↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法学校に普通の人間が入学してきた ~紋無しと人間オタクの魔法使い~  作者: カラス
第二章 ダメダメメイドは命令を聞かない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/67

鞄が五つと、メイドが一人

 荷物と一緒に、少女が配送されてきた。


「……え?」


 俺は、噴水前へ降りてくる赤い絨毯を見上げた。

 御霊代魔法学院では、その日に届いた荷物は、授業が終わる頃には運搬用の絨毯へ載せ替えられ、寮の個室まで届けられている。

 だから、この時間に配送絨毯が直接中庭へ降りてくること自体が珍しい。ましてや、荷物の中に人影まで見える。


「これ、誰か乗ってるじゃん」


 隣でミカ・カナメが言った。


「配達人じゃねえのか?」


 ルカ・ヤザワも目を細める。


「前に一人いるだろ。だから、もう一人」

「じゃあ客?」

「来客を荷物と一緒には運ばないでしょ」


 柊沙耶香(ひいらぎさやか)が呆れたように言う。


「近くで見れば分かるかな」


 一歩踏み出すけど、沙耶香に袖を掴まれた。


「……俺まだ何もしてないけど」

「もう行こうとしてるでしょ」

「珍しいものが来たんだから、確かめたくなるだろ」

「見るだけだからね。勝手に触らないでよ」

「信用ないなあ」

「普段の行動の結果でしょ」


 この学院で唯一の人間である沙耶香は、最近、俺が何を考えているのか分かるようになってきたらしい。

 困るなあ。好奇心が満たされないじゃないか。


「待て」


 俺たちがあれこれ議論を交わしていると、背後から声が飛んできた。

 長い銀髪を揺らしながら、高身長の女子生徒が大股でこちらへ歩いてくる。

 レイナ・ツワブキだ。いつもきっちり整えられている制服には今日も乱れ一つない。相変わらず生真面目が服を着て歩いているみたいだ。

 ただ絨毯を見上げた顔だけは、あからさまに険しい。


「あれは、ツワブキ家の運搬絨毯だな」

「ツワブキ? ってことは、レイナの荷物?」

「知らん。私は何も頼んでいない」

「実家に帰れってことじゃん?」


 ミカ、可愛い顔でなんてひどいことを。


「いや、むしろ逆じゃねえか? 実家の方がこっちに来たとか」

「ああ、それはちょっと見たいな」

「勝手に開けるなよ、マナト」

「何で俺だけ?」

「顔が開けたがっているからな」


 レイナまで沙耶香と同じことを。まあ、否定はできないけどさ。

 ツワブキ家のような名家の紋様は、学院へ登録された配送証明にもなっているんだろうな。だから、通常の配送時間を過ぎていても結界を通過できたんだ。

 赤を基調とした大きな絨毯が、静かに高度を落としていく。

 四隅についた金色の房が、風もないのに揺れていた。厚い生地に織り込まれた花と蔓の紋様が、夕日を受けて白く輝いている。

 やがて、絨毯が石畳すれすれで停止した。

 前方に座っていた配達人が杖を振る。

 すると、荷物を固定していた革帯が一斉に外れ、大きな鞄が、一つずつ魔法で浮かび上がっていく。

 一つ。

 二つ。

 三つ。


「まだあるのか」


 四つ。

 そして五つ。合計五個の鞄が、噴水の前に綺麗に並んだ。


「ねえ、多くない?」


 と、沙耶香。


「もしかして……鞄一個ごとに部屋が入ってたりして?」

「それが五個あれば家になるじゃん!」

「おお。それはちょっと見たい」

「だから開けるな」


 レイナが先回りしてきた。

 そんなことを話している間に、最後の鞄が石畳へ着地する。

 けれど、絨毯の上には、まだ何かが残っていた。


「……あれ?」


 灰色の毛布だ。人一人が包まれるくらいの大きさで、編み込まれた金色の髪が飛び出している。


「……クレオパトラ?」

「やっぱり人じゃん」


 ミカの言葉に、全員が黙った。


「レイナ・ツワブキ様。ツワブキ本家より、お荷物をお届けに参りました」


 すごいな、この配達人。まるで何事もなかったようにレイナへ頭を下げる。

 レイナは五つの鞄ではなく、絨毯の中央を指した。


「これは何だ」

「お付きの方と伺っております」

「お付き……?」


 レイナの眉間に皺が寄る。


「いや、それより、なぜ荷物と一緒に固定されていたんだ!?」

「飛行中に落下なさらないよう、ご本人が希望されました」

「本人が?」

「はい。出発直後までは、鞄を押さえておられましたので」

「途中からは?」

「お休みになられました」


 ああ、確かに。耳を澄ませばすう、すう、と規則正しい寝息が聞こえてきた。


「寝てる……」

「空飛ぶ絨毯の上で? 危なくないの?」


 沙耶香が呆然としている。

 ルカは横を向き、肩を震わせていた。


「それでは、私は次の配達がございますので」

「待て! まだ説明が終わっていない!」

「詳しくは、お荷物に同封された書状をご確認ください」

「だから――」

「ご利用ありがとうございました」


 配達人が鮮やかに一礼して、再び絨毯へ乗る。

 レイナが手を伸ばすより早く、四隅の房が持ち上がっていく。やがて絨毯はレイナの手を避けるように上昇し、空中連絡橋の向こうへ飛び去っていく。

 後に残されたのは、五つの鞄と……灰色の毛布に包まれ、石畳の上で眠り続ける女の子が一人。


「……本当に置いていった」


 誰に言うでもなく呟いた。

 俺たちより、二つか三つほど年下に見える。灰色がかった金色の髪を左右で編み、黒い服の上から白いエプロンを着けていた。顔立ちも背丈も幼いのに、体つきだけは年齢より少し大人びていて、そこだけ妙にちぐはぐな印象がある。頭には、少し曲がったホワイトブリムが載っていた。

