お姉ちゃんのノート
放課後の、共用談話室。
俺は一人で、丸々四人用の机を占拠していた。目的はもちろん、昨日借りた雷術の本との格闘。結果は俺の脳のノックアウトだ。
「敬意って、どこから生まれてくるんだよ……」
思わずそんな文句さえも口から出てくる。
休憩だ、と思って顔を上げると、いつの間にかそこには沙耶香の顔があった。
「うおっ!」
正直びっくりした。転げ落ちそうになる俺に微笑みながら、彼女は「捗ってる?」と尋ねてきた。
「ダメだ……全然わかんねえ……魔法ってここまでこんがらがるものだったんだ……」
「便利なものがあると、中身の理解が疎かになるのって、どこの世界でも同じね……あんたならそういうの全部ひっくるめて楽しみそうだけど」
「いやいや、俺を何だと思ってるんだ」
「マナト」
「名前答えればいいってもんじゃないからな」
沙耶香が笑いながら椅子を引いて、当たり前のように座った。
最初のころは俺が近づくだけであからさまに嫌そうな顔をしていたのに、今では自分から俺のところに来てくれる。もっとも、好感度が上がったというより、魔法を教える人間として利用価値を認められただけかもしれない。
なら、その利用価値をしっかりと果たすとしますか。
「で、今日は何やる?」
また何かの魔法の教本が出てくると思ったけど、沙耶香は珍しくその類を取り出すことはなかった。
代わりに彼女が取り出したのは、教本とは思えないほど薄く、とても小さいものだった。
「その前に、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
「何? 人間のもの?」
「何で嬉しそうなの」
「……違うの?」
「半分くらいは人間のものかも」
「何それ、ますます気になる」
ワクワクしていく俺の目の前で、沙耶香が机の上へ置いたのは、一冊の古いノートだった。
表紙は紺色。角は擦れて白くなり、何度も開かれたせいか背表紙も大きく歪んでいる。
「……これ、触っていいやつ?」
「うん、いいよ」
「おお、珍しい」
「壊さないでよ」
「ノートなんて分解しないって」
「マナトなら紙の材質調べるとか言い出しそうだから」
そんなことは――少し興味はあるけど、今はやめておこう。
パラパラとめくりながら、俺は「誰の?」と聞いてみた。
「お姉ちゃんの」
彼女はあっさりと答えた。
だけど、全く予期していなかった返答に、一瞬目が点になった。
「……お姉さん?」
「うん」
沙耶香の姉。つまり、人間っていうことになる。
でも、このノートには、あきらかに魔法関係のことが多く書き記されている。ただの偶然の一致で片づけられる量を、軽く超えている。
いや、いる。たった一人、人間でこの魔法関係を書き得る人物が。
「もしかして、沙耶香の前に御霊代に入学したのって……」
「私のお姉ちゃん。柊……舞維」
「え、あの史上最初の魔法学院に入学したのって、沙耶香のお姉ちゃんだったの!?」
沙耶香は頷いた。
ちょっと、手が震えてきた。
つまり、手元にあるこのノートは、御霊代に初めて入った人間が残した物だということだ。
「そのノートは……お姉ちゃんが御霊代にいた時に使っていたノートよ」
「え?」
「家に残ってたの。お姉ちゃんの部屋に」
沙耶香が表紙を指で撫でる。
「いなくなったあと、荷物はほとんどそのままだったから」
「……いなく、なった?」
「うん。九年前にね……」
九年前。その言葉だけ、妙に耳へ残った。
改めてノートに目を落とすと、細かな文字で魔法についての記載が俺を出迎えた。続けて、これまた大まかな基礎術式や、魔力の流れについて。これ、三、四年生ぐらいの内容じゃないかな。
「すごいな……沙耶香はこれ、ずっと読んでた?」
「もちろん。何回読んだか分からないくらいね。私が魔法を勉強し始めたきっかけの一つだもん」
