの?」
「できたこと、ですか?」
「反省録には、失敗しか書いてないんでしょ」
「はい。反省するための手帳ですので」
「だったら、別の手帳を作ればいいんじゃない?」
沙耶香が鞄から、一冊の小さな手帳を取り出した。
苺に近い赤色の表紙で、まだ何も書かれていない。
「これ、人間世界から持ってきたんだけど、今日渡そうと思っていたの」
「これをわたしに、ですか?」
「うん。失敗したことだけじゃなくて、できたことも残しておけばいいでしょ」
アリサは手帳を受け取った。
銀の腕輪が赤い表紙へ触れ、小さく音を立てる。
「ですが、何と書けばよろしいのでしょうか」
「昨日できたこと」
「お茶をこぼしました」
「それは反省録に書いて!」
「じゃあさ、俺たちが最初に一つずつ書けばいいんじゃないか?」
分からないなら、ある程度の道しるべとかは作ってもいいんじゃないかな。
すると、沙耶香が目を丸くした。
「な、何?」
「それだよマナト! たまにはいいこと言うね!」
「たまにはって何だよ、たまにはって!」
だけど、俺もいいアイデアだとは思っている。
「んじゃ、そういうことじゃん。アリサちゃん、ちょい借りるじゃん」
「あ、はい……」
アリサは言われるがまま、新しい手帳をミカに渡す。
ミカは「ほいさーや」と、それを沙耶香へ渡した。
「アリサちゃんが一番懐いてるし、最初はさーやからやるじゃん」
「私? うーん、いいけど……アリサちゃん、いい?」
「は、はい……」
アリサは照れくさそうに俯いた。
「お姉ちゃんからやってくれると……わたしも嬉しいです」
「アリサちゃん……うん。分かった。じゃあ、まず私から書くね」
手帳を開いて、その最初のページへ沙耶香が文字を書いた。
『予定と違うことが起きても、自分で考えて対応した』
「よし。じゃあ、次は……マナト」
「ん、俺?」
「発案者だしね」
ああ、そういう理由? そうだな……。
『失敗しても、逃げずにもう一度お茶を出した』
「うん。俺、結構いいこと書いたな」
「自分で言うな」
ルカが俺の書いた文の下へ書き加える。
『茶器を一つも割らなかった』
「それ、褒めてる?」
「いやいや、アリサなら十分な成果だろ」
「褒めてるぞ」
レイナまで同意した。
ミカは大きな文字を書き込む。
『一日で「声」って注意される回数が減った!』
「数えていたのですか?」
「途中で分かんなくなったけど、前日よりは少ないじゃん」
「でしたら、できたことなのです!」
アリサは素直に受け入れた。
レイナは一拍考えてから、短い一文だけを記す。
『命じられず、自分でやると決めた』
それを読んだアリサが、しばらく動かなくなった。
「お嬢様……」
「事実を書いただけだ」
「はい!」
「よい記録になりましたね」
ナギさんが、ほほ笑む。
「できなかったことだけでなく、できたことを覚えておくのも大切でしょう」
「はい。ありがとうございます、ナギ様!」
最後に、手帳がキサラギへ渡される。
「僕まで書くのかい?」
思わず受け取ったみたいだけど、キサラギは露骨に嫌そうだ。
「参加したんだから書けばいいじゃん」
「僕は巻き込まれただけだ」
「それでは、お返しいただいても構いません」
アリサが手を伸ばす。
けれど、キサラギは先に腕を上げて、手帳をアリサから遠ざけた。
「待ちたまえ。まだ何も書かないとは言っていないだろう」
キサラギはしばらく考え込み、一番下へ小さく書いた。
『父上が茶の味を認めた』
それだけ書いて、手帳をアリサへ押し返す。
「僕自身が褒めているわけではない。父上が言った事実を記録しただけだ」
「はい。ありがとうございます!」
「だから、なぜ僕へ礼を言うんだい……」
アリサは、何度も最初のページを読み返した。
失敗したことを並べた十二冊とは違う。一日でできたことだけで、最初のページが半分以上埋まっている。
「名前はどうする?」
「反省録の反対だから、成功録か?」
「なんか堅いじゃん」
「できたこと帳でいいんじゃない?」
「では、『できたこと帳・第一巻』にいたします!」
「第一巻って、これも十二巻まで増やすつもり?」
「たくさんできるようになれば、増えるのです!」
「それならいいか」
表紙へ新しい名前が書き込まれる。
けれど、アリサは最後に空いている一行を見て、首を傾げた。
「……ここにはわたしも、何か書くのでしょうか」
「ああ、もちろん。今日できたことを書いてみなよ」
「今日……」
アリサは、机を囲む俺たちや飾りへ目を巡らせた。空になった皿、まだ残っている飾り、そして一緒に机を囲んでいる俺たち。
そして。
『本日は、何もお手伝いせず、皆様と楽しく過ごしました』
「言い方ァ!」
沙耶香が叫んだ。
「間違っておりますか?」
「間違ってはいないけど……『何もお手伝いせず』って、またできなかったことを書いてるでしょ」
「ですが、本当に何もしておりません」
「今日は、それができたことでしょ」
「休むことが、ですか?」
「うん」
アリサは、自分が書いた一文へ目を戻したけど、すぐには書き直さなかった。
今日、最初に帰ろうとしたこと。
何度もお代わりを持っていこうとしたこと。
苺のタルトを自分で選んだこと。
そして、今もみんなと同じ机を囲んでいること。
やがて、アリサは自分で最初の部分へ一本の線を引いて、その下へ新しい文字をき入れた。
『皆様と一緒に休み、楽しく過ごしました』
沙耶香が、その文字を覗き込む。
「うん。そっちの方がいい」
「これも、できたことなのですね」
アリサはもう一度、自分で書いた一文を読み返した。
「はい。今日は、休むことができました」
新しい手帳を胸元へ抱く。
「不思議なのです……何も働いていないのに、来たときより嬉しくなりました」
「それでいいんだよ」
「では、この会は、いつ終わるのでしょうか」
「アリサちゃんが、もう十分だと思ったらかな」
アリサは時計を見る。
当初の予定なら、とっくに片づけを始めている時間だった。
膝の上には、赤い『できたこと帳』があって、隣にはレイナがいる。
だけどアリサは、どちらにも手を伸ばさなかった。
「もう少しだけ続けたいです」
「まだ疲れてるの?」
「違います」
アリサは、俺たちを順番に見渡した。
「もう少し、皆様と一緒にいたいのです」
そう言って、自分で時計から目を離した。
お疲れ様会は、予定より三十分長く続いて。
アリサは一度も、終了時刻を確かめ直さなかった。




