勝頼の真意
それから三日後、躑躅ヶ崎館に滞在する氏照のもとに、氏政からの書状が届いた。
「――して、源三殿、相模守殿の書状には何と書いてあったのだ?」
「殿は、氏邦を甲斐に行かせるつもりはないが、氏邦の重臣・猪俣能登守を甲斐に送る用意はあると申しております」
氏照にとって満足のいく返事ではなかったが、交渉の余地はある。
「ほう。氏邦を送らぬ訳は?」
「北条の家臣が武田から何かを命じられる筋合いはないと仰せです」
「そうか。であれば、やはり北条を信用することは出来ぬな」
「お、お待ちください、武田殿! これは何かの誤解のはず」
「そうであったとしても、北条が武田を侮っていることはわかった。今後、本当に諍いが起こった時、取り返しのつかぬことになるやもしれぬ」
「そ、それは……」
武田と北条は、鬼の出現という異常事態を受け、急場しのぎとして手を取り合ったに過ぎない。やはりこの状況で互いを信用し、共に織田と戦うというのは、無理があったのだ。
「今後どうするかは、家臣らの意を確かめた後、改めて源三殿に伝えよう。それまで、暫し待て」
「……はっ」
〇
そういう訳で、勝頼は家臣らを集め、評定を開いた。
名胡桃城における変事は限られた者にしか伝えられておらず、大半の家臣にはこの場で初めて、勝頼の口からそれを伝えられることになった。
「跡部、北条についてどう思うか?」
跡部勝資は織田に対する強硬派の筆頭であった。
「北条が信用ならないのであれば……残念ながら、織田とは戦えませぬ……。織田・徳川の東国への備えは九万に対し、武田・上杉の全ての兵を合わせても六万五千。北条を警戒しながらであれば、相手になりませぬかと……」
「うむ。後背に北条を抱えたまま、武田と上杉だけで織田と戦うとは、無謀と言わざるを得ぬ」
「しかし御屋形様、まだ北条が名胡桃城を襲ったと決まった訳ではないのでは……」
「その真偽は、最早さしたる問題ではない。北条は我らに誠意を見せる気すらない。この有様では、盟約は成り立たぬ」
これは単なる和睦ではなく、共に織田と戦う同盟である。互いを信用出来ないのであれば成り立たない。多くの家臣は勝頼のこの言葉に頷かざるを得なかった。
「しかし、北条は人質として実質的な当主のご息女を出しております。これは誠意と見るべきではございませんか?」
武田の一門衆、穴山梅雪は言った。
「相模守殿自身に誠意があったとて、自らの弟の手綱も握れぬようであれば、やはり信用は出来ぬ」
「はっ……」
「御屋形様、北条が頼りにならぬ以上、ここは織田に恩を売る形で和睦するのがよろしいでしょう。鬼との戦いに兵を出すと言えば、織田も武田を丁重に扱わざるを得ますまい」
真田昌幸は言った。
「織田に屈せよと申すか」
「一時の辛抱にございます。今は織田に跪こうとも、生きてさえおれば、いずれ捲土重来の機会も巡ってきましょう」
「よくぞ申した。武田は織田と和睦する。皆の者、よいな?」
大勢は決した。武田は織田との和睦交渉を再開した。遠江遠征は立ち消えとなり、相模に集結していた北条勢は解散となった。なお、北条方からの人質であった円妙院は丁重に送り返されている。
〇
その日の晩、勝頼は昌幸を呼び出した。
「わざわざのお呼び出しとは、何用にございましょうか」
「真田、そなたの離間の計、見事であったぞ」
「……何を仰る」
「儂が気付いておらぬとでも思ったか? 此度の騒動はお主の策であろう」
「儂はここ暫く躑躅ヶ崎館におりました故、関わることは出来ませぬぞ」
「隠すことはない。儂は真田を処罰しようと思っているのではないのだ。むしろ感謝しておる」
「……一体何を仰っているのやら、儂にはわかりませぬな」
知らぬ顔を決め込む昌幸に、勝頼は穏やかに微笑んだ。
「それでも構わぬ。儂はもとより織田と和睦する気でいた。北条・上杉と組んだとて、織田・徳川に勝てるとは限らぬ。そして戦が長引けば、日本そのものが滅びかねん」
「左様ですな」
「しかし多くの家臣が織田と戦わんとしていた故、それらを上手く納得させる策を考えていた。そこでお主の計略を使うことにした」
「見て見ぬふりをしたと?」
「いかにも。そして、あえて北条に受け入れられぬであろう要求を突きつけ、武田と北条の仲を裂いた」
氏邦が呼び出しに応じないだろうと見越して、勝頼はあえて、甲斐へ申し開きに来るよう命じたのである。
「そこは賭けでしたな。氏邦はかなり名誉を気にする武骨者とは言え、氏政から甲斐に行くよう命じられれば、従っていたでしょう」
「うむ。氏政は儂を憎んでおるし、坂東武者は我が強い。とは言え、必ずしも思惑通りになるとは限らなかった」
つい前年まで武田と北条は戦っており、しかも武田が押し込んでいた。
「しかし、御屋形様はいつ儂の策を知られたのですか?」
「真田が織田との決戦にあっさりと傾いた時から疑っていたが、鍋島と真田が砥石城で密談しているところを盗み聞きさせ、大方を察した。もっとも、確証を持ったのは、沼田に放っておいた間者から報せを受けてからだが」
「左様でしたか……」
「まさに儂と真田の二人でなし得た計略であった。礼を言うぞ」
「ありがたき幸せ」
「細かいことは聞かぬ。儂はこれからも騙されたふりをする。真田もそれに合わせよ」
「ははっ」
「もっとも、此度は儂と思惑が同じであったからよかったものの、二度と斯様な真似をするでないぞ」
「無論、承知しております」
昌幸は深く頭を下げた。
○
「鍋島殿、上様からご命令です。小田原に向かい、北条を説き伏せよと」
名胡桃城での芝居を終えて春日山城に戻っていた信生のもとに、信長からの書状が届いた。
「承知した」
「また、浜松で滝川様がお待ちです。そちらと合流なさってから、小田原にお向かいください」
「少々遠回りではあるが……武田領内で落ち合うというのも不自然か」
武田・上杉と織田・徳川の和睦は、まだ正式に締結された訳ではない。とは言え、和睦は早いうちに成立するだろう。
信生は信濃を縦断し、浜松に向かった。




