二人なら、もっと遠くへ
スピアディアに敗れてから、数週間が経っていた。
その間、リーネアとヴィーゴは毎日のように鍛錬を重ねた。
朝は工房の前を何度も走り、一定の距離を走り終えるたびに、リーネアは息を切らしながらもすぐに立ち上がった。ヴィーゴはその横で時間を計り、走る速度だけでなく、疲れた状態からどれだけ早く動きを戻せるかも確認していた。
走り込みの後は、木剣を使った素振りを繰り返した。
リーネアは一振りごとに腰を落とし、踏み込みの位置を確かめる。以前なら力任せに振り下ろしていた剣も、今では肩や腕だけに頼らず、脚から生まれた力を刃へ伝えることを意識していた。
「速く振るだけでは駄目です。戻しも速く」
「分かってる!」
ヴィーゴの指示に応じ、リーネアは何度も剣を振る。
疲れて腕が重くなっても、構えを崩さない。剣先がわずかにぶれれば、ヴィーゴはすぐに動きを止めさせ、最初からやり直させた。
その後は、二人で向かい合っての連携訓練だった。
ヴィーゴが木の棒で攻撃し、リーネアが避ける。次はリーネアが踏み込み、ヴィーゴが受ける。さらに二人の間に置いた木箱を敵に見立て、左右から挟み込む動きを何度も繰り返した。
最初は声を掛けなければ動けなかった。
「右!」
「分かっています!」
「今!」
「まだです!」
互いの声が飛び交い、何度も動きがぶつかった。
それでも、失敗するたびに立ち位置を直し、相手の視線や足の向きを確認する。少しずつ、声に頼らずとも相手の意図を読み取れるようになっていった。
さらに二人は、石を使った回避訓練も繰り返した。
最初は一つずつだった石が、二つ、三つと増えていく。リーネアは飛んでくる石を避け、しゃがみ、身体をひねり、ときには地面を転がった。
「今のは避けられました!」
「でも次の石に当たったよ!」
「実戦では次が来ます」
「分かってるけど痛い!」
それでも、以前のように反射的に目を閉じることはなくなった。飛んでくるものを見て、軌道を読み、最小限の動きでかわす。
マンドラゴラの叫び声に耐えながら腹筋を続けたり、激しい水流に逆らって滝を登ったりといった厳しい鍛錬も重ねた。
だが、こうした地道な反復が、リーネアの身体に少しずつ染み込んでいった。
そして、訓練の仕上げとして、二人は何度も森へ入った。
相手はホーンボア。
最初の頃に比べれば、二人の動きは明らかに変わっていた。
リーネアはただ勢いだけで突っ込むことがなくなった。
相手の動きを見て、一歩待つ。
避ける。
踏み込む。
そして、隣にいるヴィーゴの位置を意識する。
ヴィーゴもまた、リーネアの動きを見ながら戦うようになった。
最初は互いに声を掛けなければ分からなかった。
それが今では、目を合わせるだけで次の動きが伝わることもある。
そして、その日の朝。
ヴィーゴは工房で剣の手入れをしながら言った。
「そろそろ、行きましょうか」
向かいで準備をしていたリーネアが顔を上げる。
「……スピアディア?」
「はい」
リーネアの口元に笑みが浮かぶ。
「やっとだね」
「はい。そろそろ試してみてもいいと思います」
ヴィーゴは立ち上がり、剣を腰に差した。
「ただし、前回とは条件が違います」
「今回は二人で行くんだよね」
「はい。ただ、二人だからといって簡単に倒せる相手ではありません」
ヴィーゴは真剣な顔でリーネアを見る。
「普通、スピアディアを狩るなら、四、五人程度のパーティーを組むことが多いです」
「……そんなに?」
「はい。一人に攻撃を集中させ、その間に別の人間が隙を作る。そうやって安全に戦うのが基本です」
リーネアは少しだけ息を呑んだ。
「じゃあ、前に私が一人で行ったのって……」
「かなり無茶でした」
「……やっぱり」
「スピアディアは一人で相手をすれば、攻撃も回避も全部一人でやらなければなりません」
ヴィーゴは淡々と続ける。
「前回、あなたが何もできずに追い込まれたのも当然です」
「……」
「そして」
ヴィーゴは一度、言葉を切った。
「二人で戦うとしても、これまでの僕たちなら厳しかったでしょう」
リーネアが顔を上げる。
「ホーンボアには勝てても、スピアディアは動きが速い。二人とも相手の動きを追うだけで精一杯になって、連携する余裕なんてなかったはずです」
「……確かに」
リーネアは思い返す。
初めてホーンボアと戦ったときでさえ、ヴィーゴと何度も動きがぶつかった。
それより速く、複雑に動くスピアディアを相手にしていたら。
二人で戦ったとしても、結局は押し切られていただろう。
「でも」
リーネアは拳を握る。
「今は違う」
「ええ」
「私たち、ずっと練習してきた」
