私自身の強さ
数日前。
ヴィーゴの工房には、朝から二人の声が響いていた。
「絶対これがいいって!」
リーネアが一枚の依頼書を両手で掲げる。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『スピアディア討伐依頼』
「駄目です」
「なんで!」
即答だった。
ヴィーゴは作業台の前に座ったまま、依頼書へ視線を落とす。
「スピアディアは、今の僕たちにはまだ早いです」
「でも、ホーンボアは倒せたじゃん!」
「ホーンボアとスピアディアでは危険度が違います」
「一段くらいでしょ?」
「一段どころではありません」
ヴィーゴはため息をついた。
「スピアディアは、体長が一・五メートル前後。大きな個体になると、それ以上になります」
「それくらい知ってるよ」
「なら、その角の長さも?」
「……一メートル近い、槍みたいな角」
「そうです」
ヴィーゴは作業台の上に置いていた金属片を指で軽く弾いた。
「しかも、あの角はただ長いだけではありません。魔力で硬度を高めています」
「うん」
「脚力も魔力で強化するので、突進の威力もかなり高い」
「でも、ホーンボアだって突進してきたじゃん」
「スピアディアは、それだけじゃありません」
ヴィーゴの声が少し低くなる。
「直線で突っ込んでくるだけなら、まだ対処しやすい」
「……じゃあ?」
「横に跳びます」
「横に?」
「はい。こちらの回避方向を読んで、横へ跳んで軌道を変える個体もいます」
リーネアの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「それ、面倒だね」
「さらに、突進と見せかけて途中で止まったり、わざと踏み込む距離を変えたりする個体もいます」
「フェイントまで使うの?」
「はい」
ヴィーゴは依頼書を指差す。
「そして最も危険なのが、避けた後です」
「……まだあるの?」
「あります。突進をかわして安心していると、そのまま後ろ蹴りを放つことがあります」
「……」
リーネアは無言になった。
しばらくして。
「でも」
依頼書を握り直す。
「だからこそ、やってみたい」
「リーネアさん」
「最近、私ちょっとずつ強くなってる」
「それは分かっています」
「ツノウサギも狩れた。ミニワイバーンからも逃げられた。ホーンボアだってヴィーゴと一緒に倒した」
「ええ」
「だったら、次はもっと強い相手に挑戦してもいいじゃん」
ヴィーゴは答えなかった。
リーネアは、そんな彼の顔をじっと見る。
「……まだ私じゃ無理だと思ってる?」
「無理というより、危険すぎると思っています」
「同じことじゃん」
「違います」
「私、そんなに弱くないよ」
「はい」
返事が早かった。
「知っています」
「じゃあ!」
「ですが、強くなったことと、十分に強いことは別です」
「……」
その言葉が、妙に腹立たしかった。
「じゃあ、いいよ」
リーネアは依頼書を机へ叩きつけた。
「私一人で倒してくる」
「……」
「スピアディアを一人で倒して、今の私でも無理じゃないって証明してみせる!」
ヴィーゴは額に手を当てた。
「どうしてそういう極端な話になるんですか……」
「だって、ヴィーゴが駄目って言うから!」
「そう言われましても」
ヴィーゴはしばらく考えた。
それから、静かに息を吐く。
「……分かりました」
「え?」
「やってみたらいいでしょう」
「いいの?」
「はい」
「本当に?」
「ただし、依頼を受けるなら無理をしないこと」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって!」
リーネアは勢いよく依頼書をつかみ直した。
だが、ヴィーゴの表情は少しだけ真剣だった。
「一度、自分の実力をきちんと確かめるのも悪くないと思います」
「……」
