正しい命令
翌朝、寮の共用玄関に、鞄が五つとメイドが一人、綺麗に並んでいた。
昨日との違いは、メイドだけが一睡もしていないことだ。
「……何してるの?」
俺の声に、アリサは膝の上で揃えていた両手を動かし、勢いよく立ち上がった。
「おはようございます、マナト様! 正しいご命令をお待ちしておりましたのです!」
「朝の挨拶としては、だいぶ怖いな」
俺がこんな時間に起きていたのは、昨日のラジオが気になって、ろくに眠れなかったからだ。
先日の事件から音が出なくなっていたうえ、昨日アリサに体当たりされて外側のひびまで増えた。
朝食までにもう一度中を見ようと思い、ラジオを抱えて談話室へ向かう途中だったんだ。
「正しい命令って?」
「昨夜、レイナお嬢様から、朝になったら荷物をまとめて本家へ帰るよう命じられました!」
「うん」
「ですが、わたしがこちらへ発つ際、ツワブキ家のご当主様からは、レイナお嬢様が学院を離れるまで、お側を離れてはならないと命じられているのです!」
「……うん?」
「帰れば、ご当主様のご命令に背きます。残れば、お嬢様のご命令に背きます」
なるほど。命令同士がぶつかって、動けなくなったらしい。
「それで、ここに座ってたの?」
「はい! 帰るための支度を整えたうえで、学院へ残っているのです!」
五つの鞄にはきっちり紐が掛けられている。昨日空中を舞っていた羊毛まで、一本残らず袋へ詰め直されていた。
帰る準備は完璧だ。
ただし、帰っていない。
「いつから待ってるの?」
「消灯の鐘が鳴ってからです!」
「え? 昨夜からずっと?」
「はい!」
「ってことは寝てないの?」
「寝れば、ご命令をいただいた際に聞き逃す可能性がございますので!」
明るく答えているが、目の下は黒い。
立ち上がった途端、身体が少し右へよろめいた。
「どっちかを優先すればいいんじゃない?」
「ツワブキ家の方からいただいたご命令に、間違いはないのです」
「今回に限っては、どっちかが間違ってると思うけど」
「食い違って見えるのであれば、受け取った側に問題があると、祖父から教わったのです」
アリサは、さも当然のように言った。
「ですので、わたしが未熟なのです!」
「違うと思うけどなあ……」
「どちらがでございますか?」
「全部」
「全部!?」
うん。自信はないけど、命令が二つに増えただけで一晩眠れなくなる仕組みの方が、間違っている気がする。
「おーっす。朝から何してんだ?」
廊下の向こうからルカが来た。腰には今日も工具袋を下げていて、最初からラジオを直す気満々らしい。
正直今修理するべきなのは、ラジオよりもアリサな気もするけど。
「命令が二つぶつかって、アリサが壊れた」
「壊れておりません!」
「命令がぶつかったって……どうぶつかったんだ?」
俺が説明すると、ルカは鞄の前へしゃがみ込んだ。
「んなもん、後から出された命令を優先すればいいだろ」
「ですが、ご当主様の方がお立場は上です」
「んじゃ、命令した奴の立場で決める」
「ですが、わたしがお仕えするのはレイナお嬢様です」
「あー、優先順位が決まってねえのか」
ルカが難しい顔になる。
なぜか、命令そのものではなく、規則の設計に問題があるという話になっていた。
「だったら、二つとも守ればいいじゃん?」
女子寮側の廊下からミカの声がした。すぐに、沙耶香と一緒にその姿を現した。
「レイナも一緒に帰れば、アリサちゃんはそばを離れずに帰れるじゃん」
「私は帰らないぞ」
二人の後ろから来たレイナが即答した。
制服は既に整えられ、銀色の長い髪にも乱れ一つない。この時点でアリサが手伝えそうなことは、残されていなさそうだ。
「じゃあさ、レイナを鞄に入れて運ぶとか?」
ミカが、中身が空っぽの鞄を大きく開いてレイナに向ける。
「ほらほら、膝を曲げればいけそうじゃんお嬢様!」
「試そうとするな」
「おはようございます、お嬢様!」
アリサが深々と頭を下げる。
「ああ、おはよう。どうして、まだいる」
「帰るために残っております!」
「……意味が分からない」
「わたしにも分からないのです!」
レイナの眉間に皺が寄る。
「昨夜、帰れと命じたはずだ」
「はい!」
「なら、なぜ帰らない」
「ご当主様から、お嬢様が学院を離れるまで、お側を離れてはならないと命じられております!」
「……おい。その話は聞いていないぞ」
「お伝えしていないのです!」
「先に言え!」
「申し訳ございません!」
アリサは再び頭を下げた。
「ね、ねえ。何で、分からなくなった時点でレイナに聞かなかったの?」
「夜分にお嬢様のお部屋を訪ねる許可をいただいておりませんでしたので」
沙耶香が目を白黒させた。
「え? じゃ、じゃあ、朝になってから聞けばいいでしょ」
