狐面
西避難区画へ着く頃には、学院の中は完全に戦場になっていた。
遠くから爆発音が響くたびに、石造りの壁がわずかに震える。
魔法灯は点いたり消えたりを繰り返し、廊下の窓から見える学院も場所によって明るさが全然違っていた。
「一年生、こっち! 中へ入って!」
避難区画の前では、上級生と寮監らしい職員が生徒を誘導していた。巨大な石の扉はすでに開かれていて、中には沢山の生徒たちがすし詰め状態になっていた。
「よかった……! 全員いる?」
沙耶香が振り返った。
「さっきの実技組はいると思うじゃん」
ミカも人数を数える。合計十八人。
「十五だ」
「なら三十三……よかった、先生に言われてた人数と合う」
ああ。俺も安心した。とりあえず、ここまで連れてきた生徒は全員いる。
「さーやも入ろ」
「うん」
ミカに引かれ、沙耶香も避難区画へ向かう。けどそこへ、ルカが「待った」をかけた。
「何?」
「また変わった」
ルカの視線の先には、廊下に刻まれている魔法陣だ。
魔法陣に、淡い光が戻っている。それが示すのは……
「魔法戻った? ……《灯火》」
試してみると、杖の先に小さな火が灯る。
「使えた!」
「でも全部じゃなさそうだ」
ルカが自分の腰に下げた魔道具へ魔力を流す。
一つは確かに光っているけど、もう一つは反応しない。
「妨害されてる術式とされてない術式があるのか?」
「そんな器用なことできるの?」
「今まさにやられんだろうが。」
ルカは壁の魔法陣と、自分の工具を交互に見る。
その時、避難区画の扉が突然動き出した。
俺たちをこの避難区画に閉じ込める扉だ。このままいけば、俺たち……そして何より、敵の目的である沙耶香は、騒ぎが収束するまで安全だろう。
だけど。
大きな石扉が止まった。まだ閉まり切っていないのに。
「な、何これ! 全然止まってるじゃん!」
とミカが叫ぶ。
「制御術式が切られた! 手動装置へ切り替えろ!」
外側の上級生たちが動き出している。だけど、彼らがどれだけ動いても、全く扉は動かない。
「やっぱり、アイツらはただ魔法を止めてるんじゃないな」
ああ、ルカに同感だ。
「本当に妨害できるものを分けられるんなら、邪魔したいところだけを選んでいるんだろうな」
俺たちは一度、避難区画から出る。動かない扉になったこの場所は、もう安全とは言えない。他にも、何人もの生徒たちが区画から這い出ていて、上級生たちは困ったように互いに顔を合わせていた。
その直後だった。
俺たちのすぐ前の壁が、爆発した。
ぶあっと埃が舞い上がって、避難区画の入口が揺れる。
「侵入者だ!」
上級生の一人が叫んだ。
すぐ目の前に危険人物がいる。それを理解した途端、生徒たちに一気に混乱が襲い掛かってきた。
「落ち着け! 皆、向こうに避難するんだ!」
上級生の号令に、生徒たちは我先にと逃げていく。上級生も遅れて、殿を務めるように去っていった。
きっと、俺たちの姿は煙に囲まれて見えなかったんだろう。
やがてこの廊下に残っていたのは、俺と沙耶香、ルカの三人___と、それを心配して避難の足を止めたミカとレイナだけだった。
突然、爆煙の中から、何かが飛び出した。そのまま地面に落ちた黒いローブを見て、俺たちは息を呑む。
魔法史の先生だ。見知った教師が、どこかで侵入者と戦って、完全に木を失っていた。
「大丈夫。生きてるはずだから」
「え?」
その声は、女の物。