「はい」
「回避も、剣も、連携も」
リーネアは笑う。
「ホーンボアだって何度も一緒に狩った」
「その通りです」
「だったら」
リーネアはまっすぐヴィーゴを見る。
「今の私たちなら、二人で挑める」
ヴィーゴは少しだけ笑った。
「僕も、そう思っています」
ただし、
勝てると保証しているわけではない。
それでも。
今まで積み重ねてきたものを試す価値はある。
「二人で、これくらい倒せなければ」
ヴィーゴが言った。
「もっと上は目指せません」
リーネアは頷いた。
「うん」
以前なら、勢いだけで「勝てる」と言っていたかもしれない。
けれど今は違う。
自分たちが何を積み重ねてきたのかを知っている。
「じゃあ」
リーネアは笑った。
「特訓の成果を見せに行こう!」
「はい」
二人はグリューネヴァルトを出た。
南へ向かう。
目指すのは、境界の森。
以前と同じ森なのに。
今日は、どこか見え方が違った。
森へ入ってしばらくすると、リーネアが足を止めた。
「……いた」
ヴィーゴも顔を上げる。
木々の向こう。
巨大な鹿が立っていた。
体長は一・五メートルほど。
頭には、一本一本の先端まで鋭い角。
まるで巨大な槍を頭から生やしているようだった。
「スピアディアです」
ヴィーゴが小さく呟く。
リーネアは剣を抜く。
「……前は、あれに何もできなかったんだよね」
「はい」
「でも今日は」
リーネアが深く息を吸う。
「違う」
ヴィーゴも盾を構えた。
「集中しましょう」
「うん」
二人は無言でスピアディアを見つめた。
積み重ねてきた鍛錬の日々を思い出す。
マンドラゴラ。
滝登り。
石投げ。
野菜の高速スライス。
ホーンボアとの何度もの実戦。
何度も失敗して。
何度もやり直して。
少しずつ身につけてきたもの。
「……行くよ」
「はい」
二人が走り出した。
スピアディアがこちらを向く。
頭を下げる。
「来る!」
地面を蹴った。
一直線。
しかし、二人は慌てなかった。
「右!」
リーネアが叫ぶ。
「左!」
ヴィーゴが応える。
二人が同時に左右へ散る。
スピアディアが間を駆け抜けた。
「今!」
リーネアが振り返り、剣を振る。
しかし、
スピアディアは身体をひねる。
角が剣を弾いた。
そのまま横へ大きく跳ぶ。
「っ!」
リーネアが追う。
しかし、速い。
右。
左。
そして、突然の跳躍。
「前回と同じ……!」
リーネアが歯を食いしばる。
スピアディアの角が迫る。
身体をひねって避ける。
だが完全には避けきれない。
角の先端が脇腹をかすめた。
「くっ!」
痛みが走る。
ビキニアーマーに浅い傷が入った。
「リーネア!」
「大丈夫!」
ヴィーゴが駆ける。
スピアディアの後ろへ回り込む。
「今度は僕が――」
剣を振る。
だが、これもぎりぎりでかわされる。
「……速いですね」
「うん!」
スピアディアがこちらを睨む。
明らかに警戒していた。
前回のリーネア一人のときとは違う。
こちらには二人いる。
どちらへ突っ込んでも、もう一人がいる。
「ヴィーゴ!」
「はい!」
リーネアが走る。
ヴィーゴも反対側へ。
スピアディアが右へ跳ぶ。
リーネアが追う。
今度はヴィーゴが進路を塞ぐ。
スピアディアが左へ。
リーネアが回り込む。
「そこ!」
リーネアの剣が、角の根元をかすめる。
「入った!」
スピアディアが慌てて距離を取る。
ヴィーゴの剣先も、前脚を浅く切った。
「やりましたね」
「うん!」
確かに当たった。
前回とは違う。
自分たちの攻撃が、少しずつ届いている。
だが――。
スピアディアも余裕がなくなっていた。
呼吸が荒い。
動きにわずかな乱れが出ている。
「このままいける!」
リーネアが踏み込む。
スピアディアが横へ跳ぶ。
それに合わせてヴィーゴも動く。
リーネアとヴィーゴの位置が自然に入れ替わる。
右。
左。
前。
後ろ。
二人はまるで決められた動きをするように、スピアディアを挟んでいく。
そして――。
リーネアが目線を送る。
ヴィーゴが頷いた。
次の一手。
そう思った瞬間。
「うわっ!」
ヴィーゴの身体がよろめいた。
「ヴィーゴ!」
足元。
木の根。
森の中に張り出した根へ、足を引っかけてしまった。
「しまった!」
ヴィーゴが体勢を崩す。
スピアディアの目が鋭くなる。
逃さない。
身体を反転させ、ヴィーゴへ向かって駆け出した。
「ヴィーゴ!」
角ではない。
蹄で踏みつぶすつもりだ。
ヴィーゴは立ち上がりきれない。
間に合わない。
「――させない!」
リーネアが飛び込んだ。
ヴィーゴの前に滑り込む。
両手で剣を握る。
「せえええっ!」
ドンッ!
