第五十話 白銀の要塞と、発酵の熱(コンポスト)、そして深海の巨大魔物(タラバガニ)
その朝。
ログハウスの分厚い遮光カーテンを開けた俺は、窓の向こうに広がる光景を見て、思わず言葉を失った。
「……うわ」
一面、真っ白だった。
森も、畑も、柵も、見張り台も。
昨夜まで赤や黄色に染まっていた秋の景色は跡形もなく消え去り、世界そのものが白い布で包まれたような銀世界へと変わっている。
ログハウスの屋根にはふっくらと雪が積もり、プレハブ小屋も、ベルテントも、ガーデンハウスも、仲良く真っ白な帽子をかぶっていた。
風が吹くたび、木々の枝に乗った雪がさらさらと舞い落ちる。
音がない。
あまりにも静かで、世界から余計なものが全部取り除かれてしまったようだった。
「……冬、来たか」
異世界に来て、初めて迎える本格的な冬。
普通なら、この幻想的な雪景色にしばらく見惚れるところなのだろう。
だが、俺は違う。
引きこもりにとって、情緒より先に確認すべきものがある。
俺は窓から離れると、リビングの隅に並べてある五台の大容量ポータブル電源へ一直線に向かった。
液晶画面を確認する。
残量、九十八パーセント。
「よし」
思わず拳を握る。
勝った。
極寒ではリチウムイオン電池の性能が落ちる。
だから俺は最初から、電源類をすべてエアコンで室温管理されたログハウスの中へ設置しておいた。
屋外保管?
論外だ。
そんなことをしていたら今頃、雪景色を眺めるどころか、毛布にくるまりながらバッテリー残量と睨み合う羽目になっていた。
続いて、パントリーを確認する。
米。
小麦粉。
乾麺。
缶詰。
レトルト食品。
冷凍食品。
調味料。
菓子類。
そして、いざという時の非常食。
通販スキルで買い込んだ二百五十日分の備蓄食料が、棚いっぱいに整然と積み上げられている。
主食類はすべて真空保存済み。
湿気、問題なし。
虫、問題なし。
保存状態、極めて良好。
「……うん」
思わず頷く。
仮に結界の外が数メートルの豪雪に閉ざされようが。
トムじいの荷車が春まで来られなかろうが。
村が完全に孤立しようが。
問題ない。
俺たちは暖房の効いたログハウスで、鍋でも囲みながら、ゲームをして、漫画を読んで、春が来るのをのんびり待てる。
雪害?
望むところだ。
引きこもりにとって、外出理由が消えるのは脅威ではない。
むしろ、社会から与えられる正当な籠城許可である。
「……よし」
完璧だ。
防衛力。
食料。
電力。
暖房。
娯楽。
どれを取っても盤石だった。
雪にも、寒さにも、停電にも、飢えにも備えた俺の引きこもり要塞は、この冬を迎えて、また一段階完成形へ近づいたと言っていい。
「これなら、春まで雪に閉じ込められても余裕だな」
ひとり満足げに頷いた、その時だった。
「……コウタ」
背後から、ずしりと重たい声が落ちてきた。
振り返ると、こたつで寝落ちしていたらしいロエンが、窓の外を見つめたまま固まっていた。
普段はぴんと立っている狼耳が、今日は見るからに元気なく垂れている。
「外が……大変なことになっている」
「まあ、雪だからな」
「……俺の畑だ」
ああ、そっちか。
ロエンの視線は、雪にすっかり覆われた畑へ向けられていた。
秋の終わりから毎日土を耕し、寒さに耐える野菜を選び、霜が降りる前には囲いまで作った。
その努力の結晶が、一夜にして真っ白な雪布団の下へ埋もれている。
「……この雪では、葉物は長くもたん」
ぽつりと漏らした声には、戦士ではなく、一人の農夫としての無力感が滲んでいた。
「寒さに強い品種を残したとはいえ、この雪と霜が何日も続けば終わりだ。根まで冷えれば、春を待つ前に腐る」