 これは、どう見てもメイドだ。


「これって……もしかして、メイド? 後この毛何?」


 沙耶香が白い毛を一本摘まむ。


「ねえ、魔法使いの世界にもメイドっているの?」

「昔ほど多くないけど、名家なら今でもいるぞ」


 俺も足元へ落ちていた毛を一本拾った。


「これ、少し魔力が――」

「持って帰るな」


 うわ、何だよレイナ。そんないきなり。


「まだ何も言ってないだろ」

「顔に書いてある。調べてみようとな」


 今日はみんなそれを言うな。

 レイナが少女へ近づき、毛布の端を靴先で軽く突いた。


「おい。起きろ」

「ふにゃ……あと五分だけ……」

「誰の許可を得て、私の前で寝ている」

「ふわあっ!?」


 女の子が跳ね起きた。

 頭から毛布が落ち、ホワイトブリムも一緒に飛んでいく。

 寝ぼけた目で俺、沙耶香、ルカ、ミカの順に見回し、最後にレイナを見つける。


「……レイナ、お嬢様?」

「ああ」

「レイナお嬢様なのです!」


 少女が勢いよく立ち上がった、と同時に、足元の毛布を踏む。


「あっ」


 身体が正面へ傾いた。

 沙耶香とレイナが同時に腕を伸ばし、石畳へ顔から突っ込む寸前で受け止める。


「も、申し訳ございません、レイナお嬢様!」

「まずは立て」

「はい!」


 二人に支えられて立ち直った少女は、エプロンの汚れを払い、落ちていたホワイトブリムを拾ってそのまま頭へ載せる。

 前後が逆だ。それを沙耶香が無言で直す。


「あ、ありがとうございます!」


 少女が今度こそ姿勢を正す。


「お初にお目にかかります、レイナお嬢様!」

「いや、会ったことはあるな」

「覚えていてくださったのですか!?」

「親族の集まりで二度ほどな」

「二度も!」


 二度をそんなに喜べるのか。


「改めまして、わたくし、アリサ・ミネウチと申します! 本日より、レイナ・ツワブキお嬢様の身の回りのお世話を務めさせていただきます!」


 勢いよく頭を下げる。

 お、今度は落ちそうになったホワイトブリムを、自分で片手で押さえた。


「世話だと?」

「はい! お食事の用意、お部屋の清掃、衣類の管理、学業の補助、身辺警護、その他どのようなご命令でも承ります!」

「頼んでいない」

「はい!」

「聞いていたか?」

「頼んでいないと!」

「なら、なぜ元気よく返事をする!」

「お嬢様のお言葉には、元気よく返事をするよう教わりました!」


 レイナがこめかみを押さえた。


「誰の指示で来た。お父様か?」

「本家からのお手紙をお預かりしております!」


 アリサがエプロンのポケットへ両手を入れる。

 右から出てきたのは、替えのホワイトブリム、左からはつぎはぎだらけの財布。


「違うのです」


 次に出てきたのは、小さな櫛、糸、針、乾燥させた葉。


「それ何?」


 ミカが覗き込む。


「羊がお腹を壊した際に使う薬草なのです!」

「え……レイナには使わないでね」

「もちろんです!」


 そこは迷わないんだな。

 さらにアリサは、折り畳まれた紙を取り出した。


「あっ、地図です!」

「手紙は?」

「こちらではございません!」


 開かれた学院の地図は、上下が逆だった。


「……それでここまで来たの?」


 沙耶香が尋ねる。


「途中までは絨毯の方がご案内くださいましたので!」

「途中からは?」

「空を見ておりました!」

「じゃあ地図いらなかったじゃん」

「ですが、必要な物だと教わりました!」


 アリサは大切そうに地図を畳み直した。

 逆さまのまましまい直して、再びポケットを探る。


「あれ? あれ? あれれれれ?」

「……どこへ入れた」

「少々お待ちくださいなのです!」


 ついにアリサは、並んだ五つの鞄へ走った。

 一つ目、大量のタオルが溢れ出した。


「こちらは洗顔、入浴、清掃、負傷時の圧迫、それから雨天時にも――」

