織田が出せる対価
「であれば」と利家が答える。
「この前田又左衛門が、離間の計が成し遂げられるまでの間、仮の人質としてここに残ります。手前で申すのもおこがましいことですが、儂は上様が尾張の国主となられるより前からの付き合い。織田にとって軽んじられる者ではありませぬ」
利家は信長にとってお気に入りの家臣の一人であるし、北陸方面軍においてなくてはならない重臣である。表向きは上杉と交渉中ということにして春日山城に残れば、おかしな点もない。
「そなたが残るのであれば、織田を信じよう。しかし、まだ納得出来ぬ点がある」
「まだお望みのものがおありでしょうか?」
「織田との和睦の証として、上杉は越中と七尾城を得ることが出来るが、武田は駿府を失い、損をするばかりではないか。美濃の岩村城では駿府の代わりにはなるまい」
「……上杉だけが得をするのは許せないと仰せですか?」
信生が尋ねた。景勝はゆっくりと頷いた。義を重んじることで有名な上杉家とは言え、まさかそのような言葉が出てくるとは思わず、信生は対応を決めかねた。
「上杉と武田の盟は堅く、それを裏切るような真似を、御屋形様が許すことはありませぬ」
「織田との和睦は武田を生き永らえさせる。そのために詐術を用いるのはやむを得ぬが、上杉だけが得をするのは許せぬ」
「武田にも相応の利をもたらせと……」
「ええ。そうでなければこの話、お受けすることは出来ませぬ」
「既に織田から武田へは、和睦の暁に武田の安全を保障する起請文と勅命、それに人質を出す用意がございます。それに加えて領地を譲れと仰せですか?」
「いかにも」
「しかし……武田と面する唯一の国である美濃は、織田にとって譲れぬ国です。そうですな、前田殿?」
「はい。岐阜城は今でも中将様の居城にて、美濃は今でも織田にとって欠かせぬ地です」
「であれば、お引き取り願いましょう。此度のことは聞かなかったことにします故」
今にも交渉を打ち切られそうだ。信生は焦る。
「お待ちください。美濃の一部を譲るだけならば、交渉の余地があるやもしれません。そうですね、前田殿?」
「儂程度の立場では決めかねることです。ここは柴田殿や上様に伺いを立てます。それまでの間、待っていただきたい。よろしいでしょうか、上杉殿?」
「よかろう」
「では、ほんの数日、お待ちくだされ」
信生の咄嗟の思いつきであり、信長が美濃の割譲に応じる見込みは全くなかったが、時間を稼ぐことには成功した。交渉は一時中断ということになる。
〇
上杉との最初の交渉が行われてから八日が経った。一行は春日山城に留まっている。景勝は利家らを丁重に歓待し、一行に危害が加えられることは決してなかった。
ちなみに、芝居などせず、景勝に勝頼を説得してもらえばよいのではという話も出たが、武田家中に反織田派が多く、勝頼を説得したところで意味がないという結論になった。
武田家は元より国衆の寄り集まりという性格が強い。圧倒的な力を示した信玄は、国衆が望まない方針を強制することも出来た。
しかし、長篠の戦いでの大敗や岩村城の陥落などで、勝頼の権威は揺らいでいる。勝頼は国衆と妥協しながら領国を統治せざるを得ないのだ。
「それにしても、密書を安土に送ってから返書が届くまでにしては、日がかかりすぎている気がしますが……」
源二郎は言った。
「確かに、大急ぎで送らせれば、六日で返書が届くはずなのだが……」
「道中で密書が奪われたなどということは、ございませぬか?」
信生が尋ねた。
「上杉の領内でならあり得るが、織田の領内では決してあり得ぬ」
「しかし上杉がそのようなことをする訳がない、ですか」
「うむ。使者が大雨にでも遭ったのか……」
〇
その翌日、ようやく織田家からの伝令が春日山城に到着した。しかし、書状を届けるだけの使者にしては、その男はやけに筋骨隆々で、全身に古傷があった。
「……柴田殿!? どうしてここに!? いや、その格好は何なのですか!?」
「……は? 柴田殿……?」
利家はそのみすぼらしい格好の男を見るや、取り乱したかのように叫んだ。信生と源二郎は面食らってしまった。信生の理解が追いつく前に、男は厳つい声で名乗った。
「柴田権六勝家、ここに参った。上杉弾正殿と直に話がしたくてな」
北陸方面軍の総大将、柴田勝家。惟住長秀と並び織田の筆頭家老と称される男だ。どうやら伝令のふりをして春日山までやってきたらしい。
「し、柴田殿……。と、とりあえず、すぐに上杉殿に話を通してきます」
利家はすぐにその場を去った。
「織田家中でも最も剛毅なお方と耳にしておりましたが、まさかここまでとは」
「お前が鍋島とやらか。お前は覇気がないな。それでは精々一国の主で終わるぞ」
「某にはそれで十分にございます」
勝家の突然の来訪に上杉方も騒然となっていたが、前回と同じく人払いをした上で、景勝と勝家は交渉に望んだ。
「まず、仮の人質として前田又左衛門を残しておりますが、これは返してもらいたい。代わりにこの儂が春日山城に残り申す」
「柴田殿!?」
「口を挟むでない! お前は越中と七尾城を引き渡す用意をせよ。上杉殿、構いませぬな?」
流石の景勝も、この申し出には驚きを隠せず、目を見開いた。
「……無論じゃ。あの柴田ともあろう者が人質になるのであれば、最早織田を疑うことはない」
勝家は信長の望みを叶えるためならば何でもやる男だ。自らの身を使い捨てにすることすら厭わない。
「ありがたき幸せ。そして、美濃を武田に譲るという件、これについても、上様からお許しがあり申した。木曽川・飛騨川より東までならば、武田に譲ってもよいと。上様はそれほどまでに、鬼の討伐を重んじられているのです」
美濃は広大だが平地は少ない。この条件であれば、平野の半分ほどを武田に譲るということになる。軍事的にも、武田の勢力圏が岐阜までわずか五里に迫ることとなる。
「これならば、上杉殿にもご満足いただけるはず」
織田と上杉の和睦、並びに武田・北条の離間計への協力を得る対価として、織田は出せるものを全て差し出すこととなった。