農家としての矜持を持つロエンにとって、自分の育てた作物が枯れていくのを見るのは、たぶん戦場で武器を折られるのとは別種の辛さなのだろう。
いつも無表情に近い男の横顔が、今日は少しだけ本気で沈んで見えた。
「心配すんな、ロエン」
俺はにやりと笑い、タブレットを手に取った。
「冬の農業には、冬のやり方ってもんがある」
ロエンの狼耳がぴくりと動く。
「……冬に、畑を生かす方法があるのか」
「ある。少なくとも、何もしないよりはずっとマシな方法がな」
俺はリビングの方へ向き直り、まだ毛布にくるまっている連中へ声を張った。
「おーい、起きろ! 畑を救うぞ!」
「……んぅ?」
ソファで丸くなっていたシルフィが、片目だけを開ける。
「なんだ、朝から騒がしいな……世界でも滅んだか」
「滅んでない。畑が埋まった」
「ロエンにとっては同じようなものだな」
その認識はたぶん正しい。
「飯かい!?」
ガランだけは反応が早かった。
毛布を肩に引っかけたまま、寝ぼけ眼でこちらを見る。
「まだ朝飯じゃない。だが、終わったら温かいものを作る」
「よし、やるよ!」
即答だった。
判断基準があまりにも明快である。
その横で、エルマが毛布から顔だけ出した。
「畑を……救う……? まさか、農地そのものに保温術式を……いや、しかしこの規模だと魔力消費が……」
「魔法じゃない。文明だ」
「文明……!」
その一言で、エルマの丸眼鏡がきらりと光った。
ミリィはポテトを抱えたまま「ふにゃぁ……」と二度寝しかけていたが、ガランが「終わったら飯だってさ」と言った瞬間、猫耳がぴんと立った。
「ごはん!?」
「ガウッ!?」
ポテトまで目を覚ます。
食欲の目覚まし効果は、異世界でも絶大だった。
俺は空中に通販ウィンドウを開きながら、全員に向かって宣言した。
「冬支度の仕上げだ。今日は畑に――要塞を建てる」
*
新雪をギュッ、ギュッと踏みしめながら、俺たちは真っ白な空き地へ出た。
シルフィもガランもエルマもミリィも、俺が支給した現代の『極暖ダウンジャケット』に身を包み、見事なくらいモコモコに着膨れしている。
「だっははは! 雪だねぇ!」
ガランが朝っぱらから元気いっぱいに叫ぶ。
「息が真っ白だよ! 見なシルフィ! はーーーっ!」
「近い! 顔の前でやるな!」
「冬の挨拶だろ?」
「そんな文化は聞いたことがない!」
その横では、
「にゃああっ! ふかふか!」
ミリィが雪へ飛び込み、
「つめたい! でもふかふか!」
跳ねるたびに雪煙を上げては、自分の尻尾で雪を払おうとして、逆に頭から雪をかぶる。
「にゃっ!?」
ポテトも負けじと雪へ顔から突撃し、鼻先を真っ白にして飛び出してきた。
「ガウッ!」
……楽しそうで何よりだ。
俺は苦笑しながら通販ウィンドウを開いた。
「さて、ロエン」
青白い光の魔法陣が足元へ広がる。
「お前の畑を守るための城を建てるぞ」
「城……?」
「ぽちっとな」
光の中から現れたのは、大量の金属パイプと、分厚い透明な農業用ビニール。
組み立て式大型ビニールハウスキット。
現代日本の農業が生み出した、冬野菜の要塞である。
「これを……建てるのか?」
ロエンが目を見開く。
「ああ。パイプを骨組みにして、この透明な幕を被せる。雪と風を遮って、太陽光だけを取り込むんだ」
「なるほど……」
「ガラン、力仕事を頼む」
「任せな!」
そこから先は早かった。
ガランが圧倒的な腕力でパイプを運び、ロエンが寸分の狂いもなく位置を合わせ、シルフィがロープを張って固定し、俺が説明書を見ながら指示を飛ばす。
エルマは最初こそ「寒いですぅ」と言っていたが、途中から「この曲線構造、合理的ですね……」などと変なところに感心し始め、ミリィは小さいパーツ運び担当として意外と役に立った。
「にゃっ、これどこ!?」