「説明は後でいい」

「はい!」


 二つ目、予備らしいエプロンが何着も詰まっている。

 三つ目、蓋を開けると、茶器一式が勢いよく浮き上がった。


「あっ!」


 アリサが慌てて両手を伸ばすけど、彼女の背丈では届かない。

 レイナが杖を振り、落下寸前の茶器を空中で静止させた。


「申し訳ございません!」

「壊れる物を一番上に詰めるな!」

「すぐ使えるようにと思いまして!」

「割れたら使えんだろう!」

「はい!」


 四つ目、白い毛の塊が、一気に膨れ上がった。


「うわっ!」


 ミカが嬉しそうに抱きつく。


「何これ! ふわふわじゃん!」

「夜、お寒いときに必要かと思いまして」

「寮には布団がある」

「ですが、本家の方へ寒い思いをさせてはならないと教わりました。もしや、お嬢様はお鞄一つで学院へ?」

「ああ」


 アリサが目を見開いた。


「足りないのです!」

「十分足りている!」

「ですが、冬用と夏用、それから予備の――」

「足りている!」

「はい!」


 最後、五つ目。

 果たして今度は何が飛び出してくるのかと警戒していたけど、広い内部の中央には黒い封筒一枚が置かれていただけだった。


「ありましたのです!」


 俺たちが言葉を失っている一方で、アリサは顔をすごく輝かせている。

 いや、まさか。


「……それだけのために鞄を一つ使ったのか?」


 レイナが俺の考えを全て代弁してくれた。けど、アリサは堂々と答えてくる。


「紛失しないためなのです!」

「今、紛失しかけただろう!」


 アリサが封筒を差し出した。けれど、レイナは受け取ろうとせず、杖を持っていない方の手で、その頭上を指した。


「その前に、誰かこれを受け取れ」


 見上げると、茶器がまだ一式、宙に浮いていた。俺たちが羊毛や手紙に気を取られている間も、レイナはずっと支えていたらしい。


「お嬢様! ありがとうございます!」

「礼はいい。まず皿を――」


 アリサが勢いよく頭を下げたので、レイナはその額がぶつかる前に、カップを少し高く持ち上げた。


「私が受け取るから、アリサちゃんは鞄を押さえてて」


 沙耶香が器を一つずつ戻していく。最後の皿が収まってから、レイナはようやく杖を下ろし、差し出されたままの封筒へ手を伸ばし、慣れた手つきで白い花の封蝋を割った。

 中に入っているのは上等な羊皮紙だ。紙だけで、俺のラジオより高いかもしれない。読み進めるにつれ、レイナの顔が険しくなっていく。


「何て書いてあるの?」

「先日の襲撃を受け、私の生活補助と警護のため、付き人を一名派遣する。状況によっては私を本家へ連れ戻せ、だそうだ」

「警護って、この子が?」


 全員の視線がアリサへ向く。

 本人は散らばった羊毛を種類ごとに分け直していた。


「アリサ。お前、いくつだ」

「十三歳です!」

「付き人の経験は?」

「本日が初めてです!」

「学院までの道中で、なぜ寝ていた」

「昨日から緊張して、一睡もできなかったのです! 絨毯へ乗って安心したところ、いつの間にか!」

「胸を張るな!」

「申し訳ございません!」


 レイナは手紙を握りしめた。


「ミネウチ家は祖父の代に本家から分かれた血筋だ。今では遠縁に近い。領地の端で羊を育てて暮らしている」

「本当にアリサちゃんが警護役なの?」


 沙耶香の質問に、レイナは額に手を当てながら「手紙にはそうある」と声を低くした。


「十三歳の未経験者を警護として送りつけ、私を本家へ連れ戻すための道具にするつもりか」

「わたしは、立派な付き人になるために参りましたのです!」

「経験もない者へ護衛を任せる時点で、まともな人選ではない」

「これから経験いたします!」

「その経験に私を使うな」


 アリサの口が閉じた。


「私に付き人は必要ない。食事も着替えも自分でできる。警護も不要だ」

「……はい」

