第五十一話 エルフのSOSと、出たくない引きこもり、そして現地通販が必要すぎる救助作戦
ログハウスの窓の向こうには、一面の銀世界が広がっていた。
結界の内側では、白い雪が音もなく静かに降り積もっている。
枝には綿帽子のように雪が積もり、畑も森もやわらかな白に包まれ、冬らしい穏やかな景色を作り出していた。
――だが、その向こう。
《絶対防衛結界》の境界線の外では、一週間も吹き荒れ続ける猛吹雪が森を飲み込み、視界のすべてを白く塗り潰していた。
風は獣のように唸り、舞い上がった雪煙が空と大地の境界さえ消し去っている。
ここから眺めているだけでも、その寒さと凶暴さが伝わってくる。
エルマの《絶対防衛結界》は、魔物も侵入者も完全に拒む。
雪や雨といった自然現象そのものは遮らないが、吹き荒れる暴風だけは結界の外へ弾き返しているため、内側へ降る雪はどこまでも穏やかだ。
まるで別々の季節が、一枚の透明な壁を隔てて隣り合っているようだった。
――もっとも。
寒いのは、外だけなんだが。
「……あぁ、もうダメだ。この四角い結界から出たら、アタシは死ぬ」
着る毛布にくるまったガランが、こたつの天板へ頬を押しつけたまま完全に溶けている。
元Aランク冒険者とは思えない台詞だが、冬のこたつの前では英雄も一般人も等しく無力だ。
「コウタ様ぁ……みかん……」
今度はエルマである。
こたつ布団の中から芋虫のようにもぞもぞと顔だけ出し、か細く手を伸ばしてきた。
「皮……剥いてください……」
「自分で剥け」
「腕を出したら冷気で魔力回路が凍ります……」
「そんな繊細な生き物だったのか、お前」
「冬季限定です……」
「ずいぶん都合のいい限定仕様だな」
ヒーターの真正面では、ミリィとポテトが暖房特等席をめぐって小競り合いをしていた。
「にゃっ! そこ、いちばんあったかい!」
「ガウッ!」
「ちょっとつめて!」
「ガゥゥッ!」
「おい、ケンカするなら外でやれ」
「にゃー! さむいからヤダー!」
結局、二匹とも暖風を真正面から浴びる位置で丸くなり、そのまま動かなくなった。
火竜まで暖房機器に骨抜きにされるとは思わなかった。
ポータブル電源は今日も満充電。
ロエンの畑は、ビニールハウスと踏み込み温床のおかげで雪の中でも青々としている。
パントリーには二百五十日分の備蓄食料。
暖房良し。
食料良し。
電力良し。
――引きこもり要塞、本日も異常なし。
「……平和だなぁ」
俺が温かい緑茶をすすりながら、コタツでぬくぬくとタブレットを眺めていた、その時だった。
パァンッ……!
「!?」
窓ガラスをすり抜けるように、一羽の青い小鳥が部屋へ飛び込んできた。
淡い魔力で形作られた、美しい鳥だった。
一直線にシルフィの肩へ止まる。
ピィ、と一声鳴く。
そして雪のように崩れ、消えた。
部屋から、笑い声が消えた。
「……シルフィ?」
俺が呼ぶと、シルフィの顔から、さっと血の気が引いていく。
手にしていた漫画が、音を立てて床へ落ちた。
「……集落からの、使い魔だ」
震える指で手紙を開く。
読み進めるたび、その表情はさらに険しくなった。
「数十年に一度の《大寒波》が森を直撃した」
静まり返ったリビングに、シルフィの声だけが響く。
「精霊の加護が雪の重みに耐えきれず崩壊。長老たちが命を削って結界を維持しているが、それも今夜まで保たない」
誰も口を挟まない。
「さらに、先日の大ねずみの魔物の群れで備蓄の大半を失った」
そこで一度、シルフィは言葉を切った。
ゆっくりと唇を噛み締め、
そして、小さく呟く。
「……このままでは、集落が滅ぶ」
その一言だけで十分だった。
さっきまでこたつに取り込まれていた全員が、一斉に立ち上がった。
「なっ……!」
ガランが目を見開く。
「シルフィの故郷が!? あんな立派なエルフたちが、ただの寒さで全滅するっていうのかい!?」
「そんな……エルフの精霊術でも防ぎきれないほどの寒波なんですか……?」
エルマも顔を青くしている。
「もはや災害ではありません……世界そのものが牙を剥いています……」
「……私は、行く」
シルフィは青ざめたまま壁へ歩み寄り、静かに愛用の弓を手に取った。
震えていたのは、その指先だけだった。
「同胞を見捨てることはできない」
矢筒を背負いながら、静かに続ける。