「ほー……字綺麗だな」
「昔からね」
「沙耶香よりも」
「閉じていいよ」
「冗談だよ」
危ない危ない。いいところで没収されるところだった。
ページをめくる。
最初はごく普通の授業ノートだった。
教師の説明や術式の構造、様々な実験結果など。
ところどころに本人の疑問らしい書き込みがある。
『魔紋の役割は本当に術式補助だけ?』
『魔力を外部から整えた場合、魔紋のない人間でも同一の結果を再現可能』
『魔法使いは無意識部分が多すぎる。比較実験が必要』
「……これ、俺が沙耶香に教えたのと似てる」
魔紋のない人間には、魔法使いが無意識に行う工程を外から追加する必要がある。
俺が沙耶香の魔法を見て、たまたま気づいたことに、沙耶香の姉は何年も前に気づいていたらしい。
「え? ……本当だ……」
沙耶香の声が少し沈む。
「お姉ちゃんは自分でできてたんだ」
「そりゃ一人目ならな。教えてくれる人いないだろうし、見つけるしかないじゃん」
「簡単に言うね」
「簡単じゃない?」
「簡単じゃないわよ!」
ああ、怒られた。でも、息を呑むほどすごい書き込み量だ。
ただ授業を受けた記録ではない。
教わったことに疑問を持って、自分なりに書き換えている。
俺が人間の機械を開けて中を見るのと似ているかもしれない。
仕組みが気になる。何でこうなるのか知りたい。そんな気持ちがありありと伝わってきた。
「お姉さん、どんな人だったんだ?」
「……どうだろ。よく変なことはしてたけど」
「例えば?」
「家に帰ってきたと思ったら、庭でずっと空に魔法陣描いてたり」
「何の魔法?」
「知らない。聞いたら『失敗した』って笑ってた」
それに、と沙耶香は続ける。
「お姉ちゃん、魔法大好きだったよ」
「そうなの?」
「うん。魔法学校に入れるって決まった時、私よりはしゃいでたし、魔法の話になるとずっと喋ってた。知らないこと見つけるとすぐ調べて」
「へえ……面白そうな人だね」
「うん。マナトとは気が合うかもね」
何気ない一言に、なぜか引っかかった。
「……そうかな」
「何?」
「いや」
なんとなく、彼女が言う姉の人物像が、昔会ったあの人のそれと重なった。
知らないものを見つけると楽しそうに笑って。
俺が魔法について説明すると、大人なのに子供みたいに質問してきて。
でも、似ているからってその程度で同一人物っていうのは、ちょっと早計かな。
「もっと後ろ見て」
沙耶香に言われ、ページをめくる。
すると、途中から内容が変わった。
「何これ?」
「そこ、私も分からなかった」
授業の記録より、だんだん自分で考えたらしい術式の方が増えていった。
魔力を外部から制御する装置や、魔紋を持たない人間用の補助術式。
それに、魔道具を介した魔法発動なんてものまである。
「これ、ルカが見たら喜びそうだな」
「確かに」
さらにめくる。
そこには、見開きいっぱいに今までと違う図が描かれていた。
魔法陣と、その周囲に、小さな四角や線。何らかの術式かと思ったけど、色々な部品があるから、魔道具の設計図にも見える。
その中で俺の目を引くものがあった。
「これ、人間の回路図じゃないか?」
「分かるの?」
「なんとなくね、そんなふうに見える……」
人間の電気機器を分解すると、中に板が入っていることがある。
細い金属の線が何本も走り、小さな部品が並んでいるんだ。このノートにも、それによく似た構造が描かれている。
ただし中央には魔法陣がある。
「もしかして、お姉さんは魔法と人間の機械を繋ごうとしてたんじゃないか?」
「この前のマナトたちみたいに?」
「かもね。前例がいたかあ……」
残念と思うのと同時に、胸が高鳴る。
昔この学院に、人間なのに俺たちと同じことを考えていた人がいたんだ。
もし今会えたら、どんな話をするだろうか。
「ねえ、あとここ、意味分かる?」