「お嬢様から、朝になったら帰るよう命じられております!」
「うん。で、その命令が分からないんだから、今聞いてるんでしょ?」
「ですが、わたしが命令へ疑問を持つことは――」
「……あのね? 疑うのと、聞き直すのは違うから」
沙耶香の声が少し強くなった。
「勝手に意味を決めて、結局一晩寝ない方が困らせてるじゃない」
「困らせる……」
アリサがレイナを窺う。
レイナは明らかに困っていた。ため息をついて、頭を抱えて。
「お前、本当に一睡もしていないのか?」
「はい! 寝るように命令されていないので! もしや、わたしは、お嬢様を困らせているのです?」
「今のところ、かなりな」
「申し訳ございません!」
「謝る前に、何を聞きたいのか言え」
「何を……」
「ほら。だって、命令が分からないんでしょ?」
沙耶香がアリサを促す。
「だったら、自分で聞きなよ。私が代わりに聞いても、また次に分からなくなるだけだから」
「ですが、どのように?」
「そのままでいいでしょ。どっちに従えばいいですか、って」
「お嬢様へ、命令の意味をお聞きしてもよろしいのでしょうか、なのです?」
「だから、それをまず本人に聞きなよ」
沙耶香がこめかみを押さえた。
アリサはしばらく迷っていたが、やがてレイナへ向き直った。
両手を前で揃える。
「レイナお嬢様」
「……何だ」
「ご当主様からは、お嬢様が学院を離れるまで、お側を離れないよう命じられております。ですが、お嬢様からは、今朝帰るよう命じられました」
「ああ」
「わたしは、どちらのご命令に従えばよろしいのでしょうか」
ただ状況を説明して、尋ねただけだ。なのに、返事を待つアリサの身体は強張っている。
しばらくの沈黙の後、レイナは結論を下した。
「昨日の命令は撤回する」
「撤回……」
その言葉で、アリサの顔が朝日みたいになった。
「迎えを寄越すよう本家へ連絡したが、返答がない。連絡がつくまで、お前も学院内にいろ」
「では、お側にいても?」
「学院内にいろと言った。私の身の回りのことをする必要はない。食事と睡眠は自分で取れ」
「はい! ありがとうございます、お嬢様! このアリサ、命を懸けて待機するのです!」
「待機に命を懸けるな」
「はい!」
ようやく話がまとまった。
「サヤカ様」
アリサが沙耶香へ向き直る。
「ありがとうございました!」
「ううん。私は、聞き直せって言っただけ」
「わたしは、命令についてお尋ねしてもよいと知りませんでした!」
「別に、何でも言うことを聞く必要ないと思うけど」
「それはできません!」
「そこは即答なんだ……」
沙耶香は納得していなさそうだったが、今はそれ以上言わなかった。
アリサがその場でまたぐらりと傾く。
沙耶香が片腕をつかみ、レイナが反対側の肩を支えた。
「まず寝なさい」
沙耶香が言う。
「ですが、朝食のお時間です!」
「食べてから寝ればいい」
レイナが訂正する。
「はい!」
アリサは自力で立とうとして、反対側へよろめいた。
「ね。ねえ。本当に食堂まで行ける?」
「問題ないのです!」
「その言葉、マナトの多分と同じくらい信用できないんだけど」
……あれ? 傍観に徹していたのに、なんか突然流れ弾食らったんだけど?
◇
学院の食堂へ入ると、豪華な金髪が目についた。
ハクア・キサラギ。絵に描いたようなお坊ちゃんだ。朝から背筋を伸ばし、長い机の一角へ腰掛けている。
その後ろには、黒い服を着た男が控えていた。
年齢は二十代の後半にも、三十代にも見える。白髪を後ろへ撫でつけ、右目だけに丸眼鏡を付けている。ハクアが手を伸ばすより先に椅子を引いて、紅茶へ手を伸ばすよりも先に蜂蜜を差し出して、膝からナプキンが滑りかければ、床へ落ちる前に拾い上げる。
「……この前来たあの人、ちょっとすごすぎないか? 未来が見えてるの?」
「僕の付き人が?」
おおっと、俺の呟きが聞こえたらしい。
キサラギが眉を上げて鼻を鳴らす。
「幼い頃から僕に仕えているんだ。僕が何を求めているか理解していて当然だろう。この前の襲撃の後、父上が心配で送ってくれたんだ。まあ、ナギなら何の問題もないから安心だ」
「すごいね……」
俺たちの後ろで、アリサが口を半開きにしていた。
その様子に気づいたキサラギが、アリサ、五つの鞄、レイナを順番に視線を巡らせた。
「アレはツワブキの新しい付き人かい?」
「家から勝手に送られてきた」
「おおっと。ツワブキ家ともあろうものが、随分と幼い使用人を寄越したものだね」
「十三歳です! アリサなのです!」
アリサが勢いよく頭を下げる。
「フン。それで、使えるのかい?」
「使う予定はない」
「主人が使用人を持て余しているのか。道具は正しく使ってこそ価値があるというのに」
