氏政
「お久しぶりです、滝川殿」
「おお、鍋島殿か。織田家のために、よくやってくれておるようじゃな」
「某は九州のために動いているだけのことです」
北条との交渉に同行するのは、武田の時と同じく滝川左近一益であった。一益はもとより東国との交渉事を任されている。
「武田や上杉との和睦はまとまりましたか?」
「うむ。上杉には越中一国と七尾城を譲り、武田には美濃東部を譲る代わりに駿河一国を徳川に渡してもらうこととなった。それと、上杉と武田からは、鬼との戦に協力するとの約束を取り付けておいた」
上杉はおよそ一万、武田は二万五千の兵を出すと約束した。遠く九州まで派遣できる軍勢としては、この程度が現実的な限界であろう。
「武田は駿河一国を差し出したのですか? 駿府だけではなく?」
「そうじゃな。まあ、実のところ、これは武田にとって得なのじゃ。駿府なき駿河など、守るのに手間がかかるだけ。であれば、いっそ徳川に全て渡し、北条と国境を接させた方が、北条への牽制になるというものじゃ」
「武田から言い出したのですか?」
「うむ。更には、駿河を全て譲る代わりに、徳川が国内に新たな城を築くことを禁じたとのことじゃ」
「真田殿の入れ知恵でしょうか」
「さてな。まあ徳川殿は悔しがっていたが」
家康が駿河一国ではなく駿府のみを要求していたのは、むしろその方が徳川にとって好ましいからであった。武田を北条への盾に残しておきたかったのである。
「まあ、鍋島殿は一先ず、そちらのことは気にするな。今は小田原に急がねばな」
「はい。急ぎましょう」
〇
相模国小田原城は広大な平城であり、城下町の一部まで土塁で囲んだ、総構えに近い構造の城である。外堀は現在も拡張工事中であり、いずれは城下町全てを囲う、天下一の総構えとなる予定らしい。
信生と一益は小田原城に入ることを許されたが、警戒されているのか、供の兵を城内に入れることは許されなかった。
「お初にお目にかかります。滝川左近一益にございます」
「思っていたより老けておるのう」
北条家の当主は北条氏直であるが、実権を握っているのは、その父・北条氏政である。氏政は値踏みするような視線を一益と信生に向けた。その態度はとても友好的とは言えなかった。
「そしてこちらは、龍造寺家臣、鍋島孫四郎信生にございます」
「肥前より参りました、鍋島孫四郎と申します」
「そこまでして北条を味方につけたいか?」
「はい。何としてでも北条殿には、鬼の討伐に手を貸していただきたく存じます。北条は天下で最も民のことをお考えになる大名とお聞きします。そのお力を、九州の民を救うために、どうかお貸しくださいませ」
信生が頭を下げると、一益もそれに倣った。
「それはやぶさかではないが、先日の上野における騒動、あれを起こしたのは織田だな?」
「上野のことに織田が関わっているはずがありません」
「なれば鍋島が勝手にやったことか?」
「家臣の一人もおらぬ某に、あのような大それたことが出来る訳がありますまい。そもそも、北条安房守殿が甲斐に参れば、このようなことにはなりませんでした」
「知らぬ顔が得意な連中よ」
氏政は高笑いした。
「北条殿は我らを信用出来ぬと仰せですか?」
信生は直截に尋ねた。
「この乱世において、信用などあるものか。人質、起請文、御内書、どれも信じられぬ」
「それは……」
「儂は織田など信じておらぬ。信じる気もない。しかし、取引とはそういうものよ」
「なれば、取引に応じていただくことは出来ると?」
「よい取引であればな。銭は銭、国は国じゃ。一度手に入れれば、その価値は消えぬ。さて、織田は何を北条に与えてくれるのだ?」
織田と北条の領国は全く接していない。武田や上杉との交渉で行ったように、領地を取引材料とすることは不可能だ。氏政からの問いに、一益が答える。
「その前に、北条殿には西国の鬼を討伐するための兵を出していただきます。それが前提ということは、ご承知おきですかな?」
「無論のこと」
「その上で、北条殿は何をお望みですか? 可能な限り円満な和睦を成立させよと、上様は仰せです」
「それを儂に聞くか。では……儂は関八州を所望する。武田が領する上野を除き、関八州のうち北条が手にしておらぬ全ての国をもらおうか」
「恐れながら、坂東に織田の領地はございません。織田から譲れるものなど何もないかと存じますが……」
北関東の下野や常陸は、まだ北条家の支配下に入っていない。特に常陸の佐竹家は北条に強力な抵抗を続けている。房総半島の里見家は北条に従属しているが、いつ裏切るかわからない。
「何、大したことではない。下野・常陸・上総・下総・安房の切り取り次第を与えてくださればよいだけのこと。織田殿の手は煩わせぬ」
佐竹や宇都宮の国力は北条に遠く及ばないが、北条がこれらを攻め滅ぼせなかったのは、武田や上杉に背後を脅かされていたからであった。
要するに氏政は、武田や上杉への警戒に充てていた兵を、北関東侵攻に転用しようとしているのである。
「北条殿、この期に及んで人同士で争うと仰せか」
「坂東一統を成し遂げた後には、きちんと四万の兵を送る用意がある。それで鍋島殿も満足であろう?」
信生は氏政を非難したが、氏政は歯牙にもかけない。