「本家への返事は私が書く。荷物をまとめて帰れ」


 アリサの動きが止まった。今までとは違う、小さな声が返ってくる。


「承知しました」


 反論はない。泣きもしない。ただ深く頭を下げ、一つ目の鞄を閉じ始める。


「あれ? もっと騒ぐと思ったじゃん」

「命令ですので」


 アリサは鞄を持ち上げようとしたけど持ち上がらない。もう一度力を込めて、ようやく革底が石畳の上を、ほんの少しだけ擦った。

 そのとき、彼女の足元へ透明な雫が一つ落ちた。


「アリサちゃん」


 沙耶香が声をかける。


「泣いてるでしょ」

「泣いておりません」


 アリサは振り返らない。


「いや、泣いてるから」

「これは汗でございます」

「目から汗は出ないよ」

「では、雨かと」

「晴れてるでしょ!」


 沙耶香の語気が強くなった。

 それでもアリサは鞄を引っ張り続ける。


「命令に従っているだけです。わたしの家では、ツワブキの方のお言葉には必ず従うよう教わっておりますので」

「それって、嫌じゃないの?」

「嫌かどうかは、関係ございません」

「そんなわけないでしょ」

「お嬢様に必要ないと言われました。でしたら、わたしは帰ります」


 震える声とは裏腹に、アリサは顔を上げない。

 沙耶香は何か言いかけて、制服のポケットからハンカチを取り出した。


「ならせめて、これ使って」

「ですが、汚してしまいます」

「もう泣いてるんだから、今さらでしょ」

「泣いておりません」

「じゃあ、その目から出てる雨を拭けばいいじゃない」


 アリサがようやく顔を上げて、差し出されたハンカチを見つめる。

 そしてレイナを窺う。


「私を見るな」

「ですが……」

「ハンカチを差し出したのは沙耶香だ。受け取るかどうかは、自分で決めろ」

「自分で……?」


 アリサの手が上がりかけて、途中で止まった。まるで、そこから先をどうすればいいのか分からないみたいだった。

 沙耶香が少しだけ声を柔らかくする。


「これは私からのお願い。命令じゃないから、嫌なら断っていいよ」

「断っても……?」

「いいよ」


 アリサは、さらに困った顔をした。

 断るとか選ぶとか、俺たちにとっては当たり前のことが、どうやらこの子には簡単ではないらしい。

 長い時間をかけて、ようやく、恐る恐る手が伸びた。


「……ありがとうございます」

「私は柊沙耶香。レイナの友達。よろしくね」

「サヤカ様……」


 アリサは、確かめるようにもう一度口にした。

 借りたハンカチで目元を拭くけど、濡れた布を見た途端、また不安そうになった。


「洗ってから、必ずお返しいたします」

「いつでもいいよ」

「ですが――」

「返したいときに返せばいいから」

「わたしが、決めても?」

「うん」


 アリサがハンカチを握る。


「……どうしたいの?」


 すぐには答えなかった。

 何度も口を開きかけて、ようやく、小さな声が出る。


「わたしは……」


 震える息を吸った。


「本当は、帰りたくありません」


 その一言を口にした途端、今まで我慢していたものが崩れた。


「今日までいっぱい練習したのです! お茶の淹れ方も、お掃除も、お洋服の畳み方も!」

「うん」

「初めてのお仕事なのに、着いてすぐ帰れと言われて……まだ何もできていないのです!」

「うん」

「一度くらい、お役に立ちたかったのに、三分でクビになってしまいました!」

「うんうん」


 沙耶香がアリサの肩へ手を置く。

 アリサはただ、その手がそこにあることを確かめるように、沙耶香の制服の袖をそっと掴んだ。

 レイナが長く息を吐く。


「帰りたくないと言われても、私の付き人として残すつもりはない」


 アリサの肩が下がる。


「だが、今日はもう遅い。通常の配送も終わっている。あの絨毯も帰った」


 確かに、ツワブキ家の運搬絨毯は、とっくに空中連絡橋の向こうへ消えていた。