「そっちの山じゃない、こっちの接続部だ」
「わかった!」
「ミリィ、それはネジではなく氷の塊だ」
「えっ」
「口に入れるな」
「まだ入れてないもん!」
「今入れようとしただろ」
「ばれた……」
一時間ほどで、畑の一部をすっぽり覆う巨大なかまぼこ型の『ビニールハウス』が、真っ白な雪原の中にどんと完成した。
「……おぉ」
ガランが思わず声を漏らす。
「雪の中に、ガラスの家が生えたみたいだねぇ」
「中に入ってみろ」
全員で中へ足を踏み入れる。
風が、ない。
それだけで刺すようだった寒さが一段柔らいだ。
「……なるほど」
ロエンが感心したように周囲を見回す。
「風と雪を遮り、太陽の熱だけを閉じ込めるのか。確かに外より暖かい」
「でも」
シルフィが壁へ触れながら言った。
「夜になれば、この熱も逃げるだろう?」
「その通りだ」
ロエンも頷く。
「結局、真冬の夜は凍える」
「だから、もう一工夫する」
俺は不敵に笑った。
「電気も魔法も使わない」
「……?」
「自然そのものを暖房にする」
「自然の……力ですか?」
エルマが首を傾げる。
「太陽でも火でも魔法でもなく?」
「まあな。ロエン、この隅へ深めの穴を掘ってくれ」
「わかった」
あっという間に穴が掘られる。
「そこへ落ち葉、米ぬか、水。この順で重ねて、しっかり踏み固める」
「……落ち葉を?」
「そうだ」
ロエンは半信半疑のまま落ち葉と米ぬかを重ね、水をかけて踏み固めていく。
隣ではミリィも真似して飛び跳ねている。
「にゃっ! にゃっ!」
軽すぎてほとんど意味はない。
「よし、完成」
俺が頷くと、ロエンは足元の山を見下ろした。
「……ただの濡れた落ち葉にしか見えんが」
「見た目はな」
俺は人差し指を立てる。
「これは『踏み込み温床』。天然のヒーターだ」
「ヒーター?」
「ああ」
全員が首を傾げる。
「落ち葉と米ぬかに水を加えると、中の微生物が一斉に活動を始める」
「微生物?」
「そいつらが発酵すると熱を出す。その温度は四十度から五十度近くにもなる」
一瞬。
ハウスの中が静まり返った。
「……なに?」
ロエンが固まる。
「落ち葉が……熱を生むのか?」
「正確には、落ち葉を分解する微生物がな」
「つまり」
ロエンの狼耳がぴんと立つ。
「目に見えぬ命の営みを、冬野菜を守る暖房へ変えるということか……!」
「ああ」
「しかも春には堆肥になる」
「そう。一度で二度おいしい」
ロエンは、まるで宝物でも見るような目で踏み込み温床を見つめた。
「……美しい」
その一言には、心の底からの感動が滲んでいた。
「土は命を育て、命は熱を生み、その熱がまた命を守る」
震える手で落ち葉へ触れる。
「循環そのものが農具になるとは……」
「……たしかに」
シルフィも静かに頷く。
「自然を支配するのではなく、自然の巡りへ寄り添う技術か。エルフの思想にも通じるな」
俺は肩をすくめた。
「春になれば、そのまま最高の堆肥だ。一石二鳥ってやつだよ」
その瞬間だった。
ロエンがその場で膝をついた。
「えっ」
「コウタ」
真剣そのものの顔で俺を見上げる。
「お前に、一生ついていく」
「重い重い重い」
「俺は春が待ち遠しくて仕方がない」
「そこまで感動する?」
「ロエン、完全に農業で落ちたねぇ」
ガランが腹を抱えて笑う。
「コウタ様の『農業たらし』の才能は、本物ですね」
エルマまで真顔で頷いた。
「なんだよ、その不名誉すぎる称号は」
*
こうして、完璧なビニールハウスと踏み込み温床の完成により、俺たちの冬支度はいよいよ完全なものとなった。
ついでに手分けして雪かきも済ませ、ソーラーパネルの上の雪も払っておく。