「私の魔力をすべて注ぎ込めば、結界は数日保たせられるはずだ」
「待て」
俺は即座に制した。
「お前一人で行っても解決しない。暖を取る手段も、食料も足りないんだろ?」
「わかっている!」
シルフィが珍しく声を荒らげる。
「だが、ここでぬくぬくとこたつに入っていろと言うのか!」
シルフィの声が、リビングに鋭く響いた。
その瞬間、さっきまでの緩んだ空気が消える。
シルフィは、普段から感情を表に出さない。
冷静で、皮肉屋で、どこか達観していて、慌てる他人を横から辛口に眺めているような奴だ。
そのシルフィが、今は明らかに焦っていた。
怒っているのではない。
怖いのだ。
故郷が消えるかもしれない。
同胞が凍えて死ぬかもしれない。
それなのに、自分一人ではどうにもならない。
その現実を、必死に押し殺している顔だった。
「……だったら、話は簡単だねぇ」
最初に動いたのは、ガランだった。
こたつ布団をばさりと跳ね上げ、ゆっくり立ち上がる。
さっきまで「この四角い結界から出たら死ぬ」と言っていた女戦士の目が、もう完全に冒険者のものへ戻っていた。
「水臭いよ、シルフィ」
ガランは首を鳴らしながら、にやりと笑う。
「仲間が困ってる。だったら助ける。それだけだろ?」
「ガラン……」
「あんた一人で行かせるわけないだろ。行くなら、みんなで行くんだよ」
その声に、いつもの軽さはなかった。
「アタシは前に出る。雪をかき分ける。魔物が出りゃ蹴散らす。現地で家が潰れてるなら、斧で邪魔なのぶっ壊してでも中の奴を引っ張り出す」
言いながら、ガランは壁に立てかけてあった大斧を担いだ。
「こういう時のための前衛だ」
ロエンも、無言で立ち上がった。
「救助は勢いだけでは成り立たん」
低く、淡々とした声だった。
「道を確保する者。周囲を警戒する者。負傷者を運ぶ者。体力の残りを見て進退を決める者。必要な物資を見極める者。役割が要る」
「……」
「俺は雪を読む。風向き、積雪、足場、体力の消耗。雪道なら、狼の脚と鼻は使える」
口数は少ない。
だが、もう行くことを前提に話していた。
俺は、こたつ布団を握る手に力を込める。
ん?
……ちょっと待て。
みんなで行く?
それはつまり、俺も行く流れなのか?
(いやいやいや。普通に無理だろ!)
窓の向こうを見ろ。
あれは雪景色じゃない。
白い殺意だ。
俺は雪山経験ゼロの都会っ子で、体力もない。
ダンジョン探索の経験もなければ、魔物と正面から戦ったこともない。
そんな俺が、あんな猛吹雪の中へ出ていったところで、何ができる。
むしろ絶対に足手まといになる。
ガランやロエンが救助に集中しなきゃいけない時に、俺が雪に埋まって「助けてください」とか言い出す未来が見える。
嫌すぎる。
情けなさが具体的すぎる。
だったら、俺は俺にできることをすればいい。
物資を出す。
防寒具を用意する。
食料を揃える。
暖房器具も、毛布も、薬も、必要そうなものは全部ここで準備する。
俺の通販スキルは、あくまでも後方支援だ。
何かと戦ったり、過酷な環境に体を張ったりするスキルじゃない。
前線には、前線に向いた奴が行けばいい。
そうだ。
それが一番合理的だ。
……合理的なはずだ。
「……俺は行かない」
口にした瞬間、こたつの温もりがやけに名残惜しく感じた。
逃げ道を作ったつもりなのに、胸の奥が少しだけざわつく。
「防寒具も食料も暖房器具も、できる限りこっちで用意する。お前たちが運べ。俺はここで追加の物資を――」
「お前も来い」
ロエンが、即座に言い切った。
「……え」
ロエンは当然のようにうなずく。
「俺も? 冗談だろ」
「ああ、本気だ」
ロエンは当然のように頷いた。
「現場を見ずに最適解は出せん。怪我人は何人いる。子どもは。家屋被害は。食料と燃料、薬の残量。状況は刻々と変わる」
淡々とした声なのに、一切の反論を許さない硬さがある。
「その場で判断し、即座に補充する。お前がいなければ出来ん」
「で、でも最初から多めに持って行けば――」
「坊や」
ガランが、珍しく真面目な顔で俺を見た。
「今回は、それじゃ足りないよ」
ゆっくりと首を振る。
「毛布が足りない。飯が足りない。薬が要る。家が潰れてるから工具が要る。子どもが凍えてるから、すぐ温める物が要る。そうなった時、何を出すか決められるのは、あんただけなんだ」
