昌幸
「武田殿は北条と組むおつもりのようですが、北条が真に信用に足るとお思いですか? 某には、武田と織田を戦わせ、武田を消耗させる策かと思われますが。滝川殿もそう思われますな?」
「あ、ああ、そうじゃな。武田殿、儂は北条とよくやり取りをして参りましたが、北条は関八州に領地を広げることしか考えておらず、織田と決戦に及ぶというのは、不自然に思えますな」
「儂を惑わそうとしているとしか思えぬな。織田の者の言葉など、信じられるものか」
「まあ……確かにそれはそうでしょうなあ」
北条と武田を仲違いさせようとする織田の罠――そう思われても無理はない。実際にそうであるし、北条の真意など信生も一益も知らない。
「どうやら、某では武田殿を説き伏せることは叶わぬようです」
「そうか。であれば、これにて話は終わりよ。使者を害する武田ではない。今宵はこの躑躅ヶ崎館で休んでいくがよかろう」
「ありがたきお言葉」
交渉は失敗に終わったものの、信生と一益が危害を加えられることはなく、むしろ滞在用の屋敷をあてがわれ、丁重にもてなされた。
〇
「滝川殿、武田家中に、織田との和睦を推している武将はおらぬのですか?」
「それならば、おるぞ。大きな声では言えぬが……」
一益は信生の耳元で、声を潜めて言った。
「先程もおったが、真田安房守昌幸という男が、内密に織田と書状を交わしておってな。もっとも、勝頼を含めて武田家中は、北条と組んで織田と戦おうという者が大半で、説得は意味がないとのことじゃ」
「なるほど。左様な方がいらっしゃるのなら、一度お話ししてみたいものです」
「しかし……真田殿と話したいなどと申し出れば、怪しまれるのは明らかではないか?」
「であれば、武田の武将と直に話がしたいということにして、何人かを順々に呼び出しましょう」
「それは名案じゃな。武田殿が認めてくださるかはわからぬが」
この時点では、拒否されても危険はない。信生は勝頼に、武田の諸将と直接話がしたいと持ちかけた。これは案外あっさりと認められた。
跡部尾張守、穴山梅雪、小山田越前守などの諸将と話し合う機会を設けてもらったが、いずれの話し合いも、織田との和睦は考えられぬという結論に終わった。
もちろんこれは疑われないための証拠作り。本命は一人だけだ。
「夜分に失礼いたす。真田安房守昌幸と申す」
「某は鍋島孫四郎信生と申します。ここまで出向いていただき、感謝申し上げる」
信濃と上野に跨る広大な領地を治める、武田家中でも屈指の実力者、真田昌幸。外様という立場ではあるが、信玄からも勝頼からも篤い信頼を寄せられる重臣である。
「それで、儂に何用かな?」
「真田殿が織田との和睦を望んでおられると耳にし、お呼び申し上げました」
「確かにその通り。だが、儂はあくまで武田を生き残らせるために動いているだけだ」
「それでも構いませぬ。某は、武田と北条を仲違いさせようと考えております」
信生がそう言うと、昌幸の目がすっと細まった。
「どうやら儂と似たようなことを考えているようだ」
「真田殿には、何か策がおありなのですか?」
「うむ。九州を救いたいという鍋島殿の想いは真と信じ、儂の策を打ち明けよう」
「ありがたい」
「上杉を使う。上杉の兵を利用し、北条と我らの間に戦が起こったことにする。上手くいけば、北条との盟どころではあるまい」
「そのようなことが……」
「上野の沼田城は、儂が治めておるが、越後と上野を結ぶ要衝。武田・北条・上杉が長いこと奪い合っておった。北条が仕掛けてくるのも無理はない」
北条方の兵が沼田城を攻撃したように見せかけ、武田と北条の間に疑心を生じさせる。そうなれば武田は織田との和睦に応じざるを得ない。これが昌幸の策であった。
「そんなことを儂らに話してしまってよいのか? 武田殿に知られればただでは済むまい」
「そうですな。それ故、これは大きな博打でござった。鍋島殿と滝川殿が儂と同じことを考えておるだろうと踏んでのことよ」
「それは運がよかったのう」
「いやはや、まったくでござる」
一益と昌幸は笑い合った。
「しかし、その策には問題がいくつかございます。一つ目は、お二人が仰るように、武田殿に露見すればただでは済まぬということ」
「儂は知らぬ顔を決め込めばよいが、確かに上杉が関わっていると知られるのは好ましくない。上杉に銭だけ出させ、浪人を雇い入れるのがよかろうな。それに、上杉がそのような動きをしたと露見すれば、どのみち三国の盟は成り立つまい」
この謀略が露見すれば、武田と上杉、北条と上杉の関係が致命的に悪化する。それはそれで、この三国が同盟を組んで織田と戦うという計画は瓦解するだろう。
「その時は、かえって武田と北条の盟が強固になってしまうのでは?」
「上杉の出せる兵は少ないが、武田と北条だけでは織田と戦えぬ。上杉が織田方につけば、信濃に北から攻め込める上、上野にも乗り込めるのだからな」
「なるほど。しかし、二つ目の問題は、上杉がこのような危険な策に乗ってくれるとは思えぬことです。いや、そもそも、曲がりなりにも武田・北条と盟を結んでいる状況を、上杉が自ら壊すとは思えませぬ。上杉殿が実は織田との和睦を望んでいるのでもない限りは、ですが」
実に根本的な問題である。上杉がこの策に協力する理由がないのだ。
「上杉殿が何を考えておるかはわからん。儂のように、織田と共に生きる他ないと考えてくれておればよいのだが」
「つまりは賭けだと」
「まあ、そうなるな。しかし滝川殿、上杉相手であれば、織田も交渉しやすいのではありませぬか?」
「確かに、越中や能登であれば、上杉に譲り渡すことも出来よう。譲り渡すというより、返すというべきか。無論、これは儂が決められることではない。上意を仰がねばな」
尾張や美濃は譲れないが、越中や能登であれば交渉材料にすることも可能だ。この二国は謙信が手に入れていたが、ここ数年で織田が奪っていた。
しかし、北陸方面軍の総大将は柴田勝家であり、一益に北陸の問題についての決定権はない。勝家も国を勝手に割譲するほどの権限は与えられていない。信長の意を確かめてからでなければ動けないだろう。
「儂はやる気だぞ。しかし、儂が上杉のもとへ行くと言い出す訳にはいかん。そこで鍋島殿には、上杉殿と交渉してもらいたい」
「そのようなことを某が申したとて、上杉殿が聞き入れてくれましょうか」
「鍋島殿から御屋形様に、上杉と話をしたいと言い出してもらい、儂がその仲介を買って出る。さすれば問題はなかろう」
「それも許されるかはわかりませぬが……。この策、乗りましょう。いざとなれば、某が勝手にやったこととすればよろしい」
信生は、織田・武田・上杉・北条、いずれの家臣でもない。万一の際は自ら責任を負うことで、四家の関係が決定的に破綻する事態を避けられるだろう。