やることをやった俺たちは、冷え切った体を引きずるようにして、暖房とコタツが効いたログハウスのリビングへ雪崩れ込んだ。
「はぁぁぁぁ……!」
エルマが真っ先にコタツへダイブする。
「こたつ! こたつ最高ですぅぅ! 外界は敵です!」
「さっきまで外で農業技術に感動してただろ」
「感動と寒さは別問題です!」
「潔いな」
「にゃあ……おそと、さむかったね、ポテト」
「ガウゥゥ……」
ミリィとポテトも、着る毛布に包まりながらコタツの端で丸くなる。
完全に猫と犬である。
いや、猫獣人と火竜の仔犬なんだけど。
「よし、お前ら」
俺は手を打ち鳴らした。
「冬支度の完璧な完了と、この村が誰にも邪魔されない『白銀の要塞』になったことを祝して、今日は冬の最強の御馳走を用意するぞ」
コタツで溶けかけていた住人たちが、一斉に顔を上げた。
「御馳走だと!? 冬の御馳走といえば……肉かい!?」
ガランがまず反応する。
「コウタ様! 糖分と塩分と脂が暴力的に融合した『じゃんく』を要求します!」
エルマも目を輝かせる。
「要求が俗っぽすぎるな」
シルフィが呆れたように茶をすすった。
「今日は肉でもジャンクでもない」
俺は不敵に笑った。
「俺の故郷の冬を象徴する、深海の王様だ」
「深海……?」
「王様……?」
「嫌な予感がするねぇ」
俺は『通販』のウィンドウを開き、潤沢なMPをつぎ込んで、巨大な発泡スチロール箱を二つ、どんっと召喚した。
ゴトン。
ズズン。
箱は白く、分厚く、外気よりもさらに冷たい空気をまとっていた。
表面にはうっすら霜がついている。
「なんだいこの白い箱は……」
シルフィが眉をひそめる。
「冷気が漏れ出ているな」
「いきもののにおいする〜」
ミリィが鼻をひくひくさせた。
「しかも……なんか、しょっぱい」
「海の匂いだな」
ロエンも低く呟く。
その時だった。
――ゴンッ。
箱の内側から、何かがぶつかるような鈍い音がした。
「…………」
全員が、固まる。
――ガサガサッ。
――ゴトッ。
「今、動いたよねぇ?」
ガランが引きつった笑みで言う。
「動いたな」
シルフィが真顔で答える。
「コウタ様」
エルマがじりじり後退った。
「私、こういう『中に何かいる箱』は経験上だいたいロクなことにならないと思うのですが」
「俺もそう思う」
ロエンがすでに腰を落としている。
「中にいるものが敵対的なら、開けた瞬間に制圧する」
「待て待て待て!」
俺は慌てて手を広げた。
「武器は置け! これは食材だ!」
「食材が箱の中で自発的に動くな!」
シルフィのツッコミが鋭い。
――ゴンッ!!
今度はかなり派手に箱が揺れた。
「にゃああっ!?」
ミリィが俺の背中へ飛びつく。
「こわい! こわい! 絶対こわいやつ!」
「ガウッ! ガウッ!」
ポテトまで警戒して小さく唸り始めた。
「……開けてみるぞ」
俺が言うと、
「いや待ちな! 一回、心の準備をさせておくれ!」
ガランがなぜか毛布を盾みたいに構えた。
「俺はもう準備万端だ」
ロエンが爪を半分だけ伸ばす。
「やめろって!」
俺は箱へ近づき、ガムテープを剥がした。
箱の中からは、さらに濃い潮の匂いと、冷たい海の気配が立ちのぼる。
そして、発泡スチロールの蓋を、ゆっくり持ち上げた。
その瞬間。
「ヒィィィィィィィッ!!???」
エルマが、盛大な悲鳴を上げて後ろへひっくり返った。
箱の中には、氷に囲まれながらも、まだはっきり生きている巨大な生物がいた。
大人の腕どころではない、丸太みたいに太い棘だらけの脚。
ごつごつとした凶悪な甲殻。
わずかに動く脚の先。
ぎょろりとした目。
まるで海の底からそのまま引きずり出してきた、赤い装甲の怪物。
「な、ななな、なんですかこの巨大な赤い化け物はぁぁっ!!?」
エルマが泣きそうな顔で叫ぶ。