「……でも俺は、お前らみたいに魔物をぶった斬ってきたわけじゃない。ダンジョン未経験、討伐未経験、雪山未経験のトリプル未開封一般人だぞ? こんな吹雪に出たら救助する側じゃなく救助される側になる未来しか見えないんだが……!」
「戦う必要はないさ」
ガランは短く言った。
「あんたは、出すんだよ」
「……」
「アタシが守る。ロエンが運ぶ。シルフィが道を拓く。で、坊やは現地で必要な物を出す」
それは、やけに具体的な役割分担だった。
「つまり、あんたがいないと救助隊にならない」
痛いほどの正論。
言い返そうと口を開く。だが声が出ない。
足手まといになる。外へ出たくない。怖い。寒い。面倒くさい。
全部、本音だ。
――けれど、そのどれも「行かなくていい理由」にはならなかった。
「それに!」
今度はエルマが勢いよく身を乗り出した。
「コウタ様の通販は、現場判断込みで初めて完成する能力です!」
「なんで俺に一番近い引きこもり体質のお前まで、外出を推奨する側に回ってるんだよ」
「私だって本音では反対です!」
「反対なのかよ」
「当然です! この気温で屋外活動など、研究者の生命維持環境を著しく損ないます!」
エルマはそこで、びしっと人差し指を立てた。
「ですが、作戦上の結論は別です! コウタ様の通販能力は、その場の状況を見て必要物資を即座に調達できる点に最大の価値があります。この村での実績から見ても、過酷な環境ほど効果が飛躍的に向上することは実証済みです!」
「プレゼンやめろ!」
「以上の理由により、コウタ様の現地同行は必須です!」
「その客観的事実が一番断れないんだよ!」
俺は窓の向こう――結界の外へ視線を向けた。
境界線のこちら側では、雪が静かに舞い落ちているだけだ。
だが、その向こうは別世界だった。
吹雪。
ただひたすら吹雪。
風が雪を狂ったように巻き上げ、空も森も地面も、すべてが白く溶け合って境界すら見えない。
「……俺、すっごく外出たくない」
心の底からの本音だった。
「いや、見ろよ。あの景色」
俺が窓の外を指差すと、全員の視線がそちらへ向く。
「あれもう、世界そのものが『本日は不要不急の外出をお控えください』って言ってるだろ」
「言ってるねぇ」
ガランが素直に頷いた。
「完全に言ってる。あんたみたいなひょろひょろが外へ出たら、風に攫われて春まで見つからないかもしれないねぇ」
「だろ!? ほら見ろ! 経験豊富な冒険者もそう言ってる!」
「でも行くんだろ?」
「なんでだよ!」
ガランは苦笑して肩をすくめた。
「仲間だからさ」
「ぐっ……!」
「それに」
少しだけ、声が優しくなる。
「あんたは、ここで死にそうになってる誰かを見捨てられるような人間じゃない。アタシらは、もう知ってる」
「……っ」
痛恨だった。
仲間から向けられる信頼。
それは、自尊心なんて大して高くない引きこもりの防御力を、きれいに無視して貫通してくる。
俺は、別に勇者じゃない。
誰かを救うために旅立てるような人間じゃない。
できることなら、面倒ごとは全部避けたい。
暖かい部屋で、誰にも邪魔されず、誰にも期待されず、静かに暮らしていたい。
それが俺の本音だ。
でも。
シルフィが青ざめた顔で立っている。
(……異世界で引きこもり生活なんて、そもそも一人じゃ無理だったよなぁ)
俺がこの異世界に来て、最初に出会ったのはシルフィだった。
森の中で、何もわからず、何もできず、ただ「終わった」と思っていた俺の前に現れたエルフ。
ポテチに釣られて、コーラに目を白黒させて、それでも俺にこの森のことを教えてくれた。
拠点に向いた場所を案内してくれた。
最初の夜、俺を一人にせずにいてくれた。
ログハウスを建てる時も、文句を言いながら手を貸してくれた。
魔物が近づけば警戒してくれた。
俺がこの森で生きていけるようになるまで、なんやかんや言いながら、ずっと助けてくれた。
シルフィがいなかったら。
たぶん俺は、最初の数日で詰んでいた。
いや、かなり高い確率で、森のどこかで普通に死んでいた。
そんな相手が、今、初めて俺に助けを求めている。
ガランが大斧を担いでいる。
ロエンがすでに雪道を見ている。
エルマが震えながらも、自分には何ができるかを考えている。
