上杉へ
翌日、信生と一益は再び勝頼と面会した。
「まだ言い足りぬことでもあったか?」
「はい。しかし、武田と織田の和議に関することではございませぬ」
「何? では何なのだ?」
「上杉と話をつけたく存じます。つきましては、武田の領国内を通るお許しを願いたい。武田の領国を迂回している時も惜しいのでございます」
「なかなか図々しいことを言う。それを許して、武田に何の得があると申すか」
「某の説得で翻意するようであれば、上杉殿のご意志もその程度だったということ。事が起こる前にそれを確かめられるのは、武田にとっても利があるのでは?」
「なるほど。確かに一理あるな」
「御屋形様、近衛殿下に言われた訳でもないのに、わざわざ織田の手の者を利することはありません!」
勝頼の側近・跡部勝資はそう進言したが、勝頼はその進言を容れなかった。
「鍋島の申すように、我らに利がない訳ではない。それに、我が領国を通ることを禁じたとて、越後に行くことは出来るのだ。ここで断れば、武田の料簡の狭さを天下に示すことになろう」
「……ははっ」
勝頼の毅然とした物言いに、勝資は反論出来なかった。
「つきましては、御屋形様、この真田安房守が鍋島殿を越後まで案内いたしましょう」
「ふむ。わざわざ真田が動く必要があるか?」
「もしも武田の領国内で鍋島殿が野盗に襲われでもしたら、これは天下の恥ですぞ」
「それも一理あるな。よかろう。ただし、これはあくまで、武田の領国を通ることを許したに過ぎぬ。上杉家と鍋島の交渉を仲介することは許さぬ」
「ははっ。しかし、織田や上杉からの書状を鍋島殿に渡すくらいは、お許し下さいますか?」
「それだけならばよかろう。して、滝川、そなたも越後に向かうのか?」
「儂は戻らせていただきます。北陸のことには口を出せませぬし、どうやら近衛殿下に今一度お願いする必要もありそうです」
上杉に対しても武田と同様に、近衛先久に交渉の仲介を頼む予定である。
「そうか。好きにせよ。鍋島も我が領内で好きにして構わぬが、妙なことはせぬよう、我が旗本を数人付けさせてもらう。また、そなたに届く書状は全て検めさせてもらう」
「ここまでよくしていただいているからには、無論、構いませぬ」
信生は真田家の本城、信濃北部の砥石城に向かった。
〇
信生は砥石城で暫し過ごした。信生だけで上杉家に出向いても何の意味もないからである。
勝頼が付けた監視役はいたが、昌幸が信生と二人で話したいと言えば拒むことは出来ず、密会にそれほど苦労はなかった。酒を酌み交わすという名目で短い密会を数度行い、離間工作についての詳細を詰めた。
一益はその間、この謀略について認めた密書を安土の信長に送っていた。信長はこの件について、勝家に一任する旨を記した書状を、勝家の本拠地・北ノ庄城に送った。
そして北ノ庄城からの書状が信生に届いたのは、信生が躑躅ヶ崎館を出てから十三日後のことであった。
「鍋島殿、北ノ庄の柴田から書状が届いた。前田又左衛門を使者として送る故、鍋島殿は合流せよとな」
離間工作については一切触れられておらず、鬼をよく知る信生に上杉との交渉に協力して欲しいとしか書かれていない。勝頼の旗本に見られても何の問題もない。
「ようやくですか。それでは、某は春日山城に向かいます。真田殿は参られるのですか?」
「儂自らが春日山に行く訳にはいかん。春日山までの道案内に息子の源二郎を送る。ついでに兵法でも教えてやってくれ」
昌幸の次男・真田源二郎――後に真田左衛門佐信繁と呼ばれる少年――は、表向きには単なる道案内兼護衛ということになっている。もっとも、その懐には昌幸の策を記した書状が隠されていた。
「承知しました。それでは、いずれまた」
源二郎を伴い、信生は上杉家の本拠・春日山城を目指した。春日山城は信濃に近く、砥石城から二日の距離であった。
〇
春日山城は春日山一帯に砦や曲輪を配した巨大な山城である。平時の拠点としては利便性に欠けるが、要塞としては極めて堅固であり、何より、見る者を圧倒する物々しさであった。
「貴殿が前田殿にございますか」
「いかにも。前田又左衛門利家と申します」
柴田勝家の与力、北陸方面軍の重鎮、前田利家。自らの槍働きで身を立てた武闘派として名高いが、荒々しい様子はなく、むしろ優しげであった。もっとも、かなりの大男であり、彼をよく知らぬ者が恐れるのも無理はない。
「前田殿、早速ですが、真田殿からの策、そちらに伝わっておりますでしょうか?」
「大まかにですが、ええ。それを踏まえ、上杉と話し合ってくるよう、柴田殿から仰せつかっています」
「真田殿の策を記した書状がこちらにあります。お確かめを。源二郎、書状を前田殿へ」
「はっ! こちらが、我が父の策を記した書状でございます」
源二郎は懐に隠していた書状を利家に手渡した。
「うむ。細かくは知らされておりませんでしたが、聞いた話とは相違ありません」
「それはよかった。それで、織田はどこまで上杉に譲る用意があるのですか?」
「上様は、北陸道のことは柴田殿に任せると仰せになりました。そして柴田殿としては、越中と能登までなら譲れると」
「……随分と太っ腹ですな」
「柴田殿は、上様の望みを叶える為ならば何でもやるお方です。自らの所領など惜しくはないと」
「失礼ながら、それによって手放すことになるのは、前田殿や佐々殿の領地では?」
勝家の本拠地は越前であり、前線の越中や能登は前田利家や佐々成政などの配下に与えられている。
「柴田殿は、それらの国を上杉に譲った後は、自らの蔵入地を我らに与えると申していました。もっとも、我らが失う所領の全てを補うには足りませぬが、我ら一同、柴田殿のご覚悟を尊重する所存です」
「それほどのお覚悟があるとは……助かります。そこまでの用意があるのなら、上杉も説き伏せられるはず」
「そうであればよいですが」
信生と利家、そして源二郎は早速、上杉家当主・景勝との交渉に向かった。