沙耶香が指差したのは、図の横の小さな文字だ。
『外部干渉による魔力流の変化を確認』
『出力を上げれば、術式そのものの形成を阻害できる可能性あり』
「術式を阻害? ……魔力の流れを外から乱すってことじゃない?」
「そんなことできるの?」
「理屈ならね」
例えば、魔法を使う直前に魔力の流れを崩されたら術式が完成しない。杖に至る魔力だって不十分で、魔法がそもそも成立しない。
「でも、何のためにこんなの研究してたんだろ?」
「マナトでも分からない?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「変なことに詳しい人」
「褒めてる?」
「半分くらい」
もう一度ノートを見る。
だが、その先が……。
「……ない」
「そうなの」
次のページは破られていた。
一枚ではない。かなりのページ数が根元から綺麗に切り取られていた。
そして残っているページから、急に内容が普通の授業記録へ戻っていた。
「これって、最初からこうなっていたの?」
「少なくとも私が見つけた時には……ねえ、マナト」
沙耶香が顔を近づけてくる。
「私、お姉ちゃんが学校で何してたのか知りたいの。お姉ちゃんが……」
「……」
「どうして急にいなくなったのかも」
いなくなった。その言葉に、改めて空気が重くなる。
俺はもう一度ノートを見下ろした。俺と似た考えを持った人が、家族に___妹に何も言わずに、行方不明になってしまった。
「……先生には聞いたの?」
「聞いたことある。でも詳しく教えてくれなかった」
「学校には記録残ってないの?」
「それを調べたい」
「じゃあ調べればいいじゃん。図書館とかに、記録くらいあるだろ」
「生徒の昔の記録なんて見られるの?」
「見られるんじゃない? ……多分」
沙耶香が俺を見る。
「……その多分、信用できない」
「とりあえず!」
雲行きが怪しくなる前に、俺はノートを閉じた。
「お姉さん……舞維さんを、一緒に探そう」
「え? ……何で?」
「面白そうだから」
「……」
「あ」
間違えた。これは絶対に間違えた。
沙耶香の目が細くなる。俺は慌てて「それだけじゃないから!」と付け加えた。
でも本当のところ、俺自身も気になっていた。
魔法を学んだ一人目の人間が、人間の機械と魔法を組み合わせようとしていた。
そして突然、この学校からいなくなった。なんでだろうか。
それに何より、話を聞けば聞くほど、あの人のことを思い出す。
「昔会った人に、ちょっと似ているかもな……」
「昔会った人?」
「……俺が人間好きになったきっかけをくれた人。あれは……結構昔のころだけど、その人も学生だったんだ」
「え? どんな人?」
「どんな人って?」
「年齢とか、外見とか、名前とか!」
「いきなり質問多いな……」
「いいから答えて!」
必死の形相に、俺は思わず記憶を呼び戻すけど、今の沙耶香はそれほど気が長くないらしい。
「年って、高校生くらい?」
「こうこう……?」
「ああもうッ! 私たちか、少し上くらいの年かって聞いてるの!」
「ああ、多分な。制服着てたから、御霊代の人だったんじゃないかな」
それに対する返答は、無言。いつもの信用できない、が飛んでこなかった。
「……いつ?」
「俺が六だったか七だったかくらいだから……九年くらい前?」
「髪は?」
「……黒。沙耶香と同じくらい。あと、長かったような」
「名前は!?」
「それが覚えていない……」
「何でよ!」
「九年前だぞ!」
そんなにヒステリックになっても困る。
というか、あの人の名前、俺はちゃんと聞いたことがあったのだろうか。
一方で、あの人が俺の名前を呼ぶ記憶が、ごっそりと抜け落ちている。
それでも、俺たちの共通点が、遥か昔にはもうあったんじゃないか。そんな予感は、半ば確信になりつつあった。