「あの配達人、本当に置いて帰ったな……」

「ツワブキ家専用ってそんなに忙しいのかよ」

「まあ、名家は色々あるじゃん」

「はあ……本家へ連絡し、明日迎えを寄越させる。それまでは学院に泊まれ」

「はい!」


 アリサの顔が一瞬で明るくなる。


「でしたら、今夜の間に必ず、お嬢様に必要な付き人になってみせます!」

「そういう意味ではない!」

「まずは何をいたしましょう! お部屋のお掃除ですか? お食事の用意ですか? それとも、こちらの皆様を追い払いますか?」

「何で最後だけ物騒なの?」


 沙耶香が一歩離れた。


「もういい。何もするな」


 レイナが吐き捨てる。


「承知しました!」


 アリサが背筋を伸ばした。両手を身体の前で揃えて、ビシッと効果音が鳴りそうなほど直立した。

 十秒経過して、二十秒経過して、三十秒経過。

 微動だにしない。


「……何をしている?」

「何もしておりません!」

「そういう意味ではない!」


 今日何度目か分からないレイナの怒鳴り声が、中庭へ響いた。

 何なんだろう、この子。真面目なのか融通が利かないのか。

 多分、両方だ。

 そのとき、積み直されていた鞄が、ゆっくりと傾き始めた。


「危ない!」


 沙耶香が叫ぶ。けど、アリサは動かない。


「アリサ、避けろ!」


 レイナが命じた。


「はい!」


 アリサが全力で横へ飛んだ。

 俺の方へ。


「え?」


 視界いっぱいに白いエプロンが広がる。

 次の瞬間、固いものと柔らかいものが同時に顔面へぶつかった。


「いだっ!」

「申し訳ございません!」


 あ、俺今背中からこの石畳に倒れたんだ。俺の体の上に、アリサの体が乗っていて、そこで彼女は頭を下げていた。


「いっつつ……あれ? ラジオは!?」

「女の子とぶつかっておいて心配するところ、そっち?」


 沙耶香の突っ込みを聞き流して、手元はどうだ?

 先日の事件から、電源を入れても音が出なくなっていた携帯ラジオ。

 これからルカと中を調べるつもりだったけど、裏蓋には今、新しいひびが入っていた。


「壊れてるところが増えた……」

「直す前から増やすなよ」

「いや、これは俺のせいじゃないだろ」


 もちろんアリサのせいでもない。これは多分、鞄のせいだ。……まあ、ここも直せばいけど。


「あの、大丈夫でしょうか」


 アリサが、俺ではなくラジオを見ていた。


「これ?」

「はい。わたしが壊してしまったのでしたら……」

「元から壊れてたから大丈夫だよ。ひびが一個増えただけ」

「増えているではありませんか!」

「まあまあ。直す場所が一つ増えただけだよ」

「ですが……」

「まだ直せるかもしれないだろ。ところでさ……」


 俺は頬を掻いて、尋ねた。


「そろそろ退いてもらえないかな? 起き上がれないんだけど」

「ですが、起きるよう命じられておりませんので!」

「そこは自分で退いて!?」

「そこは自分で決めろよ!」


 俺の声に合わせて、ルカの叫びも響いた。

 その後ろで、傾いていた五つの鞄が、ついに崩れる。

 四つ目から溢れていた羊毛が、ふわりと空へ舞い上がった。

 夕日に照らされた白い毛が、中庭いっぱいへ降り注ぐ。

 レイナは額を押さえ、沙耶香は呆れ、ミカだけが楽しそうに羊毛を捕まえている。

 その中心で、アリサ・ミネウチは、俺の上に座ったまま、逆さまの学院地図を大事そうに抱えていた。

 学院へ到着してから、まだ十分少々。それなのに、もう嫌な予感しかしなかった。

 多分、明日の朝まで何も起こらない、なんてことはないんだろうな。


「その多分、信用できない」

「まだ何も言ってないけど」

「顔に書いてある」


 結局、レイナが「立て」と命じるまで、アリサは俺の上から動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。