「棘だらけの甲殻! 無数の太い脚! 動いてます! 生きてます! 魔界の深淵に棲む多脚の悪魔ですか!?」
「だっはは――」
と笑いかけたガランも、途中で表情をひきつらせた。
「いや待ちな。でかすぎるだろこれ!? アタシでもちょっと身構えるよ!?」
「……海という場所は、やはり理解不能だな」
シルフィが本気で一歩引いた。
「蜘蛛ではない。だが、蜘蛛よりも理不尽だ。森にはいない種類の嫌悪感がある」
「あしおおい……」
ミリィが俺の背中から半泣きで覗き込む。
「あしがいっぱいある……やだ……こっち見た……!」
「気のせいだ」
「見たもん! ぜったい見たもん!」
「俺も見た」
ロエンが真顔で言った。
「敵意があるかはわからんが、少なくとも『何かする気』は感じる」
「いや食材だからな!?」
箱の中の巨大ガニが、もぞ……と脚を動かした。
氷がカラカラと鳴る。
そのたびに、一同の肩がびくっと跳ねる。
「コウタ……」
ガランが、今度は珍しく慎重な声を出した。
「これ、本当に食えるのかい?」
「食える」
「本当に?」
「むしろ最高にうまい」
「こんな凶悪そうな見た目で!?」
「見た目に騙されるな。中身はご馳走だ」
「その理屈、海の底から来た怪物相手には信じたくないな……」
シルフィがぼそっと言った。
「これは『タラバガニ』だ」
俺は誇らしげに箱の中を指差した。
「深海の王様。冬の最強の味覚のひとつだ」
「……カニ、だと?」
ロエンが眉を寄せる。
「森の沢にいる小さなサワガニなら知っている。だが……海には、これほど巨大な甲殻類がいるというのか」
「ああ。しかもまだ序の口だ」
俺はもう一つの箱を軽く叩いた。
「こっちには別の種類もいる」
「まだいるのかい!?」
ガランが叫ぶ。
「やめてください! 一箱で十分すぎる恐怖です!」
エルマが涙目で抗議した。
だが、俺は容赦なく二つ目の箱も開けた。
こちらに入っていたのは、タラバガニほどの暴力的な太さこそないものの、より繊細で長い脚と、美しい朱色の甲羅を持つ巨大なカニ。
こちらも、氷の上でわずかに脚先を動かしている。
「こっちは『ズワイガニ』だ」
「まだ生きてるぅぅぅ!!」
エルマが再度絶叫した。
「なんで二種類も用意したんですか!?」
「フルコースにするためだ」
「発想が本気すぎる!」
「にゃあ……」
ミリィはもう完全に俺の後ろへ隠れていた。
「コウタ、これ……たべものっていうより……たたかうやつだよ……」
「安心しろ。戦うのは俺だ」
「もっとふあん!」
「だが、たしかに……」
ロエンが慎重にタラバガニを観察していた。
「この質量、この甲殻、この脚の太さ。海の生き物としては異常だ。……だが同時に、これだけ大きいなら、中の身も相当詰まっているはず」
「さすがわかってるな」
「……少しだけ、楽しみになってきた」
ロエンの耳がぴくりと動いた。
農家であり狩人でもある男は、「巨大な生き物=可食部も多い」という本能的な計算を始めたらしい。
「よし」
俺は腕まくりした。
「騒いでても仕方ない。こいつらは今から、冬のご馳走になってもらう」
「おお……」
「処刑宣言みたいになったねぇ……」
ガランが微妙な顔で言った。
*
そこから先は、完全に俺のショータイムだった。
大鍋に湯を沸かし、塩を入れ、巨大ガニたちを順番に下処理していく。
生きたカニが最後にわずかに脚を動かすたび、エルマとミリィが「ひぃっ」と声を上げ、ガランは「海ってやっぱり怖いねぇ」と笑いながらも若干距離を取っていた。
シルフィは腕を組み、「森の獣と違って目が読めない」と真顔で評し、ロエンだけが「……無駄のない構造だ」と妙なところへ感心していた。