「僕が止め続けるより、自分で限界を知ったほうが分かることもありますから」
その意味を、リーネアはまだ深く考えなかった。
「じゃあ、行ってくる!」
そう言い残して、工房を飛び出した。
そして――。
現在。
「……絶対いける」
リーネアは森の中を一人で歩いていた。
「私は前より強くなってる」
木々の間から差し込む光を受けながら、足を進める。
「スピアディアだって、ちゃんと動きを見れば倒せる」
森は静かだった。
鳥の鳴き声。
葉擦れの音。
遠くで何かが枝を踏む音。
少しだけ緊張する。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「ビキニアーマーだってある」
腰に手を当てる。
以前なら、ここで装備のことを考えると少し恥ずかしくなっていた。
今は違う。
これはヴィーゴが作った、自分のための装備だ。
そして何度も、自分を助けてくれた。
「私ならできる」
依頼書に記されていた場所は、境界の森の中でも比較的浅い区域だった。
スピアディアが目撃されたという情報がある。
リーネアは周囲を注意深く見回しながら進んでいく。
「足跡……」
土の上に、大きな蹄の跡。
少し古い。
「こっちかな」
さらに進む。
すると――。
木々の向こうに、何かが動いた。
「……いた」
リーネアが息を呑む。
大きな鹿だった。
だが、普通の鹿ではない。
体長は一・五メートルほど。
頭から伸びた巨大な角は、枝分かれしているものの先端まで鋭く、まるで幾本もの槍を束ねたようだった。
スピアディア。
こちらを警戒するように、じっと見つめている。
「……大きい」
リーネアは剣を抜いた。
スピアディアが一歩下がる。
頭を下げる。
「来る!」
次の瞬間、地面を蹴った。
「速っ!」
リーネアは横へ飛んだ。
スピアディアの角が、すぐ横を通り過ぎる。
ビュンッ!
「危な……」
振り返る。
スピアディアはすでに止まり、こちらを見ている。
「なら、今!」
リーネアが駆け出した。
一気に距離を詰める。
剣を振る。
しかし。
スピアディアが横へ跳んだ。
「えっ!」
剣が空を切る。
そのまま反対側へ着地したスピアディアが、すぐにこちらを向く。
「そんな動きするの!?」
リーネアは驚きながらも剣を構え直した。
「次!」
再び向かってくる。
今度は正面。
角が迫る。
リーネアはギリギリまで引きつけて避けた。
だが――。
「っ!」
スピアディアはそのまま止まらなかった。
後ろ脚が跳ね上がる。
ドッ!
蹴りが腕をかすめた。
「痛っ!」
リーネアはよろめく。
左腕に鋭い痛みが走る。
「これが……後ろ蹴り……!」
息を整える。
大丈夫。
まだ動ける。
ビキニアーマーにも傷はない。
「こんなの、まだ……!」
再び攻撃へ向かう。
だが、当たらない。
速い。
とにかく速い。
直線だけではない。
横へ跳ぶ。
急に止まる。
角を振る。
さらに後ろ蹴り。
リーネアが剣を振るたび、わずかに届かない。
「くっ!」
角の先端が肩をかすめる。
装甲に傷が入る。
「まだ!」
踏み込む。
今度は腹を狙う。
だが、スピアディアが身体をひねった。
角が横薙ぎに振られる。
「っ!」
リーネアは頭を下げてかわした。
だが、完全には避けきれない。
角が髪を数本切り取った。
「……!」
冷たい汗が背中を伝う。
怖い。
ホーンボアとは違う。
あの時は、相手の攻撃を誘って避けるという明確な方法があった。
だが、目の前のスピアディアは、自分の予想を何度も外してくる。
「……私ならできる」
リーネアは呟いた。
「できる……!」
剣を握る手に力を込める。
大きく息を吸う。
そして。
「これで――!」
渾身の一撃を放った。
全身の力を乗せた横薙ぎ。
当たれば、かなりのダメージになる。
そう確信した。
だが。
スピアディアの身体が、一瞬で横へ消えた。
「……え?」
空振り。
その直後。
ドンッ!
