初めての旅
旅立ってから、しばらく経った。
街道は、グリューネヴァルトを出てからゆるやかに南へ伸びている。道幅は馬車がすれ違える程度には広く、ところどころ車輪の跡が残っていた。左右には草原が広がっていたが、少し先には南へ続く森林地帯の木々が見えている。
二人は並んで、その街道を歩いていた。
グリューネヴァルトを出るときは、これから始まる旅への期待で胸がいっぱいだったリーネアも、しばらく歩いているうちに、いつもの狩りとは違うことを少しずつ実感し始めていた。
何しろ今日は、帰る必要がない。
目的地は数日先だ。
いつものように、夕方になれば町へ戻ってベッドで眠るというわけにはいかない。
そんなことを考えていたのか、ヴィーゴがふと横を見る。
「そういえば、リーネア」
「ん?」
「歩くペース、速くないですか?」
「え?」
言われて、リーネアは少しだけ首を傾げた。
「そうかな?」
「そうですよ。かなり歩けています」
ヴィーゴはそう言いながら、リーネアの歩幅と自分の歩幅をちらりと見比べた。
「今までは日帰りの依頼がほとんどだったでしょう。目的地まで行って、狩りをして、また町へ戻る。多少無理をして歩いても、あとで休めばよかったですけど……旅はそうもいきません」
「なるほど」
「長時間歩き続けることになりますから、きつくなったらちゃんと言ってくださいね」
「うん。今のところは大丈夫」
リーネアは軽く足を振ってみせる。
「しんどくなったらちゃんと言うから」
「ならいいんですけど」
ヴィーゴは頷きながら、また前を向いた。
「無理をして途中で動けなくなるのが一番困りますからね」
「そこまで私、無茶しないよ」
「……それはどうでしょう」
「なんでそこで疑うの!?」
「何となくです」
「ひどい!」
笑いながらも、リーネアは少し歩く速度を落とした。
ヴィーゴも合わせて歩調を緩める。
二人の横を、風が吹き抜けていく。
しばらくすると、リーネアが背負った荷物を気にするように肩を揺らした。
「そういえばさ」
「はい?」
「食料って、どれくらい持ってきたんだっけ?」
「何日か分はあります。保存のきくものを中心にしてありますから」
「水は?」
「水は食料ほど余裕がありません」
ヴィーゴは少し考えてから答えた。
「一応、今の分はありますけど、飲み水はどうしても減ります。どこかで補給できるといいですね」
「街道沿いなら、水場とかあるかな」
「あると助かるんですけどね。井戸か、川か、小さな泉でもあればいいんですが」
リーネアは前方を見た。
街道はまだまだ先へ続いている。
「こういうのも旅なんだね」
「そうですね」
「冒険者って、モンスターを倒すだけじゃないんだ」
「むしろ、町の外に長くいるなら、こういうことのほうが大事かもしれません」
ヴィーゴは背中の荷物を少し持ち上げた。
「食料、水、寝る場所、火を起こす道具、それに装備の手入れ。どれか一つでも欠けると困りますから」
「……」
リーネアは隣のヴィーゴを見た。
相変わらず荷物が大きい。
しかも、その大半が普通の冒険者の荷物だけではないことをリーネアは知っている。
自分とヴィーゴの装備の修理道具。
替えの革。
留め具。
鋲。
糸や針。
小さな金槌。
やすり。
穴あけ工具。
細かな補修用品。
旅先で何かあれば、ヴィーゴはその場で直すつもりなのだろう。
「ヴィーゴって、本当に職人なんだね」
「どうしたんです、急に」
「いや、なんでもない」
リーネアはくすっと笑った。
「でも、頼りにはなるよね」
「それは……どうも」
少しだけ照れたようにヴィーゴは前を向く。
そんなやり取りをしながら歩いているうちに、太陽は少しずつ高くなっていった。
やがてヴィーゴが足を止める。
「そろそろお昼にしましょうか」
「えっ、もう?」
リーネアは空を見上げた。
太陽はまだ真上より少し低いくらいだ。
「ちょっと早くない?」
「長旅では、無理をしないことが大切です」
ヴィーゴは何でもないことのように言った。
「お腹が空いてから探すより、少し余裕を持って休憩したほうがいい。午後もしっかり歩けますから」
「なるほど……」
リーネアは感心したように頷く。
「なんかヴィーゴ、こういうときだけすごくしっかりしてる」
「こういうときだけって何ですか」
「普段はビキニアーマーのことになると急に変になるから」
「それは職人として当然です」
「はいはい」
二人は街道の脇へ少し移動し、昼食を取った。
保存のきくパンに、干し肉、それから簡単な野菜の漬け物。
グリューネヴァルトにいた頃なら、もっと温かくて美味しいものを食べる機会も多い。
けれど、青空の下で二人並んで食べる昼食は、それとはまた違う味がした。
「これ、思ったよりおいしい」
「保存食ですから、期待してなかったでしょう」
「うん」
即答だった。
「でもおいしい」
「それなら何よりです」
食事を終えると、二人は再び街道を歩き始めた。
午前中よりも、ややゆっくりしたペースだった。
それでもリーネアの足取りに疲れはまだ見えない。
時折、すれ違う荷車や旅人に軽く会釈をしながら進んでいく。
グリューネヴァルトの近くにいた頃は、どこか見慣れた景色の中を歩いている感覚があった。
けれど、少しずつ南へ進むにつれて、その感覚が薄れていく。
知らない道。
知らない景色。
知らない町へ続く街道。
リーネアは何度も振り返っては、遠くのグリューネヴァルトを思い出していた。
やがて太陽が傾き始める。
草原の向こうから伸びた影が、街道に長く落ちていた。
