応接室
視察者たちが次の施設へ移動すると、授業は本来の形へ戻った。
その後、俺たちは教室に残り、アリサは視察団について学院内を回った。
付き添っていた上級生から聞いたところでは、予定外の資料を求められたときも、勝手に判断せず担当の教師へ確認できたらしい。魔法生物飼育場では、雲羊へ近づきすぎた視察者を、失礼にならない言葉で止めることもできたという。
少なくとも、昼休みまでは大きな失敗をしていない。
そして残る仕事は、最後の応接だけになった。
「今のところ、失敗してないじゃん!」
応接室へ向かう途中のアリサを、ミカが呼び止めた。
「はい。ここまで、反省録への追加はないのです!」
「まだ終わってねえから、気を抜くなよ」
ルカが釘を刺す。
「最後に全部ひっくり返すのが、一番笑えねえからな」
「縁起でもないこと言わないでよ」
沙耶香が、斜めになっていたアリサの名札を直した。
「練習どおりにやれば大丈夫。何か予定と違うことが起きたら、手順じゃなくて、相手が何を求めているか考えるんだよ」
「はい、お姉ちゃん」
「アリサ」
レイナが呼ぶ。
「失敗するなとは言わない。危ないと思ったら、一人で何とかしようとせずに下がれ」
「ですが――」
「返事だけではなく、覚えておけ」
「……はい」
アリサが盆を持ち直す。
「それでは、行ってまいります」
応接室の中では、五人の視察者が長いテーブルを囲んでいた。
一番奥に座っているのは、ミツルギさんだ。
壁際にはナギさんと、なぜかキサラギまで立っている。最後の意見交換だけは、学院の生徒として見ておくよう、ミツルギさんから命じられたらしい。
扉は完全には閉じられず、細い隙間が残った。
俺たちは邪魔にならないよう廊下の角へ移動し、そこから応接室の様子を窺う。
アリサが、一人ずつ茶を出していく。
取っ手は右、茶は七分目。テーブルへ置く音も、ほとんど聞こえない。
最後は、ミツルギさんだ。
「アリサさん」
「はい」
「君の家について、聞いてもいいかな?」
カップを置こうとしていたアリサの手が、一瞬止まった。
「はい。何でしょうか」
「君の祖父の代には、ツワブキの嫡流に名を連ねていた家だと聞いている。今では遠縁となり、羊を育てて暮らしているそうだね」
「はい。現在は百二十七頭の羊を育てております」
「それでも、ツワブキ本家の命令には従うよう教えられている」
「そのように教わっております」
「忠義深い家だ」
ミツルギさんは、アリサの胸元にある名札を確認した。
「ツワブキ家は、よい使用人を持ったね」
アリサがぱっと顔を上げる。
「ありがとうございます」
「父上」
壁際からキサラギが口を挟んだ。
「その者は、昨日まで盆の扱いさえ満足にできなかったのです。今日一日だけで評価するのは、まだ早いかと」
「ハクア」
「ですが――」
「私が評価しているのは、今日ここで見た働きだ。今は君の意見を聞いていない」
「……申し訳ございません」
キサラギは口を閉じた。
「気にせず、続けなさい」
「はい」
アリサが、最後のカップを取る。けれど、その指には力が入りすぎていた。
カップの底が、盆の縁へ当たる。
「あっ」
陶器が傾いた。
こぼれた茶が、ミツルギさんの白い手袋と、黒い外套の袖へ広がっていく。
応接室が、しんと静まり返った。
「父上!」
キサラギが叫んだ。
アリサは盆を抱えたまま固まっている。
沙耶香が息を呑み、レイナの右手が強く握られた。
それでも、二人とも応接室へは入らなかった。今ここで仕事をしているのは、アリサだからだ。
「も、申し訳ございません!」
アリサは震える声で謝ると、一度だけ目を閉じた。昨日、ナギさんから教わった言葉を思い出しているのかもしれない。
手順ではなく、相手が何を求めているか。
アリサは盆をテーブルへ置いた。
「お怪我はございませんか?」
「ああ。問題ないよ」
「ナギ様、乾いた布をお借りできますか」
「こちらをどうぞ」
ナギさんから布を受け取り、まずミツルギさんの袖に染みた茶を押さえる。
「ただちに新しいお茶をお持ちします。その後、改めてお召し物の処置をさせてください」
「分かった」
ミツルギさんは、濡れた手袋を外した。
「一度の失敗で、それ以前の働きまで失敗になるわけではない。ただし、失敗した後に何をするかは見ているよ」
「はい」
「それから、ハクア」
キサラギの肩が揺れた。
「熱い物を運んでいる者へ、横から余計な声をかけるのは危険だ。今回の失敗には、君にも責任がある」
「……はい。申し訳ございません」
アリサはこぼれた茶を拭き、厨房へ戻った。