「うわっ!」
強烈な蹴りが背中を打った。
身体が前へ吹き飛ぶ。
地面を転がる。
「っ……!」
息が詰まった。
土と枯れ葉が頬に張り付く。
起き上がろうとする。
だが、身体が重い。
痛い。
思うように力が入らない。
前方では、スピアディアがこちらを見ている。
逃げるべきか。
もう一度立ち向かうか。
リーネアは剣を握り直そうとした。
しかし、その指が震えていた。
「……無理……」
初めて、その言葉が口から出た。
「私じゃ……」
スピアディアがこちらへ顔を向ける。
再び角を構える。
リーネアは反射的に立ち上がった。
「……逃げなきゃ」
剣を拾い、走る。
森の中を必死に駆けた。
追ってくる気配がなくなるまで。
何度も振り返りながら。
そして――。
グリューネヴァルト。
夕方。
工房の扉が勢いよく開いた。
「……ヴィーゴ」
「リーネアさん?」
顔を上げたヴィーゴは、すぐに立ち上がった。
「どうしたんです、その傷!」
ビキニアーマーには細かな傷がいくつも入っている。
装備が致命的に壊れているわけではない。
しかし、見てすぐ分かるほど消耗していた。
リーネア自身も、泥だらけだった。
「……負けた」
それだけ言った。
ヴィーゴは何も言わなかった。
「スピアディア、倒せなかった」
「……そうですか」
「私、弱かった」
リーネアは拳を握る。
「ビキニアーマーならもっと戦えると思ってた」
「……」
「ホーンボアも倒せたし、ミニワイバーンからだって逃げられたから」
声が少し震える。
「私、強くなったと思ってた」
ヴィーゴは静かに彼女を見る。
「強くなっていますよ」
「でも負けた」
「はい」
「……だったら、弱いじゃん」
ヴィーゴは少し考えてから、工房の椅子を指した。
「座ってください」
「うん……」
リーネアが座る。
ヴィーゴは傷の確認をしながら話し始めた。
「ビキニアーマーは、装備した人の素質を引き出します」
「うん」
「身体を動かしやすくして、持っている能力をできるだけ無駄なく使えるようにする」
「うん」
「でも、それは魔法のように本人以上の力を与えるものではありません」
リーネアは黙って聞いている。
「速く動ける身体なら、その速さを活かせる」
「……」
「強く踏み込めるなら、その力を邪魔しない」
「……」
「だけど」
ヴィーゴは真っ直ぐに彼女を見る。
「元々ない力まで与えてくれるわけじゃない」
その言葉が、胸に刺さった。
「今日、スピアディアに負けたのは、ビキニアーマーが駄目だったからじゃありません」
「じゃあ……私が弱かった?」
「はい」
ヴィーゴは、はっきり答えた。
けれど、その声に責める色はなかった。
「今日のあなた自身の力では、まだ届かなかった。それだけです」
「……」
「だったら、これから強くなればいい」
リーネアは顔を上げた。
「装備に頼るだけじゃなくて」
「はい」
「自分自身が強くなる」
「はい」
「もっと速くなって、もっと上手く避けて」
「はい」
「ちゃんと自分で戦えるようになる」
「そうです」
リーネアの手が、少しずつ強く握られる。
「……それで」
「はい?」
「ヴィーゴと一緒に戦いたい」
ヴィーゴが目を見開いた。
「一人で勝ちたいんじゃなくて」
リーネアは自分の傷ついた装備を見下ろす。
「ヴィーゴが作ってくれた装備を使って、私自身も強くなって」
「……」
「それで、ヴィーゴと一緒に、もっと強いモンスターを倒したい」
しばらく沈黙したあと。
ヴィーゴは小さく笑った。
「それなら、僕も協力します」
「……本当?」
「はい」
「特訓とか?」
「必要ですね」
「厳しい?」
「かなり」
「うわぁ……」
「嫌ですか?」
リーネアは少しだけ考えて。
「……やる」
顔を上げる。
「絶対、強くなる」
その瞳には、さっきまでの悔しさとは違う光が宿っていた。
負けた。
だからこそ分かった。
ビキニアーマーは、自分を強くしてくれる。
でも、本当に強くなるのは自分自身だ。
そのために。
いつかヴィーゴの隣に並んで戦えるように。
リーネアは、新しい目標を胸に刻んだ。
そしてヴィーゴもまた。
その決意を、静かに受け止めていた。