リーネアが空を見上げる。
「もう夕方かぁ」
「今日はこの辺までにしましょう」
ヴィーゴが足を止めた。
「え?」
「ここから先へ行くのはやめて、今日は野営です」
「もう?」
「初日ですから。まだ歩けますけど、最初から無理しても仕方ありません」
そう言って、ヴィーゴは街道の先を見た。
「それに、街道沿いでそのまま寝るのは避けたほうがいいです」
「どうして?」
「夜盗に襲われる可能性があります」
「……あ」
リーネアは周囲を見回した。
「そっか。人通りがあるから安全ってわけじゃないんだ」
「昼間ならともかく、夜は別です。街道沿いに明かりを出して寝ていたら、見つけてくださいと言っているようなものですから」
ヴィーゴは少し先にある森林地帯へ視線を向けた。
「森に少し入ったところでキャンプしましょう。深く入りすぎなければ、野営する場所としては悪くないです」
「うん!」
リーネアの顔がぱっと明るくなる。
「キャンプ!」
「……なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「だって!」
リーネアは荷物を降ろしながら、目を輝かせた。
「なんだかすごく冒険者っぽいことしてる!」
「今までだって冒険者でしたよ」
「そうだけどさ!」
「森に入って、焚き火をして、野宿するだけですよ」
「それが冒険っぽいんだって!」
妙にテンションの高いリーネアを横目に、ヴィーゴは苦笑する。
二人は街道から少し離れ、森の浅い場所へ入った。
人の手が入っているのか、下草はそこまで深くない。
ヴィーゴは周囲を確認しながら、木々の間に少し開けた場所を見つけた。
「ここにしましょう」
「うん!」
荷物を下ろし、簡単な寝床を整える。
ヴィーゴが薪になる枝を集め、火を起こす場所を決めている間、リーネアはきょろきょろしながら辺りを見回していた。
普段なら依頼の合間に通り過ぎるだけの森。
今日はそこが、自分たちの寝る場所になる。
それだけで、妙な高揚感があった。
「なんか、本当に別の場所に来た感じがする」
「まだグリューネヴァルトからそんなに離れてませんけどね」
「でも今日は帰らないじゃん」
「それはそうです」
ヴィーゴは空を見上げた。
木々の隙間から、夕暮れの空が見える。
雲は少ない。
「明日も晴れそうですね」
「晴れるといいね」
「たぶん大丈夫でしょう」
そう言ってから、ヴィーゴは火の準備をしていたリーネアを見る。
「じゃあ、火をお願いします」
「任せて!」
リーネアは張り切って薪を組み、火打ち石を使って火を起こし始めた。
最初はなかなか火がつかなかったが、何度か試しているうちに小さな炎が生まれる。
「ついた!」
「おお」
「ふふん」
「得意そうですね」
「だって今、すごく冒険者してるもん」
「そこですか」
ヴィーゴは笑いながら、夕食の準備を始めた。
昼よりもしっかり食べられるように、干し肉を細かく切り、持ってきた野菜と一緒に鍋へ入れる。
火の上で鍋が温まり、やがて食欲をそそる匂いが立ち込めた。
二人は焚き火を挟んで向かい合い、温かな夕食を食べる。
赤々と燃える火。
暮れていく空。
遠くで鳴く鳥の声。
そして、町の喧騒がない静かな森。
リーネアはスプーンを止め、しばらく周囲を眺めた。
「……なんか、不思議」
「何がです?」
「私、冒険者になってから、グリューネヴァルトをこんなに離れたことなかったんだよね」
ヴィーゴは黙って聞いている。
「いつも町の近くで依頼受けて、終わったら戻って。だから……」
リーネアは焚き火を見つめた。
「ついに旅に出たんだなって、今になって実感する」
「そうですね」
ヴィーゴはゆっくり頷いた。
「僕も、こうして誰かと旅をするのは初めてです」
「ヴィーゴも?」
「ええ。材料を探しに遠出することは考えたことがありますけど、何日もかけて町を渡り歩くのは初めてです」
「じゃあ、二人とも初めてなんだ」
「そうなりますね」
リーネアは少し嬉しそうに笑った。
「なんかいいね」
「何がです?」
「初めての旅を、一緒にしてるってこと」
ヴィーゴは少しだけ目を丸くした。
それから、穏やかに笑う。
「……そうですね」
しばらく二人は、焚き火の音を聞いていた。
パチと薪が弾ける。
その静かな時間の中で、ふとリーネアが顔を上げた。
「ん?」
「どうしました?」
「……あれ」
彼女が指差した先。
木々の向こう、かなり遠くに、小さな明かりが見えた。
一つではない。
いくつかの淡い光が、暗くなり始めた景色の中でゆっくりと動いている。
ヴィーゴも目を細める。
「……あれは」
立ち上がるほどではない。
けれど、視線は外さない。
「規模からして、おそらく隊商の明かりでしょう」
「隊商?」
「ええ。荷馬車が何台か連なっているんだと思います」
「こんな時間まで移動してるんだ」
「急いでいるんですかね?」
ヴィーゴは少し考えてから、また座り直した。
「まあ、僕たちには関係ありません」
「そっか」
「僕たちは今日は早めに休みましょう」
ヴィーゴはそのまま地面にごろんと横になった。
「また明日は街道を進みますから」
「うん」
リーネアも焚き火の向きを少し整える。
燃える薪が、二人の顔を赤く照らしていた。
遠くでは、隊商らしき明かりが小さく揺れている。
けれど二人はそれを追うこともなく、自分たちの焚き火のそばで静かに夜を迎えた。
明日は、また知らない景色が待っている。
フェルドドルフへ続く街道の先へ。
二人の旅は、まだ始まったばかりだった。