コツコツとした足音とともに、煙の中から相手のシルエットが露になっていく。
真っ先に目に入ったのは、狐。
白い、狐の顔を模したお面だ。外でセレナ先生と戦っているカブキ野郎とは違って、入っている模様の色は赤ではなく金色だ。だけど、顔全体を隠しているものではなく、口元はそのままはみ出ていた。
黒い和服は、本当に闇に紛れているみたいに判別が付き辛い。だけど、そのシルエットから、相手は確実に女性だ。
そして腰には、人間の機械みたいな箱と魔道具の両方が備え付けられていた。
「逃げないんだね、君たち。とっても勇敢だ」
彼女の優しさが滲み出ている声に、俺は思わず聞き入ってしまう。
この声___忘れるはずもない。あのインカムから流れてきた声と同じみたいだ。
それだけじゃない。もっと前。ずっと前に聞いた……。
「お姉ちゃん……なの?」
隣で、沙耶香の声が響く。
俺も、ルカも、ミカも、レイナも。もしかしたらと思っていたけど、沙耶香の震える声に半ば確信めいてしまう。
やがて、煙が完全に晴れた。彼女が爆発で開けた穴から陽が差し込んで、彼女のこの上ない黒髪が露になった。
沙耶香と同じ黒髪。……人間の黒髪だ。
狐のお面のまま、この女性の口元が動く。
「久しぶり。沙耶香」
「……!」
もう、決まりだ。沙耶香の顔を見なくても分かる。
「柊……舞維……!」
レイナが、その名を口にした。
「史上初の御霊代魔法学院……いや、魔法学校に足を踏み入れた人間……!」
本当に、舞維さんなのか。
目の前に迫る現実に、口の中が一気に乾燥していく。
「ミカ」
一方で、沙耶香がゆっくりとミカへ振り返っている。
「さっき逃げた子たち、ちゃんと避難区画まで行けるか分からないから……追いかけて」
「追いかけてって、さーやは?」
「私は大丈夫」
「全然大丈夫に見えないじゃん!」
ミカが舞維さんを見る。
明らかに、あの狐面に恐怖を抱いている。当然だ。彼女からすれば、今の舞維さんは沙耶香の姉である以上に危険人物だ。
それでも、逃げようとはしなかった。
「ミカ」
今度はレイナが言った。
「ここに五人残る必要はない。お前にしかできないことをしろ。今避難している連中を、一人も置いていくな」
ミカはしばらく黙っていた。
それから、この場にいる全員を一人一人見つめて。
「絶対、後で来てよ」
「うん」
「マナッちも、ルカっちも……今多分とか言ったら怒るから!」
「言ってない!」
「……じゃあ!」
そう言ってミカは、上級生たちが消えた通路へ走り出していった。
「俺も、ちょっと離れる」
今度はルカが言い出した。
ええ……お前は魔道具詳しいし、できれば一緒にいてほしいんだけど。
でもルカの視線は、舞維さんではなく壁や天井に向かっていた。
壁の魔法陣は、さっきから点いたり消えたりを繰り返している。
「さっきからおかしいんだよ。ここの妨害だけ、切り替わりが早すぎる」
「つまり?」
「近くに中継器がある。それを止められれば、ここだけでも魔法が戻るかもしれねえ」
「分かるの?」
「分からん。だから調べる!」
こいつも大概だな。
ルカは俺の肩を叩いてから、魔法設備の保守通路へ飛び込んでいく。
「へえ、彼もすごいね。ご名答だ」
いなくなったルカの背中に向けて、舞維さんは素直に称賛した。
「正解だ。確かに、中継器は近くに設置してあるよ」
「それをわざわざ聞こえるように言う理由はありませんよね?」
