それぞれの思惑
征夷大将軍足利義昭は、毛利領内の備後国鞆城に滞在し、毛利家からささやかな領地を献上されていた。
「――公方様、大変なご無礼を仕ることは承知の上なれど、どうか将軍職を辞していただきたく、謹んでお願い申し上げます」
その鞆城を訪ね、征夷大将軍の辞任を要請しているのは、毛利家当主・輝元であった。
「この儂に……信長に屈せよと申すか」
「恐れながら、左様にございます」
「……信長と盟を結ばねばならぬほど、鬼とやらは恐ろしいものなのか?」
「はい。少しでも気を緩めれば、我が毛利の領地は西から東まで、鬼で満ち溢れることになりましょう。不甲斐ないことながら、織田と戦いながらこのような化け物と戦うことは出来ませぬ」
「左様か。儂もこの目で鬼を見てみたいものであるが」
「そう仰ると思いまして……既に用意がございます」
「何と。なれば、今すぐ見せてくれ」
義昭に鬼の脅威を理解してもらうにはこれが最も手っ取り早いということで、輝元は生け捕りにした鬼を一体、鞆まで連れてきていた。
「……この世のものとは思えぬ形相じゃな。このような者が何十万といると申すか」
「左様にございます」
「儂が将軍を辞すれば、毛利と織田が盟を結び、このようなものと共に戦えるようになるのじゃな?」
「恐れながら、その通りかと存じます」
「なれば、将軍職など捨てて構わぬ」
「よ、よろしいので……?」
「それだけで多くの民が救われるのであれば、儂も望むところよ。儂は太平の世を創りたかった。儂が将軍の座にこだわれば、儂自身の志に反することになる」
「はっ」
「それに、一度将軍職を辞して再び将軍となった例もあるしのう」
「は、はぁ……」
「とにかく、信長に伝えて参れ。将軍職は喜んで捨てよう。ただし、西国の民を必ず救うと、起請文を出させよ」
隆景にとって唯一の懸念事項は義昭が抵抗することであったが、その心配は杞憂に終わった。間もなく義昭は参内し、正式に征夷大将軍の任を解かれることになる。
また信長は義昭の要求通り、毛利や九州勢を必ず救援する旨を記した起請文を、義昭に提出した。
〇
一方その頃、姫路城にて。
「兄者、本当に因幡一国だけでよかったのか?」
秀吉の弟、羽柴小一郎長秀が兄に尋ねた。
「毛利に強く出て交渉に時をかければ、上様がお怒りになってであろうからのう」
「だからって、あんな山しかない狭い国をもらってもなぁ。備中と美作は宇喜多のものになっちまったし」
「ではやはり、大身の家臣を殺して領地の空きを作るかのう。せっかくじゃ、小一郎、儂のために死んでくれ」
「おいおい、冗談はよせ、兄者……」
「殿、お戯れが過ぎますよ。あまりそういうことを言っていては、家臣の心が離れます」
と、秀吉の腹心、黒田官兵衛孝高は諫めた。誰も秀吉の言葉を本気にしているわけではないのだが。
「すまんすまん」
「官兵衛、お前も因幡一国だけでいいと思ってんのか?」
「殿が仰った通り、上様は毛利に妥協してでも早期に和議を結ぶことをお望みでした。我らがそれに背くことは出来ませぬ」
「それはそうだが」
「それに、因幡は確かに山が深く、豊かな土地ではないものの、堅牢なる鳥取城を手に入れれば、毛利への強力な牽制になりましょう」
「毛利とは暫く戦をすることはないと思うんだが」
「それはそうじゃな。因幡自体は、別になくても構わんのじゃ。のう、官兵衛?」
「はい。因幡一国などより遥かに価値のあるものを、我らは毛利から貰い受けました」
「上様に何かあったら毛利が手を貸すっていう口約束か?」
「はい」
「そんなもん、信用出来るのか? 密約なんて、破られても文句は言えんだろ」
「正確に申し上げれば、羽柴家と毛利家に繋がりが出来たこと、それ自体に意味があります。いずれ上方に変事が起こり、上様をお救いすべく攻め上がることがあれば、毛利と速やかに話を付けられます」
「だとしても、そんな時に味方してくれるものか?」
「毛利に京まで攻め込む力はない。織田とは違い、毛利はそういう家じゃ。まともなもんが舵取りをすりゃ、毛利が羽柴を敵に回すことはないじゃろう」
「そういうもんかねぇ」
「この話を持ち掛けてきたのは毛利の方じゃ。なら、毛利も儂らと誼を結びたいってことよ。その時となりゃ織田に恩を売って、毛利の家を守りたいんじゃろうな」
「まあ、兄者と官兵衛がそう言うなら……」
当面は、羽柴と毛利の繋がりは鬼との戦いに活かされることだろう。
〇
織田と毛利が盟約を結んでから十日ばかり。甲斐武田家の本拠・躑躅ヶ崎館にて。
「――先日、織田と毛利が盟を結んだそうだ。しかも毛利に優位な和睦である」
信玄の四男、武田家当主・武田大膳大夫勝頼は、家臣らにそう告げた。和睦ならばともかく、同盟を結んだという報に、群臣は大いに驚いた。
「跡部、これは如何なることと思うか」
勝頼は父の時代からの側近、跡部尾張守勝資に問うた。
「これは織田が、鬼と戦うため毛利の力を借りねばならぬという証! 今こそ、上杉と北条を束ね、織田に攻めかかるべき時と存じまする!」
「うむ。よくぞ申した。真田はどう思う?」
続いて勝頼は、信濃と上野の国境を治める武田家中随一の実力者、真田安房守昌幸に尋ねた。
「毛利と盟を結んだからにはむしろ、織田が東に兵を回してくるやもしれませぬ。それに、上杉はまだしも北条は信用出来ませぬ。北条は元より、天下を取る気などござらん。武田を織田と戦わせているうちに、上野を奪いにくるは必定かと」
「ならば真田は、何をすべきと思うか」
「今こそ織田に恩を売る時にございましょう。織田に協力を申し出、共に鬼と戦えば、織田が武田に攻め込むことはありますまい」
「織田に媚びを売れと申すか」
「言葉を濁さずに言えば、そうなりますな」
昌幸がそう言うと、その弱腰な姿勢を非難する声が方々から上がった。
「皆の者、静まれ。真田よ、そなたのような国衆なれば、強き者になびくも当然やもしれぬ。儂もその生き様を非難することはない。しかし、武田は何者にも屈さぬ」
「北条や上杉と組んで織田や徳川と戦うと……それが御屋形様の思し召しということで、よろしいのですかな?」
「いかにも。織田が九州に派兵したところで、美濃・遠江・三河へ一気呵成に攻め込む。北条とは、互いに人質を送り合おう。北条の真意を今一度確かめる」
「ははっ。御屋形様がそう仰るのならば、この真田安房守昌幸、全力でお支え申し上げます」
「よくぞ申してくれた」
もちろん昌幸は、勝頼の判断に納得した訳ではない。昌幸は織田との和睦に向け、織田方の武将と密かに連絡を取り始めた。