数分後、新しいカップを持って、もう一度ミツルギさんの前へ立つ。
戻ってきたアリサの手は、もう震えておらず、カップは音もなく正しい位置へ置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ミツルギさんが一口飲む。
「うん。よい味だ」
アリサは、深く頭を下げた。
◇
視察が終わったのは、午後二時を過ぎた頃だった。
正門前には黒い馬車が止まり、二頭の白いユニコーンが銀色の馬具を揺らしている。
「正式な結果は、後日書面で通知する」
馬車へ乗る前、ミツルギさんがクドウ管理官へ告げた。
「だが、学院側が問題を認識していることは理解した。必要な改善が行われるなら、実習の準備を続けることに、私は反対しない」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。判断するのは、審査会全体だからね」
まだ許可が出たわけじゃない。それでも、計画を止めると言われなかっただけ、昨日よりは前進だ。
「それから、ハクア」
「はい、父上」
「今日の振る舞いについて、反省文を一枚書きなさい。ナギへ預けるように」
「……承知しました」
「反省録なら、アリサちゃんに書き方を教えてもらえるじゃん」
ミカの小声が耳に入ったのか、キサラギがこちらを睨んできた。だけど父親の手前、何も言い返せないみたいだ。
「アリサさんも、こちらへ」
「はい!」
見送りの列に加わっていたアリサが、ミツルギさんの前へ進み出た。
「君が初めての仕事を務めると聞いて、終えたときに渡そうと思っていた物がある」
ミツルギさんがナギさんを見る。
ナギさんは上着の内側から小さな黒い箱を取り出し、アリサへ差し出した。蓋を開くと、中には細い銀色の腕輪が収められていた。中央には、淡い青色の石が一つだけ埋め込まれている。
「これは……?」
「災い避けの護符だ。大げさな物ではない。お守りとして受け取ってくれればいい」
「わたしが、いただいてもよろしいのでしょうか」
「最後まで仕事を務めた君へ渡すものだよ」
アリサは銀色の腕輪を見つめた。
「……ありがとうございます。大切にいたします」
腕輪を箱から取り出し、自分の左手首へ着ける。
やや大きく見えた銀の輪は、留め具を閉じるとアリサの手首へぴったり収まった。
「いかがでしょうか?」
「よく似合っているよ」
「ありがとうございます、ミツルギ様!」
アリサが深く頭を下げた。
ミツルギさんは穏やかに頷くと、黒い馬車へ乗り込む。すると二頭のユニコーンが歩き出し、馬車が学院の正門を抜けていった。
◇
アリサが食堂へ現れたのは、夕食が始まってしばらくしてからだった。
「遅かったね」
沙耶香が隣の席を空ける。
「申し訳ございません。茶器の確認と、反省録への記入に時間がかかりました」
「増えたの?」
「三ページほど!」
「お茶一回で?」
「失敗の原因と、ハクア様のお言葉への対応と、二度目に成功した理由を記録いたしました!」
いつものアリサだ。顔には疲れが残っているけど、朝から働き続けていたのだから当然だろう。
「でも、最後までできたじゃん!」
ミカが自分のことのようにうれしそうだ。
「お茶も褒められてたね」
「はい、お姉ちゃん!」
アリサは、今日一日着けていた名札を両手で持ち上げた。
「わたし、初めてのお仕事を、最後まで務めることができました」
「途中でこぼしたけどな」
ルカが言う。
「それでも、最後まで務めました!」
「そこは譲らねえんだな」
「失敗しても、その後にやり直せば、それまでの全部が失敗になるわけではないと教わりましたので!」
アリサは胸を張った。
「誰に?」
「ミツルギ様です」
「へえ」
俺には、意外だった。
レイナは何も言わず、アリサの次の言葉を待っている。
「お嬢様」
「何だ」
「わたしは、ツワブキ家へ恥をかかせてしまったでしょうか」
「いいや」
レイナは短く答えた。
「途中で投げ出さず、最後まで務めた。むしろ誇りに思う。よくやった」
アリサが勢いよく顔を上げた。
「はい!」
食卓には、苺と杏、二つのジャムが置かれていた。
アリサは二つの瓶を見比べ、苺の方を取った。誰にも尋ねず、自分のパンへたっぷりと塗っていく。
人間世界へ行ける日は、まだ決まっていない。
正式な許可も、まだ下りてはいない。
それでも、止まっていた計画は、少しだけ先へ進んだ。
「多分、今日は成功だな」
「その多分は、今日は信用していい」
沙耶香が答える。
アリサは苺ジャムのパンを頬張り、今日一番嬉しそうに笑っていた。