スピアディアの前脚が剣にぶつかった。
衝撃でリーネアの身体が沈む。
だが、踏みとどまる。
「……っ!」
脚が震える。
それでも。
絶対に退かない。
数秒のにらみ合い。
そしてスピアディアが跳び退いた。
「……大丈夫ですか?」
ヴィーゴが立ち上がる。
「大丈夫」
リーネアは息を切らしながら笑った。
「ヴィーゴ」
「はい」
「今までだって、何度も助けてもらったでしょ」
「……」
「だから、お互い様だよ」
笑顔だった。
その言葉に、ヴィーゴの顔も少し緩む。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そして、
ヴィーゴの目が変わった。
「……さっきので」
「うん?」
「良いアイデアが浮かびました」
「どんな?」
ヴィーゴはスピアディアを見る。
「さっき、僕が転んだ瞬間」
「スピアディアがこっちに意識を向けた」
「うん」
「だったら、それを利用する」
リーネアの目が輝く。
「なるほど」
「ただし」
ヴィーゴが真剣な顔をする。
「タイミングが重要です」
「任せて」
二人は再び構えた。
スピアディアも、身体を低くする。
互いに動きを窺う。
そして。
「行きます」
「うん!」
二人が左右へ分かれる。
スピアディアが突っ込む。
リーネアが避ける。
ヴィーゴが攻撃。
スピアディアが横へ跳ぶ。
リーネアが追う。
ヴィーゴが反対側へ回る。
何度も。
何度も。
攻撃と回避を繰り返す。
スピアディアの呼吸が荒くなる。
動きが少しずつ鈍る。
「今です!」
ヴィーゴが叫んだ。
リーネアが頷く。
スピアディアへ向かって駆ける。
左右から挟み込む。
スピアディアがリーネアを見る。
次にヴィーゴを見る。
どちらへ行くか。
迷う。
その瞬間。
ヴィーゴが突然、背を向けた。
「え?」
リーネアが一瞬だけ驚く。
だが、すぐに意味を理解した。
スピアディアの視線がヴィーゴへ集中する。
背中を見せた。
隙だ。
そう思わせる。
スピアディアがヴィーゴへ向かって踏み込む。
その瞬間。
「今!」
ヴィーゴが叫ぶ。
リーネアが一気に踏み込んだ。
「――っ!」
剣を振る。
速い。
一振りではない。
身体全体を連動させた高速の斬撃。
これまでの特訓で身につけた動き。
野菜を切るときに磨いた速度と正確さ。
それが今、実戦の中で一つになった。
剣筋が見えない。
ただ空気を切り裂く音だけが響いた。
ズバッ!
スピアディアの身体が大きく揺れる。
「キィィィィッ!」
鳴き声を上げ、ふらついた。
「今の……!」
ヴィーゴも驚いていた。
だが、まだ終わっていない。
「もう一度!」
リーネアが踏み込む。
今度はヴィーゴも同時に動いた。
スピアディアは反撃しようとする。
しかし、すでに動きが鈍っている。
二人の連続攻撃を避けきれない。
そして――。
しばらくの激闘の後。
森に、静けさが戻った。
「……」
リーネアは剣を下ろした。
「……終わった?」
「終わりました」
ヴィーゴもその場に座り込む。
「……はぁ……」
リーネアも地面へ腰を下ろした。
「疲れた……」
「僕もです」
二人とも荒い息を吐いていた。
スピアディアの身体には、二人の攻撃による傷が残っている。
二人の装備にもいくつか傷がついていた。
だが。
その表情は明るかった。
「……勝ったね」
「はい」
「私たち、スピアディアに」
「二人で」
「……二人で」
リーネアは嬉しそうに笑った。
前回とは全く違う。
あのときは、一人で挑んで何もできなかった。
今日は違った。
攻撃を避けた。
攻撃を当てた。
ヴィーゴと助け合った。
最後には、自分たちで勝ち筋を作った。
「特訓、無駄じゃなかったね」
「うん」
ヴィーゴが笑う。
「かなり無茶な特訓もありましたけど」
「マンドラゴラとか?」
「はい」
「滝登りとか」
「はい」
「スイカとか」
「……あれは特訓とは関係ありません」
二人は顔を見合わせる。
そして。
「ふふっ」
「ははっ」
声を上げて笑った。
森の木々の間から、午後の光が差し込んでいる。
まだまだ強くならなければならない。
もっと強いモンスターもいる。
もっと遠くへ行けば、今まで知らなかった敵もいるだろう。
けれど。
今日、二人は確かに知った。
一人では届かなかった場所にも。
二人なら、届く。
「ヴィーゴ」
「はい?」
「次はどうする?」
リーネアの目は、もう次の冒険を見ていた。
ヴィーゴは少し考えてから笑った。
「まずは、このスピアディアを解体して素材を集めましょう」
「……やっぱりそれかぁ」
「当然です」
「でも、そのあとね」
「ええ」
どちらからともなく立ち上がる。
二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。
けれど今日。
その歩幅は、確かに昨日までより大きくなっていた。