レイナが冷静な問いに対して、舞維さんは静かに首を振る。
「君たちがこのことをあの子に伝えたところで、この状況がどうにでもなるとは思っていないからね。それより君……ツワブキの人だよね? なら、こんなところで怪我をする必要もないでしょう?」
「沙耶香は私の同級生だ。そして、今この場で守るべき学院の生徒でもある。テロリストに屈する方がツワブキの名折れだ」
「ふーん。真面目だね」
「貴女ほどではない」
「私?」
「九年も学院に恨みを抱いて、わざわざ戻ってきたのだろう?」
舞維さんの口元から、笑みがすっと消えた。すぐに口元に笑みが復活するけど、今度はどこか冷たさを感じた。
「口が上手いね。お父さんの影響?」
「褒め言葉として受け取ろう」
レイナは右手に即、魔力を集めた。
杖なしで、雷魔法の魔法陣が現れたけど、すぐに乱れる。
「《紫電》!」
それでも雷は、この廊下を走った。
舞維さんが横へ避けるけど、彼女の雰囲気から油断が明らかに消えていた。
「すごいな。雷魔法は使えなくなっているはずなんだけど、君は使えるんだ」
「さすがに本調子とはいかないがな」
本当に? レイナの腕、雷魔法の失敗みたいに少しビリビリしているけど。
「なら、退いた方がいいよ」
「断る」
レイナはもう一発使おうとするけど、今度は出ない。
「ぐっ……」
「魔法を封じられたらもう終わり?」
舞維さんがゆっくりとレイナに近づく。
「名門の魔法使いも、大したことないね」
「……そうだな」
レイナが不敵に笑った。
「今の私は、貴女より弱い。が、だから何だ」
レイナは躊躇いなく、壁際の長椅子を蹴り飛ばした。
ガガッ! と床が削れる音とともに、椅子は舞維さんの進路へ滑り込む。
「魔法が使えないからといって、退く理由にはならない!」
舞維さんは一瞬だけ足を止める。
「マナト! 沙耶香! 今のうちに下がれ!」
「でも……!」
「早く!」
その間に、舞維さんが長椅子を飛び越えた。
レイナの拳はあっさりと避けられて、逆に腕を取られた。
「っ!」
「いい子だね。君みたいな子は好きだけど」
舞維さんがそのまま、レイナの身体を崩す。首筋を手にした棒で軽く打つ。
「今は寝てて」
「――っ」
レイナが、あっという間に崩れ落ちた。
倒れる前、その体を舞維さんが受け止めた。
そのまま壁際へゆっくり寝かせる。
「大丈夫。しばらく起きないだけだから」
「レイナ……」
「これで、邪魔する人は、もういないかな?」
舞維さんはゆっくりと俺に視線を向けた。
止まっていた俺は沙耶香の前に立つ。すると、舞維さんはほほ笑みながら言った。
「退いてくれないかな? 君まで傷つく必要はないよ?」
「舞維さん……」
心臓が跳ねあがっていく。
あの時憧れた人が、俺に対しても敵意を持っている。だけど、やっぱり。
「俺……俺は……」
「うん?」
「マナトだよ。マナト・アズマ」
こんな状況で名乗るってどうなんだろう。
だけど、舞維さんは一瞬固まった。あの白い面の下で、困惑しているようにも感じる。
今だ、と俺は続けた。
「九年前、ラジオとか電池とかボールペンとか、人間のものを沢山見せてくれたじゃん!」
「え?」
「いっぱい質問して……面倒くさいって言われて、でも人間の町に一回連れて行ってくれて……!」
「え? 待って待って! 君、まさか……」
「俺は、その面倒くさい子だよ」
「……」
何秒経った?