「人を道具みたいに言わないでよ」
沙耶香が口を挟む。
するとキサラギは、わざとらしく眉を上げた。
「おおっと。紋無しには、名家の付き人というものが珍しかったかな?」
「珍しいんじゃなくて、その言い方が気に入らないって言ってるの」
「使用人は主人に仕え、主人は働きに報いる。それが役割というものだ。君には理解しづらいかもしれないね」
「あんた、朝から喧嘩を売りに来たの?」
「事実を教えてあげただけだよ」
キサラギは鼻を鳴らした。
「ナギ」
「はい、ハクア様」
そう言えば、あの付き人の声は初めて聴いたかもしれない。透き通るような、いわゆるイケボってやつだな。
「場所を変える。朝食がまずくなりそうだ」
「元から味は変わらねえだろ」
ルカの言葉を無視し、キサラギは立ち上がった。
ナギと呼ばれた付き人が、俺たちへ一礼した。
「お初にお目にかかります、アリサ様。キリヒコ・ナギと申します」
「ア、アリサ様!? わたしは使用人なのです!」
アリサが見て分かるほど、ずっと動揺しっぱなしだ。
そんな彼女に対して、ナギさんはにこやかな笑みを浮かべた。
「私も同じ立場ですので、お互い、主人へ恥じぬ働きをいたしましょう」
「は、はい!」
アリサの目が輝いた。
ナギはハクアを追い、別の席へ移っていく。
「お嬢様」
「何だ?」
「わたしも、あの方のようになります!」
「ならなくていい」
「はい!」
元気よく答えたくせに、アリサの目はナギさんから離れていなかった。
それにしても、あの人すごい人格者だな。主人に、爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。
俺たちは、近くの机へ座った。魔力で注文を送ると、宙を行き交う盆のいくつかが俺たちの机に降りてくる。うん、内容は魔法使いになじみ深い食事ばかりだ。
レイナがパンへ手を伸ばそうとする。
すると、アリサも動いた。レイナより先に籠を持ち上げ、恭しく差し出す。
「どうぞ、お嬢様!」
「自分で取れる」
「はい!」
レイナが水差しへ手を伸ばそうとする。その前にアリサが飛びつき、グラスへ水を注ぐけど、勢いがよすぎて、半分ほど机へこぼれた。
「あ、ああ! 申し訳ございません!」
「自分の食事をしろ」
「はい!」
アリサは空いていた椅子へ座った。
背筋を伸ばし、膝の上に両手を置く。前にはパンとスープが用意されているのに、手をつけない。
「? 食べないの?」
野菜を頬張った沙耶香が尋ねた。
すると、全く表情を変えないまま、アリサが応えた。
「お嬢様のお食事が終わっていないのです」
「お嬢様からはさっき、自分の分を食べろって言われたでしょ」
「そ、そうなのです!」
アリサはすぐにパンを持った。
今度は、机の中央に置かれた二つの瓶の前に、アリサの手が止まった。
苺のジャムと、杏のジャムだ。
「どっちがいいの?」
沙耶香が聞く。彼女としては、単に好みを聞いたつもりなんだろうけど。
「どちらを選べば、お役に立てますか?」
「朝ご飯に役割を求めないで」
「では、どちらを選ぶべきでしょうか」
「好きな方」
「どちらを好きになるべきでしょうか」
全員が黙った。
俺はラジオの裏蓋へ差し込もうとしていたスプーンを止める。
「何してるの?」
「……ん? ああ、これ、隙間にちょうど入りそうだったから」
「食器で人間の機械を分解しないで」
「多分、壊れない」
「その多分、信用できない」
ああ、沙耶香のスプーン泥棒!
「私は苺にする」
「では、わたしも苺にいたします」
「私に合わせなくていいよ?」
「ですが……」
「杏でもいいし、何も塗らなくてもいい。アリサが食べたいものにすればいいでしょ」
アリサの手が、二つの瓶の間を行き来する。
彼女は一度、助けを求めるようにレイナを見た。
レイナは何も言わず、ただアリサの選択を待っていた。
最後に、アリサは沙耶香へ向きなおった
「サヤカ様と、同じものを食べてみたいです」
「それは命令されたから?」
「いいえ」
「私に合わせた方が役に立つから?」
「いいえ」
「……うん。なら、それでいいんじゃない」
「よろしいのですか?」
「アリサがそうしたいならね」
「は、はい!」
アリサは頷いて、苺の瓶を取った。
パンへ少しだけジャムを塗り、一口だけかじる。
「どう?」
沙耶香が尋ねる。
「大変おいしいのです!」
「そうじゃなくて。苺、好き?」
アリサは口を止めた。
困ったように眉を下げ、本気で考え込む。
「分からないのです」
やがて、そう答えた。
「ですが……もう一口、食べたいです」
「じゃあ、好きなんじゃない?」
「これが、好き……」
アリサは確かめるように呟いた。
もう一度、自分でパンを口へ運ぶ。誰にも答えを求めなかった。