こいつらは、俺が一緒に来ると思っている。
俺なら当然、背中を任せられると信じている。
……重い。
信頼ってやつは、こんなにも重かったのか。
部屋が、しんと静まり返る。
シルフィは何も言わず、ただ、まっすぐに俺を見つめていた。
そして、小さく息を吸い込む。
「……頼む」
絞り出されたのは、たったその一言。
だが、その響きはとてつもなく重かった。
誰かに弱みを見せることも、借りを作ることも極端に嫌うこいつが、いつもなら絶対に口にしない言葉。
「…………」
俺は、こたつを見た。
暖かい。
柔らかい。
最高だ。
できることなら、この四角い楽園の中で今日という一日を終えたい。
みかんを食べて、茶をすすって、漫画でも読みながら、外の吹雪を「大変だなぁ」と他人事みたいに眺めていたい。
この村に来てから、俺はずっとそういう生活を目指してきた。
誰にも干渉されず。
誰にも期待されず。
誰にも無理を言われず。
ただ、自分の快適さだけを守って生きる。
そのはずだった。
なのに、気づけば俺の周りには人が増えた。
食わせる相手が増えた。
守りたい場所ができた。
そして、最初に俺を助けてくれた相手の故郷が、今まさに消えかけている。
……面倒くさい。
本当に、面倒くさい。
俺は外に出たくない。
寒いのは嫌いだ。
吹雪なんて論外だ。
できるなら、ここで通販ウィンドウだけ開いて「はい、支援物資です」で済ませたい。
でも、それじゃ足りない。
たぶん、俺自身が一番わかっていた。
シルフィがあの時、森の中で俺を「変な人間だ」と見捨てていたら。
俺は今、ここでこたつに入ってなんかいない。
だったら。
今度は、俺がこたつから出る番なんだろう。
ここで残ったら、たぶん俺は、この先ずっとこの温もりを心から楽しめなくなる。
シルフィの故郷が消えたと聞くたびに。
あの時、自分だけ暖かい場所にいたと思い出すたびに。
どんな極上の布団に潜り込んでも、きっと落ち着いて眠れなくなる。
「……あー、もう」
俺は、乱暴に頭を掻きむしった。
「なんで引きこもりの俺が、こんな目に……」
肺の底から、深いため息を一つ吐き出す。
「くそっ」
俺は観念し、こたつの温もりから立ち上がった。
「わかったよ。……行く」
「コウタ――」
「ただし!」
俺は人差し指を突きつけた。
「勘違いだけはするなよ」
全員がきょとんとこちらを見る。
「俺は勇敢だから行くんじゃない」
一拍置く。
「これはな、外に出たくない引きこもりが、親とか先生とか親戚とか近所のおばちゃんとかに『たまには外へ出なさい!』って四方八方から包囲されて、泣く泣く部屋から引きずり出される、あの状況だ!」
一瞬の沈黙。
そして――
「だっははははは!」
ガランが腹を抱えて笑い出した。
「違いないねぇ! 坊やにゃ悪いけど、今の例えは百点だ!」
「笑うなよ! こっちは人生を賭けた訴えなんだぞ!」
「無理無理。あんた、自分で『外に出たくない』って何回言ったと思ってるんだい?」
すると、エルマがすっと手を挙げた。
「……悲しいので、そこは否定してください」
「なんでお前までダメージ受けてるんだよ」
エルマは気まずそうに目を逸らす。
「研究室から引きずり出される自分の姿が、容易に想像できてしまいまして……」
「自覚あるのかよ!」
「ですが!」
びしっと人差し指を立てる。
「私は、この救助作戦におけるコウタ様の現地派遣を、改めて強く推奨します!」
「まだプレゼン続けるの!?」
「結論は変わりません。コウタ様の同行は必須です!」
「その客観的事実が一番断れないんだよ!」
エルマは神妙な顔で頷いた。
「事実とは、ときに人を傷つけるものなのです」
「お前が言うな!」
ロエンが静かに頷く。
「助かる」
「お前まで真顔で言うな」
「お前なら来てくれると思っていた」
「……そういう信頼も、今は重い」
ロエンは少しだけ口元を緩めた。
「すまん」
「謝るくらいなら断れる空気を作れ」
「それは無理だ」
「即答かよ」
シルフィが小さく息をついた。
「感謝する」
「はぁ……その言葉は帰ってから聞く」
「……?」
「暖かい部屋で、こたつに入って、みかん食いながら聞く。それまでは預かっとけ」
一瞬きょとんとしたシルフィは、ふっと小さく笑った。
「……ああ、そうだな」