やがて、火が通り、赤く鮮やかに茹で上がったタラバガニがまな板の上へ鎮座した時、さっきまでの『生きた怪物』は、一気に『圧倒的なご馳走感』をまとい始めた。
「おおおっ……!」
ガランが身を乗り出す。
「なんだい、急に、とんでもなく美味そうになったよ」
「現金だな」
「食欲は見た目に弱いんだよ」
俺は調理バサミを手に取り、太い脚へ刃を入れる。
バキッ。
チョキ、チョキ。
殻が割れる乾いた音とともに、中から極太の身が顔を覗かせた。
雪のように白く、ところどころ鮮やかな赤が混じる。
ぎっしり。
本当にぎっしり詰まっていた。
「……ほぉ」
シルフィが珍しく感嘆の息を漏らす。
「恐ろしい外見とは裏腹に、美しいな」
「外見で人生損してるタイプだ」
「かなりな」
俺は殻を半分だけ剥いた極太のカニ脚を、大皿へ山盛りにした。
「まずは、このタラバガニの脚をそのまま食ってみろ」
最初に手を伸ばしたのは、さっきまで一番ビビっていたエルマだった。
恐る恐る、でも食欲には勝てないらしい。
自分の顔の半分くらいありそうな太い脚を持ち上げ、ぱくっと白い身へかぶりつく。
その瞬間だった。
「…………」
エルマが固まる。
丸眼鏡の奥で瞳孔が一気に開いた。
「あ……」
数秒遅れて、
「あまぁぁぁぁぁぁぁい!!」
研究棟が爆発した時より大きな声だった。
「なんですかこれ!? 海の塩気の奥から、とんでもない甘味が押し寄せてきます! 噛むたびに旨味が溢れて止まりません! えっ!? えっ!? この怪物、こんな味するんですか!?」
「だから言っただろ」
その叫びを合図に、全員が一斉にカニへ手を伸ばした。
「んんんんッ!」
ガランが目を見開く。
「うっま!! なんだいこれ!!」
殻から身をスポンッと抜き、
「この感触も気持ちいいねぇ!」
さらにもう一本。
さらにもう一本。
「……ガラン」
シルフィが冷静に言う。
「まだ一分も経っていないぞ」
「気付いたら手が動いてたんだよ!」
ミリィも夢中だった。
「おいしい! あまい! カニさん、おいしい!」
さっきまで背中へ隠れていたとは思えない勢いで頬張っている。
「こわくないのか?」
ロエンが聞く。
「こわい!」
即答。
「でも、おいしい!」
「……なるほど」
ロエンは妙に納得した。
「食欲が恐怖に勝ったか」
「ミリィは大体そうなる」
俺は知っていた。
その頃には、さっきまで賑やかだった食卓が急に静かになっていた。
殻を割る音だけが響く。
バキッ。
チョキ。
スポッ。
もぐ。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋らない。
無言でカニを剥き、
無言で頬張り、
無言で次の一本へ手を伸ばす。
「……やっぱりそうなるか」
カニを食べる時、人は喋れない。
地球では常識だったが、どうやら異世界でも同じらしい。
「よし」
俺は満足げに頷き、卓上IHヒーターをコタツの中央へ置いた。
「タラバを堪能したら、次はズワイガニだ」
昆布出汁を張った土鍋へ、生のズワイガニ、白菜、長ネギ、豆腐を投入する。
ぐつぐつ。
湯気とともに、甘いカニの香りが部屋いっぱいへ広がっていく。
半透明だった身が、花が開くようにふわりと白く変わった。
「ほら、これがズワイガニだ。ポン酢で食ってみろ」
ロエンは静かに受け取り、一口。
「……っ」
ぴん。
狼耳が、音がしそうなくらい真っ直ぐ立った。
「タラバとは別物だ」
ぽつりと呟く。
「力強さではない。繊細だ。柔らかい。……そして、この出汁は危険だ」
「わかるかロエン」
「わかる。これは危険だ」
「なにが」
「食いすぎる」
「コウタ様!」
またしてもエルマが変なものを見つけた顔をしている。
「甲羅の中に、緑色でドロドロした魔女の薬みたいなものが詰まっていますが、これは捨てますか!?」