舞維さんはしばらく、仮面のまま俺を凝視していた。
そして、彼女の口が小さく動いた。
「もしかして……マナト君? え? 嘘!? あの時の子!?」
「そうだよ! アレ、俺!」
「ええ!?」
想像よりもすごい反応だった。さっきまでのミステリアスさなんてどこに吹っ飛んだのか、そこにいるのは狐の面をしているだけの、あのお姉さんだ。
「本当にマナト君なの!? 何で君がここにいるの!?」
「そりゃあ、入学したからだけど」
「御霊代に!? 君、魔法使いだったの!?」
「そうだよ」
「聞いてない!」
「言わなかったっけ?」
「聞いてないよ!」
「魔法見せなかった?」
「……ああ、そういえば見たかも。うん、見せてくれてた気がする」
「じゃあ知ってたじゃん!」
「六歳くらいの子が魔法見せてきたから、玩具とか手品みたいなものだと思ってた!」
「ひどい!」
「だって君、人間のもの見るたびに『何これ!?』って……」
「今でも言う」
「……あっちゃあ」
舞維さんは頭を抱えて、突然笑い出した。
「すごい……! 本当にマナト君だ……!」
その笑い方、九年前と同じだ。
俺が何か聞くたびに、面倒そうだけど、楽しそうに笑っていたあの人だ。
なぜか悪いことをしているし、お面のせいで顔全部は見えないけど、それでも間違いなくあの人だ。
「お姉ちゃん……」
沙耶香が俺の隣に並ぶ。
すると、一通り笑い終えた舞維さんが「ふう」と息を吐いた。
「うん、こりゃあ驚いたなあ。まさか沙耶香とマナト君が友達になっていたなんて」
「九年間、どこで何していたの? 何で帰ってこなかったの? 何で……」
「こんな悪いことをしているの?」という、沙耶香の最後の質問は、とても小さな声だった。
長い沈黙が流れた。
でも、舞維さんは逃げなかった。さっきまで笑っていたのに、その心にさえ仮面をつけているみたいだった。
「帰るつもりがなかったから」
「え?」
あまりにも普通に言った。
だから、その言葉の意味が分からなかった。
「帰るつもりが……」
「うん。なかった」
「帰れなかった、じゃなくて? 捕まってたとか、無理矢理脅迫されていたとか?」
「違うよ」
「嘘……嘘でしょ? お姉ちゃん」
沙耶香が狂ったように首を振っている。
だけど、平然としている舞維さんの態度が、何よりもそれが事実だと物語っていた。
「ごめん。詳しいことは言えない。沙耶香、とにかく今は一緒に来て。」
なんとなく、焦っているみたいだ。
彼女は一歩、また一歩と俺たちに迫って来る。だけど、向こうからやってきた真実に対して、俺たちは思わず後ずさりを始めていた。
同時に、外から爆発音が轟く。セレナ先生とあの白塗りの大男は、魔法もないのになんであんな音を出しながら戦っているんだろうか。
「外で学院襲ってる人たちと舞維さんは……」
「うん。一緒に来た。お友達」
「何で?」
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「魔法、好きだったんだろ?」
「うん。もちろん、今も好きだけど。___それは別」
初めて、舞維さんの声も少し強くなった。
「私は魔法を消したいわけじゃない」
「じゃあ何で止めるの!」
「止める必要があるから」
「だから何で!?」
「君、相変わらず面倒くさいね。質問したらなんでも返ってくるわけじゃないって、まだ分からないかな?」
少し、彼女の声が冷たくなった。
「マナト!」
沙耶香の声が響いて、俺の体が無理矢理引っ張られる。
すると、俺がいたところに、鋭い峰打ちが走った。
今、彼女は本気で俺を打ち倒そうとした。
「……舞維さん」
「ごめんね、マナト君」
舞維さんは棒を軽く振る。
「退いてくれないなら仕方ない」
狐面の奥で、どんな顔をしているのか分からない。
ただ、ほんの少しだけ、舞維さんの構えが止まった。
そして、腰の機械へ指をかける。
カチッと、小さな電子音が響く。
同時に、舞維さんの周囲へ、いくつもの魔法陣が浮かび上がった。
「人間のスイッチで……魔法陣が出た!?」
火、水、風。
俺でも分かる術式が三つに、見たことのない魔法陣がそれぞれ舞維さんの前に並び立つ。
反射的に杖を向けるけど、相変わらず魔法は使えない。
「マナト。逃げる?」
「もう無理そう」
「そこは『多分』って言いなさいよ」
「多分、無理」
「悪化してる!」
でも、俺は杖を下ろさなかった。
九年前、ずっと会いたかった人。
その人が今、俺たちの前に敵として立っているんだ。
「舞維さん。俺……退かないよ。沙耶香は……友達だから」
「そっか。じゃあ――」
舞維さんの笑みが大きくなる。すると、魔法陣が一斉に輝いた。
「やってみようか」




