秀吉
毛利家が長門の半分を放棄してから半月程が経過した。隆景が用意させた長門の砦は非常に堅固であり、鬼に突破されたものは一つもない。鬼を砦に誘き寄せる戦術も問題なく機能し、鬼は一匹たりとも封鎖線の外へ逃がしていない。
とは言え、四万程の兵を常に長門に配置しておかねばならず、毛利家の負担は大きい。終わりが見えぬ戦いだというのに、交替の兵も十分に確保出来ず、兵らには疲労が溜まっていた。
情勢が一旦落ち着いたところで、輝元らは吉田郡山城に戻っていた。そして今、鬼より数倍恐ろしい脅威、東の織田家にどう対処するべきかが議論されていた。
こちらから和議を請うのであれば、確実に足元を見られるだろう。城のいくつかでは済まず、一国や二国を明け渡せと迫られてもおかしくはない。
輝元は織田に和平を申し入れることを酷く渋っていた。
「殿のお考えは重々承知しております。しかし、こうも考えられます。織田が九州に派兵するには、我らと手を結ぶことが不可欠。であればむしろ、鬼を滅ぼした後の毛利の立場は今よりも良くなるかもしれません」
隆景の提言には、織田政権を認め、その枠の中で生きようという前提があったが、輝元は気づいていなかった。
「な、なるほど……。いや、待て、鬼を滅ぼすと言ったか? こんなものがうじゃうじゃと蔓延っている九州に攻め入ると?」
「いずれはそうしなければなりますまい。日本六十六国が欠けるなど、前代未聞にして、あってはならないことです」
「それはそうだが……。それに、今更織田と結ぶなど、公方様が黙ってはおらぬと思うが……」
信長によって京から追放された征夷大将軍・足利義昭のことである。毛利家は信長から逃れてきた義昭を庇護しており、義昭の信長に対する敵愾心は今でも強い。
「公方様については、こう言うのは無礼千万ながら、どうとでもなりましょう。後ろ盾がなければ、どうしようもありますまい。それに、我らは織田と戦うために公方様を旗印として擁しておりましたが、織田と和睦するのであれば、最早必要ありません」
「さ、流石は小早川……」
「惟任殿からの書状によれば、織田殿は我らとの和睦に乗り気であるとのこと。殿、今一度申し上げます。今こそ、織田と和睦する最大の好機です」
織田家には毛利と和睦する動機がある。毛利家中の強硬派も、鬼という脅威が差し迫る中では、それほど強く反対できない。
「しかし、光秀からの書状など、信用出来るのか?」
「我らは目下、四万の兵を長門の国境に置いており、織田から見れば隙だらけです。であるにも拘らず織田が仕掛けてこないのは、織田に我らと和議を結ぶ意向があるという証ではありませんか?」
毛利家が動かせる軍勢は、最大でも八万といったところ。その半分が鬼との戦いに釘付けとなっている以上、織田からすれば毛利攻めの絶好の機会であろう。
「小早川殿はつまり、織田と和睦せねば毛利は滅ぼされると仰るのか?」
「左様。織田と毛利の力の差は歴然にして、仮にいくつかの戦で勝てたとしても、いずれは追い詰められましょう。数倍の敵を相手にし、一度も負けることなく勝利し続けられるという者がいるのであれば、私も考えを改めよう。どうだ?」
そう問い掛けて、我こそはと名乗り出る者などいなかった。その沈黙を、一人の笑い声が破る。
「ふははははっ! そんな者、越後の謙信くらいしかおらんだろうな!」
吉川元春であった。これも隆景の話を通りやすくするための芝居ではあろうが。
「確かに、謙信公がここにいらっしゃれば、織田相手にも渡り合えたやもしれません。無論、そんなことは叶いませんが」
「公方様はどう扱われるおつもりか? やはり、今更公方様の意に背くようなことをすれば、毛利の体面が悪くなるのでは?」
「公方様をお守りして毛利が滅びては、元も子もありません。そして毛利が滅びれば、公方様は織田の手に落ちましょう。ご納得いただくほかにありません」
「それは……そうかもしれませんな」
再びの沈黙。ここまでお膳立てされれば、輝元も織田との和議を認めざるを得なかった。
「相分かった。織田と和睦する。織田との交渉には小早川が行って参れ」
「はっ」
「領国の守りは案ずるな。吉川もおることだしな」
かくして隆景は数百人ばかりの護衛を伴い、織田との交渉に向かった。だが、その道中、非常に悪い報せがもたらされる。
「隆景様、申し上げます! 大瀬戸を越え、鬼が赤間関に現れたとの由!」
「何……? どのように海を渡ったのだ?」
鬼が関門海峡を越えて長門に乗り込んできたという。
「鬼が流れ着いたとのこと。その数はほんのわずかで、すぐに根切りにしたとのことです」
「鬼が増えすぎた故なのか……? 改めて海岸の警戒を強めるよう、殿にお伝えせよ」
「はっ!」
「ますます織田との和議を急がねばならなくなったな……」
織田との和睦が叶えば、毛利の全兵力を鬼との戦に振り向けられる。あわよくば織田から援軍なども得られるかもしれない。隆景は交渉を急ぐ。
○
織田との交渉とは言っても、いきなり安土城に向かう訳にもいかない。まずは毛利との戦を一任されている織田の重臣・羽柴筑前守秀吉に話を通すのが筋であろう。
隆景は五百ばかりの兵を連れて播磨に向かった。もちろん織田方にはあらかじめ話を通してある。
秀吉が臨時の本拠地としている播磨姫路城に、隆景はほんの数名の供を連れて入った。城に入って暫く待っていると、突然一人の男が現れた。
「おお、小早川左衛門佐殿にござるか! 是非ともお会いしとう思ってございました!」
「これはこれは……」
仮にも毛利の重臣である隆景に対してこのような態度を取るとは、間違いなく秀吉であろう。
「失礼ながら、羽柴筑前守殿でしょうか?」
「いかにも、儂が秀吉じゃ! よろしく頼み申すぞ!」
「はっ。では羽柴殿、既に書状にてお知らせしている通り、毛利は織田との戦を止めたく思っています」
「我ら織田としても、毛利とは早々に和議を結びたいと思っておった。じゃが、何故いきなり、そうも乗り気になったのですかな?」
「鬼は既に海を越え、長門に侵入しつつあります。海は必ずしも鬼を防ぐ壁にはならないのです」
「なるほどなるほど。長門半国を捨てたとは聞いておりましたが、儂が思うていたよりも難儀されているご様子で」
あわよくば長門の惨状は隠したいと思っていたが、その手は通じないようである。
「……ええ。鬼を抑え込めてはおりますが、毛利だけでは荷が重いのです。ここは積年の恨みを忘れ、織田と手を携えて鬼退治をしたく思っております」
「それは構わん。上様も毛利とこれ以上戦を続ける気はござらんからのう。じゃが、タダで和睦せよとは、小早川殿も仰るまいな?」
「和睦の対価を差し出せと?」
「当たり前じゃろう。毛利には我らの船を山ほど沈められましたからな。何事もなく矛を収めよとは、虫の良すぎる話にござる」
「それは織田殿のお考えですか?」
「当たり前じゃ。上様も流石にタダでは許してくださらんそうでの」
織田はあくまで毛利に賠償を強いたいようだ。毛利家そのものが存続するのであれば多少の領地を失うことも十分許容できるが、そう易々と領地を差し出す隆景ではない。