「馬鹿野郎! それはカニ味噌だ!」
俺は即座に訂正した。
「カニの最も美味い部分の一つだぞ!」
俺はカニ味噌を少し火にかけ、酒と醤油を垂らして香ばしく焼き上げた。
濃厚な磯の香りがふわりと立つ。
「この味噌へ、さっきのカニの身をたっぷり絡めて食うんだ」
「ま、魔女の薬じゃないんですか……?」
「違う。天国のペーストだ」
「表現が強いです」
言われた通りに、エルマがカニ味噌と身を絡めて口へ入れる。
そして、完全に白目を剥いた。
「あぁぁぁ……!!」
コタツの中で小刻みに震えながら、恍惚とした声を上げる。
「脳が、脳のシナプスが溶けますぅぅ……! この圧倒的なコクと磯の香り! この世のすべての珍味を過去にする、圧倒的な旨味の暴力です!!」
「お前は表現が毎回大げさなんだよ」
「でも気持ちはわかるよ」
ガランが真剣に頷いていた。
*
カニを骨の髄まで、いや殻の髄までしゃぶり尽くした俺たちは、最後に残った土鍋のスープへ白飯を投入した。
カニのエキスと野菜の甘みが限界まで凝縮された黄金のスープへ、溶き卵を回し入れる。
「締めは『カニ雑炊』だ」
俺が蓋を開けると、湯気と共に、言い逃れ不能な幸福の匂いが立ち上った。
「ずるい……」
シルフィがぽつりと呟く。
「なにがだ」
「カニだけでも十分だったのに、最後にその旨味を米へ吸わせるなど、勝ちすぎだ」
「文明の知恵だ」
「便利な言葉だな、それは」
一口食べれば、全員がまたしても無言になった。
カニの旨味を吸った米。
卵のやさしいまろやかさ。
出汁の深さ。
冷えた体の芯までしみわたる熱。
「……ふう」
ガランが、着る毛布に包まったままコタツへ突っ伏した。
「もう、何も思い残すことはないよ」
「さっきも似たようなこと言ってたな」
「うまいもの食うたび更新されるのさ」
「……外は凍えるような雪の世界だというのに」
シルフィが温かいお茶をすすりながら、珍しく心底リラックスした顔を見せる。
「この四角い布の中は天国だな」
「にゃあぁ……おなかいっぱい。カニさん……さいしょ、こわかったけど……おいしかった……」
ミリィは半分寝落ちしかけている。
ポテトも隣で丸くなり、もう夢の世界だ。
窓の外では、音もなく雪が降り積もり、俺たちの村を外界からさらに隠していく。
だが、ポータブル電源に守られた暖房、踏み込み温床で守られた畑、二百五十日分の食料、そしてこの騒がしい仲間たちがいれば、冬の脅威なんて大した問題じゃない。
春から冬へ。
季節が一巡りして、俺が『通販スキル』で目指してきたもの――誰にも邪魔されない、安心で安全な『究極の引きこもり生活』は、ようやくひとつの完成形へ辿り着いたのかもしれない。
「……最高の冬になりそうだな」
俺はコタツの温もりに身を委ねながら、静かにそう呟いた。
怖いほど静かな雪の夜。
けれど、このログハウスの中だけは、暖かくて、うるさくて、うまい匂いに満ちている。
たった一人で始めた引きこもり生活は、いつの間にか、こんなにも騒がしくて頼もしい『帰る場所』になっていたのだった。
……まあ、ひとつだけ問題があるとすれば。
「コウタ様……」
うとうとしていたエルマが、薄く目を開けて呟く。
「なんだ?」
「次に箱の中で生きている食材を出す時は……事前に言ってください……」
「善処する」
「絶対しないやつですね、それ……」
そう言い残して、エルマはまたコタツへ沈んでいった。
外は白銀。
中は天国。
冬は厳しい。
だが、それ以上に、この要塞は快適だった。
俺はゆっくりと目を閉じながら、この怠惰で幸せな日常が、春が来るまで――いや、その先も、ずっと長く続くことを心の中で祈るのだった。




