長門撤退
毛利氏の領地は非常に広く、吉田郡山城から萩に行くだけでも数日かかる。二万の主力が移動している間に、福原勢と鬼との戦況を報せる伝令が、輝元のもとに駆け込んできた。
「な、何と……。これは真か……」
「文には何と?」
書状を広げて顔を青くしている輝元に、隆景は尋ねた。
「福原勢は既に、総崩れになっていると書いておる……」
「一万の兵がもう総崩れとは。不用意に動くなと申し付けていたはずですが……」
「いや、福原からの書状には、鬼が陣に押し寄せ、多くの者が噛まれて鬼になったとある」
「鍋島殿からの文は真であったようです」
噛まれた時点ではまだ無事に見える者でも、必ず鬼になる。それ故に殺さなければならない。
信生からその書状が届いたのは、まさに今日であった。届くのが一日でも早ければ、結果も変わったかもしれない。
「こ、この様子では、我らが行ったとて同じ轍を踏むだけではないか?」
「城や砦を用い、あるいは陣地を築き、鬼の広まりを食い止める。これ以上の策はありません。そして、鬼に少しでも噛まれた者はその場で殺し、噛まれたのか判断しかねる者は閉じ込めておかねばなりません」
「…………わかった。そうしなければ、より多くの者が死ぬのだな」
「はい。そしてこのこと、殿より皆に下知していただければ幸いです」
「無論じゃ……。だが、萩を完全に囲わねば、鬼が外に溢れだしてしまうぞ……」
三万の軍勢で萩を囲う予定だったのが、早々に破綻してしまった。
「鬼の蔓延る範囲は広がり続けます。ある程度後退するのも、やむを得ないかと」
「しかしそれでは、隙間なく囲むことなどできぬではないか」
「こちらから大きな音を出せば鬼の大半を誘き寄せることができます。確実とは言えませんが、こうする他にないのです」
大友家が防衛線を構築する為に編み出した戦術である。鬼をこちらから呼び寄せれば、少数の城や砦を用いるだけで、鬼の大半を封じ込めることが可能だ。
もちろん完全に誘引できるわけではないが、街道を外れる鬼は少数であり、個別に対処できる。
「わ、わかった。そのようにしよう」
「それと、兄上には一万を率いて、鬼を西から押さえていただきたいのですが、如何でしょうか」
吉川元春に別働隊を率いさせるよう、隆景は進言した。
兵を分散させるのは危険が大きいものの、そうでなければ封鎖が間に合わない。一万ずつの軍勢で東西から封じ込めるのが最善であると、隆景は判断した。
「無論、殿が命じられれば、今すぐに行って参りますぞ」
「よ、よかろう。隆景の策の通り、元春、鬼を西に向かわせるな」
「ははっ!」
「兄上、くれぐれも鬼にむやみに攻めかからないよう、頼み申し上げます。兄上には我慢ならぬかもしれませんが、城や砦から打って出ることはなさいませぬよう」
「わかっておる! 俺を見くびってくれるな、隆景!」
元春は威勢よく西に向かった。一見して猪突猛進の将のように見えるが、あれは配下の士気を上げるための芝居のようなものである。
元春の知略は元就譲りの優れたものであり、下手な手を打って総崩れになるようなことはあるまい。
「敗走した福原勢はどうするのだ?」
「一日が経てば、鬼になる心配はないはずです。兄上と合流させてよいかと」
「よかろう。元春、そのようにせよ」
「ははっ!」
大きな戦力にはならないが、福原勢の敗残兵二千は、一時的に元春の指揮下へ入ることになった。
「しかし殿、私が思うに、萩まで兵を進める必要はないかもしれませぬ」
「……どういうことだ?」
「鬼と長きにわたって戦い続けるには、多くの兵を収容する城が必要です。特に萩の南は山がちで城や砦がほとんどなく、長陣には向かないかと」
「それは……どこまで下がると言いたいのだ?」
「南は山口まで下がりましょう。山口を中心としていくつか砦を築けば、兵も動かしやすいかと。東は石見との国境、西は豊浦郡の辺りまで下がるべきかと」
「そこまで下がらねばならぬのか……」
「鬼が増え過ぎました。手をこまねいていれば、我らは皆食い尽くされます。万全の用意をし、不敗の態勢を整えねばなりません。それには時が要るのです」
「長門の半分を捨てることになるか……。だが、隆景が言うのであれば、間違いはあるまい。長門半国のために毛利を滅ぼす訳にはいかん。領地など、いずれ取り返せばよいのだ。隆景の策を認めよう」
中途半端に鬼と戦い、兵が鬼にでもなれば、毛利はお終いである。毛利の名を残すことこそ、輝元にとって最も優先すべきことであった。
「だが、我らが砦などを築いている間に、犠牲になる民も出よう。まずは我らが前に出て、領民の避難を助けるべきではないか?」
「それは……」
多くの民は既に逃げ始めており、避難を助けられるのは精々二千人か三千人程度であろう。兵を砦の整備に回した方が明らかに合理的である。
「殿がそう仰っているのだから、よいではないか、隆景」
「……わかりました。鬼を迎え撃つ砦の普請は、その地の領民を根こそぎ集めて行わせましょう。戦える者は前に出します。よろしいですね、殿?」
「うむ。それでよかろう」
○
報せを受けてから六日ほどで萩近郊に到着した輝元の軍勢は、主要な街道に柵や逆茂木を並べ、そこに鬼を呼び寄せることで、領民の避難の時間を稼いでいた。
「申し上げます! 鬼の勢い凄まじく、先鋒は既に乱戦に入っております!!」
輝元にそのような報告が入った。つまるところ、鬼を食い止めるべく設置した諸々の障害物が突破されたということである。
「あの隆景ですら、しくじることはあるのか……。隆景を呼び戻せ!」
「しかし、小早川様は今、陣頭で兵を動かしておられます」
「な、ならば儂が行く! ついて参れ!」
「あ、危のうございます!」
「儂はこの目で見て、鬼というものを知らねばならんのだ!」
輝元は状況を自ら確かめるべく最前線に向かった。しかし隆景は、第一陣を放棄し、整然と兵を後退させている最中であった。
「ご心配には及びません、殿」
「ま、真か?」
「鬼を相手に陣を守り続けるのは無理なのです。何段にも陣地を重ねて築き、それを少しずつ捨てて時を稼ぐのです」
「な、なるほど……」
隆景が九州で鬼と戦った経験が生きた。無論、元春にもこの策は授けてある。
「周辺の民が逃げ終わったことを確かめた後、殿には山口まで下がっていただきます」
「……わかっておる。鬼をこの目で見て、よくわかった」
その後も隆景は危なげなく遅滞戦闘を続け、二日ほど交戦した後、兵は山口や石見との国境へ撤収した。




